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第92話
ふうっと溜息をつき、目を閉じる舟而に、白帆は布団を直してやりながら提案した。
「ねぇ、先生。このリボンを先生の手首と、私の手首に結びましょ。夜中に御用があったらちょいと手首を動かして、私を起こしてくださいな」
「名案だな」
舟而は目を閉じたまま答えた。
「しかも赤くて、運命の赤い糸に結ばれてるみたいで、ロマンチックだと思いません?」
「ああ、とてもいい……」
すうっと舟而は眠ってしまって、日比が手伝って二人の手首を赤いリボンで結んだ。
真夜中に、気配が動いた。
衝立の奥で電気スタンドの明かりを頼りに読書していた日比が、微かな怯えを胸に秘めつつ、そっと立ち上がって様子を見に行くと、淡くした電気スタンドの光の中で、舟而は顔を横に向けて目を開けていた。
「先生、お水を飲まれますか、厠へ行かれますか」
日比の問い掛けをどちらも否定して、舟而は赤いリボンを引っ張らないように気をつけながら、そろそろと隣で眠る白帆の顔へ手を伸ばした。
汗ばんだ頬に張り付く黒髪を、小指の先でそっと剥がしてやり、目を弓型に細めて飽くことなく眺め続ける。
「そんなに見つめたら、白帆さんに穴があきますね、先生」
「ん? まあ、数えの十五からここまで穴だらけにならず持ち堪えてくれたんだから、あと数日くらいどうってことないだろう。いい役者ってのは、人の視線に強くできてるよ。見事だと思うね。……ああ、白帆は本当に見事だよ」
舟而はまたすうっと眠った。
日曜日の朝、前日に降った雨で空が洗われて、気持ちのよい光がきらきらと差し込んでいる部屋の中で、舟而が不意に目を開けて、しばらく天井の辺りを見据えたのちに白帆を見た。
清明な黒目で白帆を見て手を動かしたので、白帆はすぐにその手をとった。
「僕は白帆と出会ってから今日まで、一日も悔いのない、まったく幸せな人生だったよ。お前さんはうぶで真面目で純情で、一本気で、どうなることかと思ったけど、いい役者になったね。いろんなことがあったけど、つらいときも、苦しいときも、白帆がいてくれたから幸せだった。本当にありがとう」
「何で急にそんなこと言うんですか」
「僕はもう死んじゃうからだよ」
「嫌です!」
「まあまあ、そう言うなよ。人の生命はどうにもならないんだから。三途の川の橋の向こうでお前さんが来るのを待っているから。ゆっくり、ゆっくり、来るんだよ」
白帆は畳の上に水たまりができそうなほど、ぽたぽた、ぽたぽたと涙をこぼした。
「白帆は僕といて幸せだと思ってくれたかな」
「当たり前じゃござんせんか、だから一緒にいるんじゃありませんか! でも今は先生が意地悪をおっしゃるから、幸せじゃありません」
「ごめんね、白帆。機嫌を直しておくれ。お前さんに機嫌を損ねられたままじゃ、気になって成仏できないよ」
白帆は何も答えず、つないだ手の甲にもぽたぽたと涙をこぼした。
「日比君も一緒に聞いてくれ。僕の葬式は、白帆が喪主になって、全て白帆の気が済むようにしてやってくれ。通帳は白帆の名前で作ったのが、書斎の机の一番上の抽斗にある。僕の書いたものは、日比君に全て任せる」
「わかりました。いずれそういうときがきたら、そのように致します。体力がついて手術を受けたら、お元気になられて笑い話になると思いますが」
「そうだといいね。人の生命はわからないから、案外長生きするかも知れないからね」
舟而は励ますように、白帆とつないだ手を揺すった。
しかし、その日の夕方から昏睡した。
「先生」
出版社や新聞社の人間だけでなく、役者も劇場のスタッフも集まった。
皆で次の間に控え、交代で寝ずの番をした。
片時も離れたがらない白帆は、消耗を抑えるために舟而の隣に寝かされ、横になったまま付き添った。
翌朝、舟而は顎を下げるような呼吸をして、喉の奥がゴロゴロと鳴っていた。
「何かあればすぐに連絡してください」
往診に来た医者を日比が玄関で見送っていたとき、付き添っていた誰かが叫んだ。
「呼吸が止まった!」
舟而の顔からはみるみる血色が失われ、医者が調べると瞳孔は散大し、心音も呼吸音も聞き取れなくなっていた。
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