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第91話

「ずいぶん我慢されましたな」  四リットルもの腹水が抜き出された。 「なぜここまで我慢なさったんですか」  付き添った日比が眉を顰めるのに、舟而は黄疸の酷い顔で笑った。 「白帆を心配させると思って。千穐楽まで安心して舞台に立たせてやりたいじゃないか」 「せめてわたくしには言ってくれてもいいでしょう」 「白帆の舞台を観に行かずに寝ていろなんて言われたら困る」  日比は嘆息した。 「どれだけ白帆さんのことが好きなんですか」 「世界一に決まっているだろう」  腹水を抜いて消耗しているはずなのに、その笑顔は力強く輝いていた。  白帆は看護婦に呼ばれるなり駆け込んで来た。医者への挨拶より何より先に舟而の手を握る。 「先生」 「白帆、何て顔をしてるんだい。ここは病院なんだから、大丈夫に決まってるじゃないか。日比君のお知り合いだそうだよ、僕にも丁寧にしてくださった。挨拶をおし」  言い聞かせられて、ようやく白帆はお世話様でございますと挨拶をした。 「今は体力が落ちています。まずは入院して、何日かに一度腹水を抜く応急処置をしながら、食べたいものを何でも食べて、体力をつけることが最優先です。体力がついたら、手術をしましょう」  白帆は素直に頷いた。しかし舟而は口を開いた。 「入院せず、家に帰ってはいけませんか。食べて養生するだけなら、自宅のほうが気持ちが楽です。近所の医者に往診に来てもらって、腹水を抜いてもらうのでは、いけないでしょうか」  白帆の手を握り返しながら舟而は言った。教授は駄目とは言わず、許可を出した。 「紹介状を書きましょう。往診で使える道具は限られているから、それ以上の手当てが必要なときは入院してもらいますが、いいですか」  舟而は頷いた。  客間を病室にして寝付いた舟而の甘えとわがままは控え目なものだった。 「白帆が作る焼きおにぎりとコロッケが食べたい」 「背中をさすってくれないか」 「手をつないでいてくれ」  白帆のほうが躍起になって、食が細っていく舟而に果物の汁を搾って飲ませたり、鰻を刻んで食べさせたり、寺や神社でお札を授かってきたりした。  舟而は眠る時間が少しずつ長くなって、ときには覚めても夢うつつだったりする。  白帆は舟而の傍らにいて、その寝顔を眺めながら、一日の大半を過ごしていた。日比も看病を手伝って泊まり込んで、部屋の隅に衝立を置いて控えていて、昼間は白帆が、夜は日比が付き添うと決めていた。  夜、白帆は舟而の隣に布団を敷くと、覚めていた舟而に赤いリボンを取り出して見せた。 「ねぇ、先生。このリボンを覚えていらっしゃいます?」  舟而は片頬を上げた。 「僕が間違えたケーキのリボンだ」 「さよですよ。私の誕生日がクリスマスだからって、クリスマスケーキと誕生日ケーキを取り違えて買ってらして。私、根深いからとっておいたんです」  白帆は切れ長な目をいたずらっぽく細める。 「お前さんは、箱でもリボンでも包装紙でも、何でも押し入れにとっておくじゃないか」  舟而は布団から手を出して、白帆の膝を叩く振りで手を置いた。 「だって、捨てるの勿体無いんですもの」  白帆は膝に置かれた舟而の手へ自分の手を重ね、白くて細い指をじゃれつかせる。舟而は笑ってその指の相手をし、自分の指に絡みつかせて落ち着けた。 「押し入れに幅をきかせて、ほかの物が入らないのと、どっちが勿体無いかね」 「あら、お言葉ですこと。その割には、すぐ『白帆、リボンはないか』、『このくらいの適当な箱はないか』、『本をカヴァーするくらいの包装紙はないか』ってお訊きになる癖に」  口喧嘩の内容を、睦言のように甘く口にしながら、二人は見つめ合っていた。 「あると知っていたら、あてにするさ。だって、お前さんは僕のことを何でも知っていて、用意がいいんだもの」  舟而は白帆の手首を掴んで引き寄せると、そっと白帆の頬に唇を触れさせた。白帆は素直に受けて、自分もまた舟而の頬へ唇を触れさせていた。

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