62 / 94

第62話

 外題(げだい)は『紅屋夏夜騒(べにやなつのよのゆめ)』で、主役は白帆扮する若い女の幽霊。化粧が好きで、紅屋の若い番頭の枕元に夜な夜な現れる。  幽霊は白い顔へ白粉を塗り、さらに鼻筋を高く見せようと、鼻の上へこてこてと刷毛を動かし、番頭は幽霊の顔を覗き込んだ。 「お前さん、もともと白い顔だのに、白粉なんか塗ってどうするんだい?」 「生きてた頃はりんごみたよな真っ赤な頬で、野暮ったくて、大層嫌だったんですよ。死んでようやく白い顔になったんです。嬉しくって! お化粧のしがいもあるってもんですよ」 「そりゃ、血が通ってないんだもの、白くもなるだろうけどさ。そんなに白粉を塗りたくったら、幽霊の上塗りだよ。少しは紅も差しなさい。……いやいや、そんな塗り方をしたら、折角死んだのにりんごのほっぺに逆戻りだろう」  世話を焼いてやるうちに、若い番頭は夜が待ち遠しくなる。  幽霊も、まだ人が寝静まる前から紅屋の中をうろつき始め、隠そうとする番頭と、出ようとする幽霊のバッタン、バタバタ、天井から出ては壁に消え、すっぽんから現れ、背中に隠れ、仏壇から顔を出す。  あまりのケレン味たっぷりな脚本に幽霊も黒子も移動が追いつかず、壁を背に後へ倒れ込むようにして消えるつもりが取り残されて、お淑やかなはずの幽霊が、つま先を外に向けて歩き、大道具の裏をのぞき込み、 「ちょいとあんた、しっかりやんなさいよ。嫁さんもらったばかりだからって、浮かれるんじゃないよ。しっかりおし、しっかり!」  声変わりした男の声でどやす。  女と男、幽霊と白帆、舞台の表と舞台の裏、様々な虚と現実が入り乱れ、気付けば舟而の思惑通り、幻の世界に入り込んで、観客たちは幽霊の身の上話に袖を濡らす。 「行かないでくれ! 俺も幽霊になる! 今すぐ死んで幽霊になるから、一緒に連れて行ってくれ!」 「何を言ってるんですか、番頭さん。紅屋の稼ぎ時は一年中ですけど、幽霊の稼ぎ時は夏の夜だけ。ちっとも儲かりませんよ、お止しなさい」  幽霊はお守り袋を番頭に渡し、井戸の中へ消えて行く。  番頭は幽霊にあれこれ化粧法を教えたことで腕が上がり、顧客の要望に細やかに応えられるようになって、店はますます繁盛したのだった。 「おおい! いつか、また、お前に紅を差してやるからなあ!」  幽霊はその言葉を物陰で聞き、すうっと姿を消した。 「結局、渡辺舟而の脚本にはやられるんだ」 「若手ばかりの芝居でも、ああも白帆に出てこられちゃおしまいだよ」  拍手喝采、笑い声も泣き声も芝居小屋に充満する。  舟而は二階席の一番後ろで腕を組み、左肩を壁に預けたいつもの姿勢で声を拾うと、そっと客席を出た。 「ヤア、これは、これは、舟而君じゃないか。元気かい」  桑色の麻の着物を着流しにした五〇絡みの男性が、舟而に向かってステッキを上げて合図する。 「森多(もりた)先生!」  舟而は大股で駆け寄って、肩の力を抜いたあどけない笑顔を見せた。 「ご活躍だね。なかなかいいホン(脚本)だった」 「恐れ入ります。先生の作品も折々拝見しております。ご挨拶は遠慮してしまって、申し訳ありません」  舟而が頭を下げるのを、森多は手を振ってとりなす。 「いやいや、きみは筆まめに感想を書いて送ってくれるじゃないか。私こそ筆不精で返事も書かずに悪いね」 「とんでもない。ますますお元気でご活躍の(よし)、何よりです」 「上野山の松木町へ引っ越したって? ご出世だな」  いきなり高級住宅地へ引っ越した舟而を明るく呵々(かか)とばかり笑うのに、舟而も一緒になって笑った。 「はい。縁あって銀杏座の若旦那から相場より安く土地を譲っていただきまして、銀杏家の隣に住んでおります」 「なるほど、あの住所は寛永寺(かんえいじ)の辺りになるのか」 「ええ」  そこへ突然、森多の腕に若竹色の駒絽(こまろ)に枝垂れ柳を染め抜いた着物姿の女の手が絡んだ。 「森多先生、みーつけた。さ、参りましょ」  反対側の腕には、カルピスの包装紙のようなワンピースを着た耳隠しの女のふっくらした腕が絡む。 「もっともっと森多先生のお話を伺いたいわ。ね、カフェーへ行きましょうよ」  森多に群がる女は舟而が数えただけでも五人はいた。 「舟而君も一緒にカフェーへ行こうじゃないか」 「申し訳ありません、僕は楽屋を見舞わないと」 「そうかい。ぼくはカフェープラタナスにいるから、あとからでも来(たま)えよ。躍進座の役者も連れてさ」 「のちほど伺います」  森多は両腕に女をぶら下げながら去っていった。

ともだちにシェアしよう!