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第10話
「さよ でしたか。お夏さん、お辛かったでしょうね。お気持ちを想像するだけでも胸が痛みます」
白帆は自分の胸を両手で押さえ、とても悲しそうな顔をした。
「そうだな。夏はしばらく変な様子だった。突然泣いたり、苛立ったり、そうかと思うと機嫌がよかったり。僕には次の瞬間にお夏がどんな顔をするのか予想がつかなくて、難しかった。今はもう落ち着いているから、心配しなくていいけど」
「先生も大変でらっしゃいましたね」
「うん、まあ。でも、小さな村で生まれたときから知ってるし、家族みたいなものだよ。だから夏のことは最後まで面倒を見ようと思ってる」
舟而は小さく白帆に笑いかけた。
「そういう訳で、生い立ちや結婚や子供のことは、お夏が自分から仕向けない限り、そっとしておいてやってくれないか」
「かしこまりました。お話を伺っておいてよかったです。お夏さんは身のこなしや着物の着方がとても粋だし、お顔立ちもおきれいだから、訊いてみたく思ってたんです。不用意なことを言ってしまうところでした」
「気を使わせて悪いね。でも、お夏ちゃんは姉のように信頼できる人だから」
「はい。私もさっそく頼りにさせて頂いてます」
微笑みを交わし、おやすみなさいと布団に潜り込んだ。
朝から「女にしてください」と駆け込んできて、書生として収まるまで、白帆にとって慌ただしい一日だっただろう。
白帆は枕に頭を乗せるとすぐに深い寝息を立て始めた。
薄く唇を開いた寝顔はあどけなく可愛らしく、布団から出た手は白くて美しい。
この布団から出ている手を自分の布団に引き入れたい、いっそ全身を温めてやりたいなどと考えつつ、舟而は懸命に目を閉じて、眠気が訪れるのを待った。
明け方、舟而は充分には眠れないまま、まだ隣の布団で静かに寝ている白帆を起こさないようにそっと布団を出て、夜気で冷え切っている紺絣と小倉袴に着替え、紺足袋に下駄を履いて門の前に立った。
配達夫から待ちわびた朝刊を直接受け取ると、その場で文化欄に目を走らせる。
「やっぱり、やりやがった!」
下駄を脱ぎ捨てて玄関へ駆け上がり、廊下を踏み鳴らして書斎へ駆け込んだ。
「作者が書いたものを、しかも結末を変えるっていうのはどういう了見だ! 僕がこれを読む前に続きを書いていたら、どうするつもりなんだ!」
まだ明けきらぬ北の空は紺色が残り、名残の星が光る。
静かな家の中で、掲載された『芍薬幻談』を三遍読み返し、鉛筆を握って、苛々と原稿用紙に向かった。
「失礼致します」
寝間着姿のまま、白帆が駆けつけてきた。
「すぐにお茶をお持ちします」
言いながら、自分が羽織っていた綿入れをそっと舟而の肩にかけ、台所へとって返す。
一連の流れが全く舟而の集中力を途切れさせず、空気を乱さず、気配を消して立ち回るのも、舞台の上で鍛えられた役者の身のこなしと思われる。
目が覚めるよう濃く淹れた煎茶を一杯、机の奥に置く手に声を掛けた。
「ありがとう」
「頑張ってください」
頬にそっと白帆の唇が触れた。気づいて顔を上げたときには書斎には舟而しかいなかった。
舟而は頬の感触を指先でそっと押さえると、力んでいた肩を緩め、綿入れに移された白帆の体温を感じながら、飲み頃の煎茶に口をつけた。
窓の外はようやく明るみ、身体も温まって、怒りも和らいできた。
「新聞に載ってしまったものは仕方がない。新しい展開を書こう。主人公と共に先の見えない道を往くのもいいじゃないか」
百花園での謎めいた逢瀬は、書き手の舟而にとっても謎のまま、池のほとりに突然水仙の花がすっくと咲いた。
「ナルキッソスか。何が起こる?」
主人公と同じ気持ちで池の中をのぞき込んだ。
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