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第4話
「お夏、甘い物は用意してくれた?」
白帆とみつ豆を食べた翌日、舟而は、茶の間で醤油煎餅をかじりながら婦人雑誌を読んでいたお夏に訊ねた。
「ええ、カステラも羊羹もかりんとうも用意したわよ。そこで気になるのは、こんな甘い物を誰が食べるのかって話よねえ?」
目尻に黒目を寄せて見られて、舟而はお夏の手元から婦人雑誌を取り上げた。
「『五月のお惣菜料理』、『姑と嫁』、『経済的な買い物の仕方』、『子供に勉強のさせ方』、『髪をかわかす間に何ができるか』。僕の小説よりよっぽど難しいことが書いてある。女は大変だな」
舟而は婦人雑誌のページをめくり、活字に目を走らせる。
お夏は三日月形に目を細め、舟而の顔を覗き込んだ。
「二代目銀杏白帆さんが食べるんでしょう?」
舟而はお夏から顔を背け、黙って雑誌を読み続けた。
「昨日、胸が焼けて、お夕飯を食べられなかったのも、白帆さんと甘い物を食べたからかしら?」
頬を人差し指で突っつかれて、舟而は子供のように口を突き出す。
「僕だってたまにはみつ豆を食べたいと思うことがあるんだ」
「ふうん。みつ豆を食べたの。甘い物嫌いな舟而先生がみつ豆を食べるなんて、よっぽどのことね」
舟而は雑誌を閉じて、お夏にぐっと突き返した。
「日日 新報 の日比 君が来たら、客間に待たせてくれ。僕の書斎には絶対に入れるな」
「どこ行くの?」
「散歩!」
「白帆さんをお迎えに行くの?」
「しないよ、そんなこと! 日にちを決めた約束をしている訳ではないんだからっ!」
下駄に足を突っ込みながら、舟而は苛立った様子で答えた。
「もう。そんなに待ち遠しいなら、甘い物ありますって、軒先にキャラメルでも吊るしといたら?」
舟而は何も言わず、肩をいからせて家を出て行った。
「ほんっと、素直じゃないんだから」
お夏は腰に手を当てて盛大にため息をついてから、気持ちを切り替えて夕食の下ごしらえに取り掛かった。
今夜は好物のコロッケでも作ってあげましょうかと、じゃがいもの皮をむいていたとき、玄関の戸がガラリと開いた。
「ごめんください。日日新報の日比です」
「はあい、ただいま!」
背の高い日比が不思議そうな顔をして、夏を見た。
「軒先に凧糸で括ってぶら下げてあるキャラメルは、何のおまじないですか?」
お夏は一瞬だけ見開いた眼をすぐ三日月形に細めた。
「ふふふ。叶うまでは内緒です」
キャラメルが神通力を発揮したのは、十日も経ってからのことだった。
舟而は表情を消していつも通りに朝食を済ませ、日課の散歩ついでに弘法さんに手を合わせ、軒先のキャラメルを睨みつけてから、ため息をついて書斎にこもり、原稿用紙に文字を書きつけていた。
「ごめんくださいまし。銀杏白帆と申します」
掠れた声が聞こえ、お夏より早く舟而が玄関に出た。
「やあ、白帆。どうぞお上がり」
書斎から転がり出たくせに、キャラメルをぶら下げた気持ちなどおくびにも出さず、白帆を書斎へ案内する。
「仕事中で、散らかっているけど」
頑張って片づけた部屋を謙遜しつつ、ふかふかの座布団を勧めた。
「本を読みに来たんだろう? ここに座って、何でも好きなものをお読み」
「先生……」
白帆が掠れた声で舟而に呼びかけた。
「何だい」
軽い気持ちで振り返って白帆を見たが、白帆は畳の上に直接座り、左右の袖をさっと払うと、膝の前で手をついた。
「先生、お願いでございます。私を女にしてください」
「は?」
舟而は自分の耳を疑って、白帆に向かって顔を突き出した。
「私を女にしてくださいっ!」
白帆は畳に擦り付けるほどに頭を下げていた。
この子の病気を治してください、そう言うときの母親と同じ、聞く側の鼓膜がびりびりと震え、呼吸が苦しくなる響きだった。
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