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第63話
銀杏鶴紋の楽屋暖簾をくぐると、すぐに白帆が声を掛けてくれる。
「先生、ご苦労様です」
「今、脚本家の森多孝弥先生に会ったよ」
「まあ、森多孝弥先生が。よござんしたね」
白帆が向かう鏡台の鏡に自分の顔を映しながら話すと、白帆は鏡越しに目玉だけ舟而へ向けた。髪を上げて目だけを動かすと、大きな瞳を持っていることがわかる。
「うん、それであとでカフェープラタナスへ来いって。白帆も一緒に行かないか」
「よろしいんですか、私なんかまで」
「躍進座の役者も連れて、と」
「まあ嬉しい。先生の恩師にお会いできるなんて楽しみです」
白帆は鏡越しに目を細めて見せた。
白帆は大急ぎで風呂まで入ってさっぱりし、麻の襦袢に陽炎のように薄く透けた紺青色の紗の長着と羽織を合わせると、急に清げな青年の姿になるから、舟而はうっとのぼせてしまう。
「先生、参りましょ」
「あ、ああ」
隣を歩く白帆の、丁寧に剃刀 があてられ、糠袋で磨かれている白いうなじが、舟而の目の端に入って仕方がなかった。
カフェープラタナスの一番奥のテーブルに森多はいた。白いエプロンをつけた女給 よりも華やかで、賑やかな女たちに囲まれていて、女給たちの出番はなさそうだ。
「こちら、躍進座の銀杏白帆丈です」
「やあ、おきゃんな幽霊チャンだね。いや、よかったよ。舞台いっぱい飛び回って、思い切ってた」
「ありがとうございます」
「こうやって近くで見ると、一層迫力があるね。毎日怠ることなく芸を磨いていると分かる」
「恐れ入ります」
「決めましたよ、ぼくはあなたに惚れた。脚本家を惚れさせるのは、役者の大切な才能の一つだ。今度、機会があったら白帆丈で一本書かせてもらおう」
白帆は舟而を見て、舟而が頷くと笑顔になった。
「ありがとうございます。楽しみです」
森多は、舟而と白帆の小さなやりとりを見、白帆の答えにくしゃっと目を細めて見せた。
煙草を取り出すと咥えてテーブルに頬杖をつき、隣にいた女がその先に火をつけるの吸って、煙を吐き出すと同時に話し始めた。
「ぼくと舟而君とはね、彼が中学生の頃、当時私が主催していた同人に小説を送ってくれたのがきっかけで、そこからの付き合いなんだ」
タバコの先を赤くして、ふうっと紫煙を吐くとまた目を細める。
「驚いたねぇ、中学生だからこそ向う見ずに書けるのか、それともすべてを分かった上で書いている早熟なのか、すぐには判断できなかった」
「さよでしたか」
「ご実家まで会いに行ったら、大きな病院のご子息で、この辺で見かける中学生よりも、ずっと洗練された身なりをしてるんだ」
森多が白帆や取り巻きの女たちに話して聞かせる昔話を、舟而は苦笑しながら聞いて、小さく首を左右に振っている。
「先生、僕は野暮天です」
「この色男が野暮天はないだろう。なあ、そう思わないか?」
取り巻きの女たちは明るく笑って、口々に感想を言う。
「破滅型に見えますわ。ちょっと危険な香りがする」
「一緒に死んでくれって耳元で囁かれたら、情死してしまいそう」
はきはき話すのにどこか香水のような余韻を引きずる声で、女たちは口々に言う。
「そんなふうに見えますか? 参ったな。これでも地に足をつけて、日々文学に取り組んで暮らしているんですが」
舟而は人差し指で頬を掻いた。
「随分落ち着いたものだな。昔は毎朝違う女の隣で目を覚まして、シャツのボタンも自分ではとめず、足袋も靴下も自分では履かなかったのに」
背中につうっと冷たい汗が流れるのを感じながら、舟而は笑顔を作る。
「寮や下宿にもちゃんと帰っていましたよ」
「その下宿に包丁を持った女が何人も押し掛けてきて、誰と一緒に死んでくれるのかと騒がれ、挙句に下宿を追い出されて、しばらくぼくのところで寝起きしていたじゃないか」
「さあ、どうでしたか……。何分、昔のことですので」
隣に座る白帆から冷気が漂ってくるのを感じつつ、舟而は頑張って苦笑した。
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