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第32話
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「わあ! お見合い!」
白帆は口の前で両手を広げ、ちゃぶ台の上に広げられた見合い写真と釣書を覗き込んだ。
台風が多い時期を過ぎて、空が高くなる頃、お夏は新橋から縁談を持ち帰ってきた。
「そうなの。芸者をしていたときの置屋の女将さんが、あたしの親代わりになって世話してくれたの」
白帆は、写真の中の穏やかな表情をした洋装の紳士と釣書を見比べる。
「へえ、温泉旅館の若旦那ですか。お夏さんだったら若女将に適任ですねっ。でも、十五歳も年上」
「十五歳くらい大したことないわよ。それにあたし、そのくらいしっかりした年上のほうがうんといいの。舟ちゃんみたいな年下は手がかかってばかりでだめよ」
一緒に見合い写真と釣書を見ていた舟而が、また僕が被弾したと言わんばかりにお夏を睨め上げる。
「ねぇ、お夏ちゃん。その〝舟ちゃんみたいな〟は、年下ってこと? 手がかかるってこと? それによって僕はどういう顔をするか決めるけど」
「両方よ! 舟ちゃんみたいな年下は、舟ちゃんみたいに手がかかるから、ダメなの!」
舟而は、ちゃぶ台に頬杖をつき、ため息と同時に口を突き出して、白帆は手で口元を覆いながらも遠慮なく笑った。
「白帆ちゃんは、一緒に着物を見てちょうだいな。何を着ていこうか迷ってるのよ」
「わーい! そういう楽しいお手伝いは大好き!」
見合いの日、お夏は葡萄酒色のぼかしに大輪の菊が咲き誇る訪問着で身を包んだ。紫蘇紫色の染め疋田 の羽織がお夏の粋に上品さを上乗せする。
緊張して白くなる顔に血色を補うのと同時に、襟元や袖口からのぞく肌の美しさを際立たせる計算をして、白帆が見立てた姿だった。
「お夏さん、俥が来ました!」
白帆が呼ぶと、夏は真っ白な足袋を履いた足で玄関まで歩いて来、舟而が差し出した手に掴まって、踵の高い草履につま先を差し込んだ。
「それじゃ、行って参ります」
「見合いなんて何度でもすればいいんだから、変な妥協はするなよ」
舟而の言葉に、お夏は三日月形に目を細めた。
「いってらっしゃいまし!」
大きく手を振る白帆に、お夏は微笑み小さく手を振って、俥は煙草屋の角を曲がって行った。
「先生、お地蔵さんにお参りに行きませんか」
「お地蔵さんなんてどこにいるんだい」
「弘法さんのお寺です」
舟而がいつも手を合わせている本堂を回り込んだ先、榎の大木の下に小さな地蔵菩薩を祀った祠があった。
「こんな場所に地蔵菩薩を祀っているなんて知らなかった」
「お夏さんは、ここでいつも亡くなった旦那さんと、お子さん、それから舟而先生と、私のことまで、手を合わせてお願いしてくださってるんです」
「まったくの初耳だよ」
「私もつい最近、偶然お夏さんとここで鉢合わせて、こちらへお参りされていることを知りました」
この地蔵菩薩は、どのくらい昔からここにいるのか。目鼻立ちもわかりにくい、石の塊のような姿になっているが、赤いよだれかけは真新しく、新鮮な水と菊の花が供えられていた。
「いつもお夏さんに手を合わせて頂いてますから、今日は私たちがお夏さんの良縁を願って一緒に手を合わせませんか」
白帆は右足を一歩引いてすらりとしゃがみ、舟而もその隣にしゃがんで、二人で静かに手を合わせた。
白帆は心の中で元気よく『お夏さんが良縁に恵まれますように!』と三遍唱えて目を開けたが、舟而はかなり長い時間瞑目した。
お夏は十歳で売られて故郷を離れ、新橋で芸者になって、結婚して、あらしの日に増水した川で夫を亡くし、お腹の中の子も流れた。
お夏の歩んできた道を知る舟而は、きっと地蔵菩薩に頼みたいこともどっさりあるだろうと白帆は察する。
姉弟みたいなものと言うが、二人は本当にそんな気持ちで互いを思っているのではないかと思う。
合掌を解いてなお地蔵菩薩を見つめる舟而に、白帆は慰めるように言った。
「先生は、お夏お姉さんがお嫁に行っちゃったら、きっと寂しくて泣いてしまいますね」
「僕が? 泣いたりなんかしないよ。ただ、今度こそお夏を幸せにしてくれる男がいいと願うばかりだ。今まで、お夏は男運がよくなかったからね。今度こそ三度目の正直となってもらいたいものだよ。さあ、風が冷たいから、ぜんざいを食べに行こうか」
「わーい、竹園の粟ぜんざい!」
白帆はぱちぱちと盛大な拍手をした。
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