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第84話
「あたいは、あんたがいいんだよ! 頼むよ、ねえ。一晩だけさあ!」
首から下へのみ白粉を塗り、髪をほつれさせたかつらを被った白帆が、衣紋を大きく抜いた着付け方をして、三つ揃いを着た紳士に追いすがる。
「あっ、痛いっ!」
突き飛ばされた白帆は太腿まで露わにしながら倒れ、泣き濡れた。
「二度と僕に触れるな、売女!」
そこで劇伴が鳴って、舞台は幕を閉じた。拍手はまばらで、場内は空席が目立つ。
「白帆だと思って観に来たのに、胸糞悪ぃなぁ」
「これが世の中、現実、男の本性かもな」
「男なんて言葉で一括りにしないでくれたまえ。僕は違うと思いたい」
「なにか、景気づけに美味しい物でも食べて帰ろっかぁ」
目の肥えた客は料金の安い二階席を買い、その代わりに頻繁に小屋へやって来て、芝居を楽しむ。だから客の声を拾うときは二階席へ行け、そう舟而に教えたのは森多で、森多も二階席の一番後方に立っていた。
「あーあ、白舟コンビが観たいなぁ」
「有名になりすぎて、忙しくなっちまったのかね。小説もいいけど、早く芝居も書いて欲しいもんだよ」
「白帆が出ても、舟而のホンじゃなかったら、今度はもう観に来ないなぁ」
不機嫌な声が次々と森多の耳の横を通り過ぎていく。
顎を引いたまま、ぎろりと目だけを動かして二階席を見回し、いつもの左後方の壁際に舟而の姿がないことに気付いた。
あまりにも同じ場所に舟而が寄りかかるので、そこだけ壁が擦れて色が明るくなっている。
「ふうん。世話女房が舞台に出ている間を縫って、逢引にでも出かけたか。相変わらず抜け目のない奴め。何食わぬ顔して白帆の楽屋に顔を出すつもりだろうが、そうは問屋が卸さないぞ」
白帆の楽屋を覗きに行ったが、森多の予想に反して舟而の姿はなく、地味な紬に着替えた白帆が、化粧前に置いた時計を見て小さく首を傾げていた。
「僕は今度こそ失礼します。いい加減、白帆を迎えに行かないと」
舟而は酒を飲んだことなど感じさせない足取りで立ち上がった。
毬栗男の頭をぐりぐり撫でまわして遊んでいた次兄が、顔の横で手を振る。
「誰かに迎えに行かせましょ。楽しいから、ここへ白帆ちゃんも来たらいいんだわ」
その一言で銀杏家の門人数名が名乗りを上げ、白帆を迎えに出掛けて行った。
我先にと出て行く門人の背中を見送っていたら、次兄がその場にいる全員に向かって叫んだ。
「ねえ、誰かぁ! 先生がとらとらで遊びたいってぇ! きゃははっ!」
「一言も言ってませんよ、そんなこと」
長兄は牛牛会の男を手招きし、耳打ちした。
「弟の酒は、以後半分お湯で薄めてくれ」
白帆が連れて行かれたのは、牛神楽町(うしごめがぐらちょう)の路地の奥にある、小さな仕舞屋 だった。
門もなく、ただ玄関先へ青いものを植えてあるだけという造りで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな店だ。
「粗末な家だけど、味は一級品なんだ」
森多はそう言って、すりガラスを嵌めた引き戸を開けた。
「いらっしゃいまし」
藍鼠色の江戸小紋を着た年配の女性が、細く皺のある手をすらりとついて、迎えてくれる。
髪は低く小さくまとめているが黒々と染めてあり、額はきっかりと剃刀があたっていて、背中を向けたときのうなじは白く、粋筋 と思えた。
「こちらのお部屋でございます」
急な階段を上がるとすぐどん詰まりで、左側の襖を開けて案内される。
二間続きの部屋を仕切って、四枚の襖が嵌っている。どうやらその手前の部屋をあてがわれたらしい。
「虎渓三笑 かしらん」
白帆は幅の狭い床の間に掛けられた軸を見て、切れ長の目を細めた。
「さよでございますよ」
女将が頷き、森多が目を見開く。
「へえ、知ってるのかい」
「先生に教わりました。隠棲したお坊さんが、遊びにいらした道教と儒教の賢者と意気投合して、いつまでもたくさんお話をなさって、お帰りをお見送りにいらしたときにもお話に夢中になって、自分は渡らないと決めていた虎渓の石橋をついうっかり渡ってしまって、皆さんでお笑いになるというお話だったと記憶してます」
白帆はすらすらと答えて見せ、にっこり笑って黒髪を揺らした。
「ほう。ぼくより詳しいかも知れないな。舟而君の専門は英語、シェイクスピアだと思っていたけどね」
「子供の頃、近くのお寺の蔵書を端から端まで読み尽くして、日本文学は一通り読んだから、英語のお勉強を始めたんだそうです」
「いけ好かないねぇ」
森多がふんっと鼻息を噴き出すのを、白帆は小首をかしげるだけでやり過ごし、四畳半の部屋の中を見回した。
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