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第90話

 千穐楽(せんしゅうらく)のあと、白帆は楽屋前の廊下に貼り出された紙に役者たちが群がっているのに気付き、一緒になってその紙を見た。 「森多先生が会社を辞めたってさ」 「急な病気で郷へ帰ったって話だよ」 「ここ何日か、姿を見かけなかったのもそのせいだったのか」 「あたし、ついこの間、お尻を触られたばっかりよ。元気だったじゃないさ」 「脳やなんかだと、本人にもわからなくて、突然おかしくなっちまうって話だからな」 「怖いわねぇ」 「でもまぁ、潮時だったんじゃないのか。会社の金を横領した、会長の奥さんに手を出したなんてキナ臭い噂も、いろいろあったからな」  白帆は楽屋へ戻り、新聞を読んでいた舟而に話し掛ける。 「森多先生、ご病気で会社をお辞めになったんですって。ご存知でしたか」 「ああ。さっき聞いたよ」  舟而は新聞の内側で文化欄を見ていて、そこには今、千穐楽を迎えた森多の脚本を辛辣に批判した劇評が載っていた。 「お前さん、次はどんな芝居を演りたい?」 「え? 先生、またホンをお書きになるんですか! 嬉しい!」  白帆が黒髪を揺らし、胸の前でぱちんと手を合わせて声を弾ませるのを、舟而は新聞で隠し、自分の唇で白帆の唇を窘める。 「声が大きいよ。森多先生が辞めて、予定していた脚本が立ち消えになった。僕にお鉢が回って来たんだ」 「私、幸せな終わり方をする芝居がいいです。こうやって、先生と一緒にいるときのよな。死ぬ時までずっと一緒で、幸せだって言えるよな、そういうお芝居がいいです」  白帆の笑顔に、舟而も笑顔で頷いた。 「それはいいね、ぜひともそういうホンを書こう」 ***  舞台の上では舟而の新作『(つい)女房(にょうぼう)』が千穐楽を迎えていた。  舟而は相変わらず二階席の一番後ろに立って、左肩を壁に預け、腕を組んで舞台を観ている。  東京オリンピック開催を目前に活気づく空気の中、舟而はロマンスグレーという言葉をそのまま体現した姿で、目尻の皺は優しく、ますます味わい深い男になっていた。 「あれは風の強い日でござんした。私は矢も楯もたまらずに、あなたのところへ駆け出して。……ふふっ、今でも思い出しますよ、軒下にぶら下がった赤いリボン。私が迷わずあなたのところへ辿り着くためのおまじない」  舞台の上の白帆も年齢を重ねてますます艶が増し、ライトを浴びて上質な真珠そのもののように深い場所から輝く。 「赤いリボン、ずっと、ずうっと、持っていてくださいましね。私が迷わずあなたのところへ辿り着けるように、ね」  白帆が細い指先で目尻を拭いながら笑みを浮かべ、そっと首を傾げたところで静かに劇伴が鳴り、幕がゆっくりと閉まって、幕切となった。 「ああ、銀杏白帆は本当にいい役者だ。男も女も、老いも若きも、どれを演じても、全部全部、白帆が当代一! 当代一の役者だ!」  いつもなら静かに客席の声を拾う舟而が、満面の笑みを浮かべ、大きな拍手を贈っていた。 「先生が手放しで褒めていらっしゃいましたよ。銀杏白帆は本当にいい役者だ、当代一の役者だと」  楽屋を見舞って日比が報告すると、白帆は両手を胸にあてた。 「本当のことを言ったまでだ」  舟而はそっぽを向いたが、白帆はそんな舟而の手に自分の手を静かに重ねた。 「おや、照れてらっしゃるんですか、先生?」  日比が冷やかすのを、舟而は口を突き出して応戦する。 「う、うるさいな。そういうのをデリカシーがないと言うんだぞ」  白帆が袖の内側で笑いをこらえ、舟而はますます口を突き出した。 「何だい、お前さんまで」  舟而の姿に、日比は室内の照明を見回した。それから白帆の真珠色の肌を見て、さらに自分の手の色も見る。 「先生、体調が悪くありませんか」 「ん? 大したことはないよ。少し腹が苦しいような気がするけど、白帆の手料理を食べればすぐに治る。この年齢になると油っ気の多い物は少しもたれるんだ」  そう話す舟而の白目は黄色味を帯びていた。額には汗も滲んでいる。 「すぐに病院へ行きましょう」 「そんな大げさな。家で休んでいれば治るよ」 「お願いします。わたくしの知り合いの教授に診てもらって何ともなければ、それでわたくしの気も済みます。車を手配しますから、すぐに病院へ」  日比は医局へ直接電話を掛けて訴えた。 「わかった。待っているから、すぐに連れておいで」  おろおろする白帆も一緒に、タクシーで大学病院へ向かう。舟而は白帆の膝を枕に横向きになっていた。病院には担架が用意されていて、寝たまま運ばれた。

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