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第31話
白帆は舟而の首に腕を絡め、頬に自分の頬をくっつける。
「しゅっぱーつ、ぽっぽー!」
前方を指さして号令をかけると、舟而は白帆をおぶって笑いながら歩き出した。
「きーてきいっせい 、新橋をー」
鉄道唱歌を舟而が口ずさみ、白帆もかすれた声で一緒に歌う。
「はや我、きーしゃ は、離れたりー」
二人とも高音は掠れたが、構わずに歌った。
「愛宕 の山に入り残る、月を旅路の友として」
楽しく歌っていたら、白帆の片足から、まだ鼻緒が馴染まない下駄が脱げた。
「あっ」
「もし、落とされましたよ!」
すぐに下駄を持って追いかけてくれる人があり、舟而が白帆を背負ったまま振り返ると、日比だった。
「日比さん、ありがとうございます」
白帆は舟而の背中からするすると降りた。
「さっき買って頂いたばかりの下駄なのに、失くしたら大変」
舟而の手に掴まりながら、白い鹿革の印伝の鼻緒に足を差し込んだ。
「目の詰まった、いい桐下駄ですね」
「はい。先生が買ってくださいました」
「江戸の昔なら、櫛を渡していたんだろうけど、一緒に苦 労して死 ぬまで添い遂げてくれなんて、僕は白帆には言いたくない」
「そうですか? 引き受けてもよござんすよ。共に苦労致しましょう」
白帆はおかっぱ頭を揺らして明るく笑った。
「何を言ってるんだ、白帆じゃ頼りなくって!」
二人の会話を日比は黙って聞いていた。
客間に落ち着いた舟而と日比に、白帆が煎茶を出し、襖を静かな音を立てて閉めて行くと、突如、舟而は日比に向かって頭を下げた。
「申し訳ない。今までずっとぐずついてきたけど、僕はようやく心を決めた。僕がだれてしまったせいで白帆を困らせたし、日比君にもその迷惑が行ったと思う。嫌な思いをさせて済まなかった」
頭を下げる舟而の姿に日比は刮目し、それから少しずつ表情を和らげた。
「まったくです。白帆さんを好いと思っていたのに」
「申し訳ない。日比君が白帆に好意を寄せてくれているのは、重々承知している」
日比は唇を引き結び、強引に左右の口角を引き上げると、銀縁眼鏡の奥の目を細めて見せた。
「先生が白帆さんをぞんざいに扱うようなことがあれば、わたくしはいつでも白帆さんを頂戴しに伺います。原稿と白帆さん、容赦なく両方とも頂きますから、そのおつもりで」
「わかった」
「年末にこの連載が終わったら、先生の驕りで一杯頂きましょう」
「ああ、そうしよう」
二人は酒のように煎茶を飲み干し、原稿を受け渡しして座を立った。
「ご苦労様でございました」
白帆はいつも通りに帽子を渡し、靴べらを差し出し、かいがいしくして門の外まで日比を見送った。
「道中お気をつけて」
白帆の言葉掛けに、日比はくるりと振り向いた。
「キャラメルには声をよくする効果もあるのでしょうか。今日は掠れてはいるが、それでもとても明るい澄んだ声をしていらっしゃる。お顔つきも明るいし、新しい下駄もお似合いです。よかったですね」
「さ、さよですか、嬉しいです」
「舟而先生に意地悪されることがあったら、いつでも私のところへいらしてください。御簾 を上げてお待ち致しております」
「ありがとうございます。でもお気持ちだけで。私は地獄までも先生について参りますから」
白帆はおかっぱの黒髪を揺らして微笑んだ。日比は頭の上の帽子を軽く持ち上げると、白帆に背を向けて歩き、煙草屋の角を曲がって見えなくなった。
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