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第88話
白帆が紬の長着を身体にまといつけ、腰紐を結び、帯を巻き付けて貝の口に結んでいる間、日比は慣れた手つきで散らばった縄をまとめていく。
「縄の処理にも特徴が出ています。このやり方は、おそらく黒縄という縄師によるものでしょう。……白帆さん、この縄師は十五、六歳くらいの華奢な少年を連れて来たでしょう?」
「ええ、緋色の長襦袢を着た、大層艶っぽい……。あら、いないですね」
白帆が周囲を見回したとき、部屋のどこにも縄師と少年の姿はなかった。
「とっくに姿をくらませていますよ。警察などに踏み込まれては厄介ですからね」
日比は銀縁眼鏡の奥の目を細めて見せた。
「い、痛いっ、何だ、何だっ」
大声が聞こえて振り返ると、次兄が森多の腹の上に馬乗りになって、両手を鉤型に丸めてぎゃぎゃぎゃっと森多の顔を引っ掻いていた。
「ウチの大事な白帆ちゃんに、何しやがんだ、てンめぇぇぇぇぇっっっ!!!!!」
「痛いっ、引っ掻くなっ! おい、誰かこの猫男を退かせ!」
森多が足を振り上げて、馬乗りになっている次兄の背中を蹴り上げようとしたとき、その足を長兄が掴んだ。
「ウチの看板役者を傷つけるような真似をされては困りますね、森多先生」
ニッコリ笑う長兄の背後から、牛牛会の毬栗男が顔を出す。
「森多先生、こーんばーんはー! この度は、ずいぶんと馬鹿にしてくださいましたねぇ。おかげで銀杏家さんに大目玉をくらいましたよ。あっしの面目が丸潰れでさぁ。今まで、女も、金も、いろーんな後始末を、たーっくさんお手伝いしましたのに、ねーえ?」
怪談話をする噺家よりも背筋を震わせる声と笑顔を森多の顔面に近づける。森多は目を剥き、悲鳴を漏らした。
「ひ、ひいっ! ご、ご、誤解だ。馬鹿になんかしていない! ただ、渡辺舟而の小説が、この世に出てはいけないと。あ、あの、ほら。ほらっ、内容が悪いからね、だから。だからっ」
その言い逃れに顔を振り向けたのは日比だった。
「ほう。わたくしも随分馬鹿にされたものですね。まるでわたくしに小説のよしあしを見抜く目がないようなおっしゃりようだ……」
日比は白帆を縛っていた縄を両手に持って、弛ませては左右に張って空気を引き裂くような音を繰り返し立てながら、森多のもとへ歩いて行く。
「な、何だ、お前はっ!」
「あなたのような下衆に名乗る名前などありません。わたくしの名が勿体無い」
日比は、きちんと縄を二つ折りにして、縄を重ねることなく揃えながら、長兄が掴んだままだった森多の足をするすると縛った。
「あ、お前っ、八幡町の変態クラブに出入りしてる奴だろっ」
「何のことですか」
「しらばっくれるな、ぼくは知ってるぞ!」
「わたくしは知りません」
日比は涼やかに話しながら、森多の口に猿轡 を嵌め、鮮やかな手つきで後手縛りをすると、仕上げに森多の肩を踵で蹴り飛ばして、畳の上へ芋虫のように転がした。
「口は禍の元なんですよ、森多先生」
銀縁眼鏡の奥の目を細め、左右の口角を上げて歯を見せずに静かに笑った。
舟而は嘆息して、小さく口を開いたまま彫像のように動かなくなっている白帆の肩を叩き、手首を軽く引き上げて立ち上がらせた。
「白帆。表通りにタクシーを待たせているから帰るよ」
「は、はい」
白帆の肩を抱いて出入口へ向かう途中、舟而は森多の前で足を止めた。
「森多先生。僕を世に出して下さったのは先生だ。脚本の書き方を教えて下さったのも。だから非常に残念です。今まで、お世話になりました」
舟而は畳の上に転がっている森多に向かって深く一礼すると、もう後ろを振り返らずに店を出て、白帆と共にタクシーへ乗り込んだ。
「先生……」
「ごめん、白帆。少しだけこのままでいさせてくれ……」
舟而は白帆の肩に目を押し付け、下唇を噛みながら、肩を震わせていた。白帆の肩には熱い水がじわじわ沁みた。
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