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第33話
お夏の縁談はトントン拍子に進み、相手が旅館を営む五面 温泉へも実際に足を運び、お夏は先方の両親にいたく気に入られたと喜んで帰って来た。
「よかった、よかったと言って頂いたの。こんな私でもお役に立てるところがあると思うと勇む気持ちだわ。今度の日曜日には、彼が挨拶に来ますって」
白帆は大掃除を先取りするつもりで、徹底して掃除に励み、障子紙まで貼り換えた。
「書斎はいいだろう。午後には日比君が原稿を取りに来るんだ」
舟而は万年筆を持ったまま、仁王立ちの白帆を見上げるが、白帆は書斎の外を指さした。
「原稿用紙と万年筆を持って、茶の間へおいでなさいませ!」
「茶の間っ?」
舟而は仕方なくちゃぶ台の上で原稿書きをする。その間も白帆は廊下をバタバタと雑巾を押して往復した。
「あんまり磨くと、家が削れてなくなってしまうよ、白帆」
「私の掃除など、猫の爪とぎにも及びません!」
舟而がため息をつく隣で、白帆は敷居の隅を竹串の先でほじくっていた。
原稿を取りに来た日比も茶の間へ通される。
「白帆さん、ご精が出ますね」
客間の畳を庭に運び出し、威勢よく引っぱたいている白帆の姿に、日比は茶の間から身を乗り出して声を掛けた。
「せっかくのご縁談が、家の中がよごれてるからなんて理由でご破算になっちまったら、おおごとです!」
手拭いをあねさん被りにし、両袖をたすき掛けして、忙しそうに立ち働く姿に
「お手伝いしましょうか」
などと点数稼ぎを言ったものだから、日比は原稿を持ち帰らねばならない時間いっぱいまで、畳を運ばされ、床に元通りに敷き詰めて高さを合わせるのにつき合わされた。
「日比君、白帆の掃除は邪魔こそすれ、手伝うなんて絶対に言っちゃだめだよ」
舟而は茶の間で信楽焼の湯呑茶碗に口をつけながら、静かに日比に忠告した。
夕方になっても白帆は家じゅうの畳表を糠袋で磨き、濡らした新聞紙でガラスを磨いた。
「家の中はきれいになっても、お前さんは真っ黒けじゃないか」
舟而は白帆を風呂に連れ出し、洗い粉をつけて丹念におかっぱの黒髪を洗ってやり、さらに石鹸を付けたへちまで全身を擦ってから、糠袋で丁寧に磨いてやった。
再婚相手の若旦那は、写真の中と同じ洋装をしてやって来た。
舟而と若旦那は互いに口上を述べて堅苦しい挨拶を交わし、白帆は、舟而とお夏に「何人のお客さんが来るのか」と笑われたほど、悩んで選べずに買い込んできた茶菓子を並べた。
若旦那は写真で受ける印象よりも小柄で、身体も細かったが、身のこなしは軽く、姿勢がよくて、話す声に深みがあった。
白帆は桜湯をそれぞれの前に並べながらにこにこした。
「温泉旅館の若旦那じゃなかったら、ウチの舞台に一緒に立って頂きたいよな方ですね。身体や視線の動かし方が磨かれてます」
白帆の言葉に再婚相手は肩を震わせ、目を丸くして見せてから笑った。
「お客様の目に磨かれるという意味では、温泉旅館も同じかも知れません。毎日お客様と接していますから」
「なるほど、そういうものなんですね。お夏さんもお嫁に行かれたら、ますます磨かれて、目も眩むようになっちまいますね」
白帆は笑顔を輝かせて話し、お夏は袖で口元を隠した。
桜湯に口をつけ、世間話も一段落したとき、舟而が背筋を伸ばし、静かに口を開いた。
「お夏に、真心と思いやりを持って接して頂けますか」
再婚相手も茶碗を茶托へ戻し、舟而と同じように背筋を伸ばした。
「はい。そのように致します」
「……お夏を、どうか、どうかお願い致しますっ!」
舟而は畳に額が擦れるほど深く、深く、頭を下げた。
お夏はこらえきれず、真っ白なハンケチを口に当てて嗚咽を漏らした。
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