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第85話

「それで、先生はどちらにいらっしゃるんですか」 「ああ、まだ買い物に行っているんだろう。これから客が来るからね、その人へ渡す手土産を買いに行ってもらってるんだ。悩んでいるかも知れないな」 「お客様ですか」 「次の脚本で、取り入れてみたいことがあって、専門家をお招きしているんだ」 「専門家……」  白帆が言葉を反芻していたとき、部屋の外から声がした。 「失礼いたします」  女将に案内されて入って来たのは、三十代と思しき男性と、白帆より二、三歳年下と思われる少年だった。 「ああ、よく来たね。さあさあ、入ってくれたまえ」  勧められた床の間前の上席は遠慮して、四枚の襖を背にした場所に座った。  白帆の視線は少年に惹きつけられる。濡れたような艶のある髪と唇、透き通るような白い肌、顔に髪の影が落ちると、それだけで愁いに見える雰囲気。 「わたしの助手です」  男性の説明に、白帆は我に返った。 「すみません、じろじろ見てしまって。お美しい方だったので、驚いてしまいました」 「あなたもお美しいですよ」 「恐れ入ります」  白帆が肩をすぼめ、身体を小さくしてお辞儀をすると、森多が笑った。 「どうしてこんなに自信がないのかねぇ、仔猫チャンは! だから白帆ちゃんの美しさを見せつけるホンを書き続けるんだよ、ぼくは!」 「さ、さよですか」  白帆が小さく咳払いし、視線を泳がせたとき、料理が運ばれてきた。  料理屋なのに、一品ずつ運ばれてくるのではなく、水菓子まで全部が一度に運ばれてきて、飲み物も瓶の上が王冠で覆われたまま、がちゃがちゃと並べられて栓抜きが添えられて、仲居は畳に手をつく。 「階下に居りますので、御用の際はお呼びくださいませ」 「さあさあ、乾杯しようじゃないか。仔猫チャン、酌をしてくれるかね」 「あ、はい!」  森多はビール、ほかの三人はサイダーを注いだ。 「仔猫チャン、飲まないのか」 「私、不調法なので。お酒は先生が一緒にいらっしゃるときだけと、先生とお約束しているんです。具合が悪くなったとき、ほかの方へご迷惑になってはいけませんから」 「はんっ、用意周到だねェ。本当にいけ好かないよ。ヤダヤダ。乾杯!」  グラスを掲げてから、それぞれ飲み物で口を湿す。 「美味しそうなビフテキですね」  白帆は表面に焦げ色が付き、中心に桜色が残るビフテキへ箸をのばす。森多も専門家もそれぞれ料理に箸をのばしたが、少年だけは何も口にしない。 「お腹の調子でもお悪いんですか?」 「いいえ。彼はこのあとの実演に備えているだけです。どうぞお構いなく」 「何の実演ですか」 「緊縛です。申し遅れましたが、わたしは縄師です」 「キンバク? なわし?」  白帆は全く初めて耳にする言葉に、首を傾げた。 「人の身体を縄で縛るんだよ、仔猫チャン! さすがの舟而先生もそこまでは教えてなかったかな? ガハハハハ!」 「縄で縛るって、何でですか? 何か悪いことでもなすったんですか」 「それはねぇ、あとで実演してもらったらわかるよ」  空のグラスを白帆に向かって突き出しながら、森多は舟而と違ってとても下手くそに片目を瞑って見せた。 「では、そろそろ」  縄師はそう言うと、次の間へ続く襖を全開にした。  少年が長着を脱ぎ落すと、鮮やかな緋色の長襦袢姿になった。透き通るような肌に緋色が映って、より一層肌が美しく見える。 「縛りをご覧になるのは初めてですか」  静かに訊かれて、白帆は素直に頷いた。 「はい」 「では一番基本的な後手縛りをご覧に入れましょう」  少年は白帆に背を向けて、自ら腕を背中に回す。互いの肘を掴むようにして手首を重ねると、縄師はその手首に縄を巻き付けた。 「もっと近くへ来てご覧になりますか。どうぞ」  呼ばれて敷居に近い場所まで行った。手のひらに載せた小指ほどの太さの縄を白帆に見せる。 「これが縄です。縄は二つ折りにして使います。二つ折りのわを縄頭、反対側を縄尻と呼びます。縄尻はそれぞれこぶ結びにしてあります」 「はあ」 「縄は肌に触れたときに痒くないように、火で炙って毛羽を取り除いてあります」 「さよですか」  確かに白帆が荷造りなどで使う荒縄と違って、表面に艶があった。

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