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第78話

「うん、こりゃあダメだな」  脚本部長の部屋で、窓を背に大きな椅子に座った森多は、企画書とプロットをぱらぱらとめくると、舟而に向けてかわらけを投げるように手首のスナップを効かせて放り投げた。  床に散った紙を一枚ずつ拾い上げながら、舟而は首をひねる。 「そうですか? 面白いと思ったんですけど」 「こんな庶民の暮らしを書いて面白いと思うほど、舟而先生はお高く留まるようになっちまったってことじゃないのかね」 「僕だって庶民ですよ」 「アーアア、イヤだねェ。文藝会大賞を受賞された大先生は。すっかり感覚がおかしくなっちまっている」  蝿を追い払うように手の甲に押し退けられて、舟而は「考え直してきます」と部屋を出た。  舟而は舞台が跳ねたあとの白帆にプロットを見せた。 「あはは、おっかしい! これ、とても面白いですよ! 私、確かに兄たちには、こういう態度をとってます。布団ごと運ばれましたしね。兄弟が三人いたら、こういう揉め事もありますし、簡単には切れない兄弟の縁が、鬱陶しくもあり、それでもやっぱりありがたくもあり。ホント、とてもいいと思いますよ」  白帆は口を丸く開けて、景気よく笑った。 「お前さんに笑ってもらえると、僕の心も慰められる」  舟而は肩の力を抜き、表情を緩めた。 「ところで、布団ごと運ばれた私だけがいいように書かれて、お座布団ごと運ばれた先生は登場なさらないんですか? ちょっとずるくありません?」  黒髪をさらりと揺らし、白帆は舟而の顔を覗き込んで笑った。 「なるほど、それはいいかも知れない。女ばかり三人じゃ、広がり過ぎる。男が一人入った方が、劇の進行も上手くいく」  しかし、二度目のプロットも床に散った。 「何だろうね、その新しく出てきた情夫は。何だかスカしてて、ぼくは鼻について気に入らないね。全く以ていけ好かないよ」  舟而はまた紙片を拾い上げて、首を傾げつつ辞去した。 「もっと面白く、わかりやすくなりましたけどねぇ。私はこの情夫のこと、大好きですよ?」  白帆はプロットを見て、もっと大きな口を開けて笑った。 「そりゃ、お前さんに、この情夫はいけ好かなくて嫌いですなんてやられちゃ、今晩、僕の寝る場所はないからなあ」 「ふふふ。今夜も私の上に寝て下さらなけりゃ、ね」  舟而は白帆の目を見つめ返し、そのまま抱き寄せて唇を奪った。  しかし、森多はそう簡単には話が通らなかった。 「プロットも、下書きも、今の舟而大先生なら、三回は直さなけりゃな」 「三回ですか? 一度見せて、そこに直しが入るのは覚悟してますが、三回って! そんなに直したら、話そのものが原形を留めなくなるじゃありませんか!」 「そのくらい揉まなけりゃ、舞台に掛けられる品質にならないんだから、仕方ないサ。天狗になった男は話が分からなくて困るねェ!」  舟而は部長室のドアを思い切り派手な音を立てて締めた。 「僕の感覚は、そんなにずれているだろうか。お高く止まっているかな」  白帆が流しにまな板を置き、鯖の下拵えをしているのを見る。 「ゆとりはあると思います。二人ともが仕事を持っていて、子供はなくて暮らしているんですから。私も会社が車で迎えに来てくれるよな身分になっちまいました」  しかしそう言う白帆の着物は何度も水をくぐっている地味な紬で、片襷に前掛けという姿も変わらない。  消費社会と新聞は書き立てていても、舟而の靴下は白帆が縦横に糸を通してきっかり四角く繕ってくれた跡があるし、元よりの野暮天で、つい気に入ったものばかり白帆に修繕してもらいながら長く着て、衣装持ちということもない。 「庶民の感覚を掴めていない、だろうか」  鯖を目笊に並べて塩を振ると、白帆は舟而の方へ振り返った。 「先生、庶民にこだわりすぎじゃござんせんか」 「え?」 「何が庶民かわかりませんが、先生は『人間のなまの姿』をお書きになる方でしょう。それは庶民だろうが、どこかのお偉い政治家だろうが、成金だろうが、変わらないはずです。ちっと落ち着いて下さいまし」 「あ、はい」  白帆は茶焙じに茶葉を一掴み投げ入れると、台所中に香ばしい匂いを漂わせ、土瓶いっぱいにほうじ茶を淹れた。 「先生はいつだって、一日のお終いはほうじ茶を召し上がる、そういうお方です。大丈夫です」 「……ありがとう。庶民という肩書は表面的なものだ。僕は惑わされていたかも知れない」  白帆から受け取ったほうじ茶を台所の隅の椅子の上で飲み、舟而はそのさっぱりした味が染みわたるのを感じた。

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