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第35話

 お夏の嫁入り仕度はとてもあっさりしていた。 「箪笥も鏡台も姿見も、全部あちらで用意してくださってるの。着物もあちらのお母さまが若い頃に着たものがたくさんあるから、あとは気に入った着物だけ持ってきてくださいって言われてんのよ。だから持って行かない着物は新橋の女将さんに使ってもらうことにしたわ」  お夏は三日月形の目を細めた。 「舟ちゃんと白帆ちゃん、これもらってくれない」  舟而と白帆が何を言うよりも先に、紬の反物を二本、差し出されてしまった。 「あ、ああ。ありがとう。落ち着いた色で長く使えそうだ」 「わあ、矢鱈(やたら)(じま)! 大切に使わせて頂きます」  受け取ってから、舟而と白帆は目交ぜして頷き合った。 「ええと。新しい着物はもういらないかも知れなくて、さらに反物をもらってしまったから、出しにくいんだけど」  舟而が反物の包みを差し出すと、お夏は明るく笑った。 「私たち、気が合うのね! 以心伝心だわ」 「そう思ってくれるならよかったよ」 「ありがとう。立派な綸子ね」  お夏は反物を広げ、両手の上に渡した純白へ静かに目を落としていた。  それから顔を上げて三日月形に目を細め、舟而と白帆に等分に笑いかける。 「でも勿体ながらずに、遠慮しないで着させてもらうわね」  その夜、お夏の部屋はいつまでも明かりが灯っていた。 「あら、白帆ちゃん、まだ起きてたの」 「ええ、喉が渇いちまって」  紅葉模様の寝間着に伊達締を結んだお夏と、偶然土間で鉢合わせる。  ちらりと見えた部屋の中は、電灯が低くおろされて、畳の上には白い反物が広がり、針箱が開いて、くけ台が出されていた。 「お夏さん、眠れないんですか」  白帆の問いには答えず、お夏は白帆の手を取って、両手で包み優しく撫でた。 「白帆ちゃん。お世話になりました、ありがとうね」 「そんな。私の方がお礼を言わなけりゃ。こちらこそたんとお世話になりました。ありがとうござんした。お里帰りしてくださるの、待ってます」  お夏は俯いたまま小さく首を傾げた。 「白帆ちゃんがしっかりしているから、舟ちゃんを任せて安心して行けるわ。あたしが家を出て、舟ちゃんと白帆ちゃんの二人になっても、変わらずに仲良くしてね。舟ちゃんも白帆ちゃんも、あたしの大切な可愛い弟。ずっとずっと。お願いよ」  涙が一粒、白帆の手に落ちた。 「お夏さん」 「いざとなると湿っぽくなっちまって、だめねぇ。でも明日は泣かないわよ」 「はい。私も笑顔でお見送りします」 「お互い、幸せになりましょうね」  二人は小指を絡めて約束をした。  若旦那が上野駅まで迎えに来て、舟而と白帆はお夏を上野駅まで送って行った。 「どうぞお夏をお願い致します」  深く頭を下げる舟而の隣で、白帆も一緒に心を込めて頭を下げた。 「はい。真心と思いやりを持って、大切に致します」  若旦那も応えて頭を下げた。 「舟ちゃん、白帆ちゃん、これ昨日の夜、作ったの。一つずつどうぞ。お達者でね。いつまでも仲良くしてね。白帆ちゃん、舟ちゃんのことをくれぐれもお願いね」  お夏が舟而と白帆の手に一つずつ渡したのは、昨日舟而がお夏に渡した雲紋様の白い綸子の小布でできた、お守り袋だった。  把手つきの柳行李ひとつで汽車に乗ったお夏と、プラットホームに立つ舟而と白帆は、互いに見えなくなるまで、笑顔で手を振り続けた。 「夜遅くまで縫い物をしていたのは、これだったんですね。大切にしよう」  白帆は白い綸子のお守り袋を胸にあてた。  お夏を見送ったあと、上野で動物を見たり、ミルクホールでシベリヤを食べたりして遊び、夕暮れ過ぎに雷門の電停で市電を降りて吾妻橋を渡った。 「お夏さん、もうあちらで落ち着いた頃合いかしら。ねぇ先生、お地蔵さまにご挨拶して行きませんか」  すでに扉が閉まっている本堂前で手を合わせ、本堂裏の榎の下にある地蔵菩薩の祠へ行く。 「お夏さん、仕事を覚えるまでは気ぜわしいかも知れませんね」 「お夏は要領がいいから、すぐに飲み込んで、上手くやっていくのじゃないかな」  赤いよだれかけを着けた地蔵菩薩の前で、白帆はいつもと同じように右足を一歩引いて腰を落とし、屈んだ。 「あっ!」  白帆は前のめりに地面に手をつき、舟而は咄嗟に白帆の肩を掴んで支えた。 「相済みません。……ああ、嫌なこと。鼻緒が切れちまってる」  舟而に買ってもらった繁柾の下駄にすげた、白い印伝の鼻緒が千切れていた。 「屈むときも座るときも、まず右足を引く癖がついてるから、右の鼻緒は切れやすいんですけど。どうにも縁起が悪くて嫌ですね」  役者は縁起を担ぐ習性があるから、白帆は本気で眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げて嫌悪する。 「お地蔵様の前で切れたんだから、厄落としだろう。よくよくお参りして、鼻緒は店にすげてもらいに行けばいい」  舟而は手拭いの端を裂き、よじって細くして五銭銅貨の穴に通す。その銅貨を手拭いが抜けないつっかえにして、両端を下駄の裏から表に通し、鼻緒を結ぶ応急の処置をしてやった。  二人で改めて地蔵菩薩に向けて手を合わせ、お夏の新しい暮らしの幸せを願った。

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