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第86話

「お、お嬢様がいません! 楽屋も稽古場も風呂場も楽屋も楽屋も楽屋も厠も全部探したんですが、まったく姿が見えませんっ!」  門人たちは這うようにして帰って来て、宴会をしている人々に向かって叫んだ。 「劇場の門番に訊きましたら、森多先生の車でお出掛けになったそうでございますっ」  全員がその言葉に息を飲む中、舟而は落ち着いた声で言った。 「会社の車輛部に、森多先生の役員車の運行記録を問い合わせましょう。森多先生のことですから、途中で俥やタクシーを乗り継いで行き先を誤魔化すなどという知恵はないはずです。行き先はすぐに分かります。電話を貸してください」  舟而は電話交換手に会社の総務部の番号を伝え、総務部から車輛部へ問い合わせをしてもらった。 「牛込神楽町ですか。小さなお稲荷さんのある辺りでしょうか。……ああ、やっぱり」  舟而が電話を切って振り返ると、銀杏家も牛牛会もごちゃ混ぜにひしめき合っていた。 「牛込神楽町なら、牛牛会のシマでさあ!」 「討ち入りだあっ!」  拳を振り上げるのを、苦笑しながら小さく手で制した。 「そんなことをしたら、白帆を助ける前に店の垂木が折れてしまうから、代表者だけでいいよ。森多先生相手に、そんなに大人数は必要ない。店に電話を掛けて、森多先生と白帆の足止めだけ頼んでから、出掛けよう」 「牛牛会の威信にかけて、足止めさせて見せやしょう!」 「ああ、ではお願いします」  舟而は目を弓形に細めた。 「しろと(素人)さんが見様見真似でなさると、関節や神経を傷めることがありますから、初めて縛りをなさるときは必ず縄師と一緒になさってください」 「は、はい」 「特に手首は緩くて結構です」  縄師が手首に巻き付けた縄は本当に緩く、手首と縄の間に自分の指が入る余裕があることを念入りに確かめていた。  手首に巻いて、余った縄へシュッと小気味よい音を立て、手のひらを滑らせて、ぴたりと貼り付けるようにしながら縄を身体に回し、胸の上を通して一周させる。次に背中の結び目に絡げて折り返し、もう一度反対向きに胸の上を通して縄を回して、背骨の上でキチッと音を立てて結んだ。 「所作も美しくてらっしゃるんですねぇ」  縄師の手の動きに、白帆は感嘆の声を上げる。 「荷物を縛るのではなく、人を縛るのですから、互いの尊敬と信頼が大切です」 「尊敬と信頼って、お芝居をするときと同じですね」  白帆の言葉に、縄師は目を細めた。 「それから、縄の姿にも気を使います。このように縄は重ねず、並べて揃えます。細かい部分を丁寧にすることが大切です」  話しながらも手は止まらず、二本目の縄を結び目に継いで、今度は胸の下に二周回し、脇の下を通して、身体に巻き付く縄へ、縄同士が重なって見目悪くならないように気をつけながら、縄を絡げて張力を調整する。 「痺れていないか」  縄師の問い掛けに、少年は小さく頷く。 「これで後手は完成です。これから後手を飾る縛りをします」 「飾るんですか」 「縄は人の身体を飾るんです。人の身体の美しさを強調するんですよ」 「はあ、なるほど。お衣装みたよなものなんですね」  白帆は身体に巻き付く縄へぐうっと顔を近づけたり、身体を引いて全体を眺めたりして頷く。  緋色の襦袢の少年は、縄に身体を任せて従順で、畳の上に横座りをすると、縛られて真っ直ぐな上半身と対照的に下半身の曲線が艶めかしい。襦袢の合わせ目から白い脚がのぞき、俯く横顔に影が差して、突然一輪だけ咲いた曼珠沙華のように美しかった。 「後手をお試しになりますか。お着物が皺になりますから、襦袢だけになっていただくほうがよろしいです」 「私がですか?」  ためらっていたら、森多が白帆に向かって言った。 「いいじゃないの、仔猫チャン。何事も勉強だよ。次の芝居で必要な役作りだヨ!」 「役作り……。では、お願い致します」  白帆は一文字に結んでいた帯を解き、紬の長着を脱いで、純白の襦袢姿になると、緋色の襦袢を着て後手に縛られている少年の隣に座った。

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