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第41話

「先生っ、何をなさっているんですか!」 「余所へ迷惑をかける物は残さない方がいい。お夏は女中の仕事に飽きて暇乞いをして、五面温泉でもう一度芸者になると言って出て行った」  白帆の父親や竹之介に説明した筋書きを舟而は口にする。 「お夏が書いた住所を頼りに郵便を送っても返ってくるので、不審に思って僕の担当する日比君に調べてもらったところ、この地方版の小さな記事に辿り着いた」  舟而は淀みなく話した。 「いいかい、白帆。誰に何を聞かれても、僕と夏以外の名前は出すんじゃないよ。役者なら、ここ一番と思って演じてくれ」 「はい」  ポケットからキャラメルを取り出して白帆に差し出す。 「さあ、お夏を迎えに行こう」  警察署は、駅から海へ向かう街道の辻のところに建っていた。  松林が始まる境で、針のような緑を背負って、冷たいコンクリートを剥き出しにして、厳めしく構えている。  白帆にとっては、玄関に向かう十段ほどの階段が権威の高さに思えて気圧されて、通りかかった制服と制帽の男性にじろりと睨まれ、下がりそうになる足を踏ん張った。  舟而はまったく落ち着いていた。 「この新聞記事に書いてある女性が知り合いではないかと思いまして、こちらへ伺いました」  日日新報の地方版を見せると、奥から出て来た背広の初老男性が、鋭い目つきで舟而を睨め上げる。 「あんた、どちらさん?」 「東京で小説家をしています、渡辺舟而と申します。日日新報で『芍薬幻談』という話を書いています」  舟而はまず自分の名刺を差し出した。 「ふうん。『芍薬幻談』は、わしも読んでます。ただ、あなたが本当の渡辺舟而さんかどうかってのは、わかりかねますなぁ。新聞で渡辺舟而という名前を見て、名乗っているかも知れない」 「日日新報本社、文化部記者の日比さんから、名刺を頂きました」  日比から受け取った名刺を出すと、自分の顔から少し遠ざけて目を細めた。 「ふむ。で、どうしてこの新聞の女を知り合いだと思ったんだね」 「この嘘の住所と、返送されてきた葉書です」  白帆が書いた宛先の上へ返戻の付箋が貼られた葉書を見せた。 「そちらの坊やは?」 「東京浅草、躍進座の二代目銀杏白帆と申します」 「役者?」 「はい、女形を勤めております」  白帆は自分の名刺を持たないので、日比からもらった名刺を両手で淑やかに差し出して見せた。 「白帆は、今は声変わりで役が付かないので、書生として僕のところで預かっています」 「ふうん。で、あんたとこの女はどういう間柄かね」 「僕の同郷で、しばらく僕の家で女中として働いていました。芸者になると暇乞いを言ってきたので、(はなむけ)に綸子の、この反物を渡しました」  舟而がお守り袋を差し出すと、背広はつまみあげてとみこうみした。 「詳しく話を聞かせてもらおうか。おい、お座敷にご案内だ!」  案内されたのは、お座敷には程遠い、じめじめとしたコンクリートの小間だった。  壁も床も天井も全部が冷たいコンクリートで、高い場所にある小さな窓には鉄の棒が等間隔に嵌っていて、とても居心地がいいとはいえない。  しかもどこかの部屋からは、喧嘩している猫のようなぎゃあぎゃあいう女の叫び声が聞こえてくるし、舟而は白帆と引き離されて奥の方へ連れて行かれてしまった。  白帆は丹田にぐっと力を込め、一人コンクリートのお座敷に用意された粗末な椅子に座った。  目つきの悪い背広は舟而を連れて行ったので、白帆の前には羽二重餅のような若い男が座る。 「安物の茶ッ葉だけど、よければ」 大量生産の(やす)い茶碗に淹れた色の薄い茶を出してくれた。 「さて、躍進座の二代目銀杏白帆さん。決まりなんでね、戸籍を調べさせてもらったよ。本名も銀杏白帆さんっていうんだね」 「はい。私が生まれたときに、初代の次兄が、当たり役に恵まれる運のいい名前だってんで、私にこの名前を譲ってくれたのだそうです」 「ほう、ほう。初代の弟さんなのか。てっきり息子さんかと思ってたよ」 「年が離れていますので、よくそうおっしゃる方があるんですけども兄弟なんです」 「初代も本当にいい女形だねぇ。水も滴るってのは、お兄さんのことだよ。二代目のあなたはすっきりした水仙の花みたいに美しい」  羽二重餅は目も口も糸のように細くして笑った。

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