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第61話

 心地良い疲労で布団に沈むように深く眠った舟而は、音が鳴り始めるのと競争するように目覚ましを止め、細心の注意を払って身体を起こす。  すぐ隣に寝ている白帆は、出会った頃より大人びた顔立ちになったが、汗ばんだ頬に黒髪を貼り付け、薄く唇を開けた寝顔のあどけなさは変わらない。 「可愛い奴め」  舟而は片頬を上げると手を伸ばし、頬に張り付いた髪を指先でそっと剥がしてやった。 「さて、渡辺舟而たるもの、白帆を疲れさせた責任の一つもとろうではないか」  布団からそっと抜け出て洗面を済ませ、身なりを整えて、割烹着へ袖を通した。  白帆が使いやすいように図面を引いた台所に立ち、ボウルの中へ米を一升量って流しへ運ぶと、水道の水を一気に注いで捨ててから、改めて水を入れ、手のひらを押し付けて米を研ぐ。  銀杏家の人々が群がって教えてくれて、瓦斯炊飯器の使い方を身につけてからは、舟而でも失敗なく米が炊けるようになった。  さらには前の晩から鍋に張った水へ、頭とはらわたを取り除いた煮干を入れ、一晩置いて出汁をとるという方法も教わって、味噌汁まで作れるようになった。 「あのちか子先生を非難するつもりはないが、あんな不親切な本を読むより、直接教わるほうが身につくのは早いな。味噌の分量だって、このくらいと目に見えて教わることができるんだから。百聞は一見に如かずだ」  首を振り振り、舟而は(しじみ)が口を開けた汁の中へ、味噌を溶き入れた。 「ふむ。僕はなかなか飲み込みのいい性質のようだ」  味見をして満足していたら、勝手口の扉が叩かれた。  開けると、長兄が経木の包みを差し出してくれる。 「おはよう、先生。豆腐屋へ行ってきたから、ついでに油揚げのお裾分け」 「ありがとうございます」 「白帆は元気にしてる?」 「はい。そろそろ起きてくる頃だと思いますけど」  舟而が廊下の方を見遣るのを、手を振って押し止める。 「いいよ、いいよ。寝かしといてやって。今月も面白いお役をもらって楽しそうにしてるの、ちゃんと観てるから」 「観て頂いたんですか、ありがとうございます」 「白帆には内緒にしとくれ、また怒られる」  夏の朝の光に目を眇めながら笑い、長兄は片手を挙げて帰って行った。 「銀杏座の看板役者はひと睨みで家が建つって言うけど、本当かも知れないな」  油揚げも焼けるようになった舟而は、ちゃんと湯を沸かして、笊(ざる)に並べた油揚げの上へ熱湯をまわしかけてから、焼き網の上に油揚げを置く。 「おはようございます、先生」 「ああ、おはよう白帆。よく眠れたかい」  襟元を固く合わせた白帆が台所へ顔を出したときには、焼いた油揚げに刻んだ茗荷まで添えられていた。  八月は大御所の役者が軒並み夏休みで、若手にとっては日頃手の届かない大役を演じたり、あるいは意欲的な作品を上演したりする絶好の機会となる。  白帆もこの八月が楽しみで、若手仲間と何か月も前から話し合っていた。 「世話物の喜劇なんてやってみたいね」 「白帆ちゃんの好きな『身替座禅(みがわりざぜん)』をやるかい?」 「あれは前にやったもの、それよりもっと意味の深い、泣き笑いできる喜劇がいい」 「どこにそんな脚本があるんだい?」 「えーっと……」  白帆は目の端で伺うように舟而を見る。舟而は目を弓形に細め、素直に肩の高さに両手を上げた。 「いいよ、書いてやろう。躍進座だから大負けに負けておくよ」 「わーい!」  胸の前でぱちんと手を合わせて白帆は笑う。 「僕もたまには思い切った喜劇を書いてみたい。八月の舞台に掛けるならちょうどいい」

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