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02 : 花盗人

 貴族の館に許可なく立ち入ることは、たとえそれが庭先であっても重罪になる。まして夜陰に乗じて忍び込むなど、見つかったその場で切り捨てられてもおかしくない。シュトルテ・バローはそう理解していた。  だが鉄の門扉越しにその花々を見たとき、どうしてもその一輪を摘み帰る誘惑を撥ね退けることができなかった。  シュトルテ・バローといえば貴族を縁戚に持つ、大商人の主人である。語学商才に長け、心意気がよく、博識で、家に帰れば欠かさず亡き妻の霊を慰め、四人の子供たちを心から愛する立派な男だ。  だが子を愛する心があまりに深すぎたのが、彼が過ちを犯す発端となった。  山深きこの土地に貴族の館があったことをシュトルテは知らなかった。この館は秘された場所であった。付き人と共に山間で趣味の狩りに興じ、そのうちに道を外れて迷い込んだのは不運としかいいようがない。  そしてひとりさまよった彼が山奥のこの館を見付け、助けを求めようと門前に来たとき、妖しく光る花を見つけてしまった。それは妖花と呼ばれるものだ。お伽噺の中にだけにしか存在しないと考えられ、多くの人に実在を疑われている花だが、シュトルテは見てすぐにわかった。あれは妖精花のヒカリノフクロだと。彼の利発な四番目の子供が、幼い頃から学術書を片手にその幻の花のことをよく語って聞かせてくれたからだ。  花弁の中にうっすらと青く発光するオシベを持つ花。まだ妖精が生きているような穢れのない土地にだけ生息しているのだという。 『一度でいいからヒカリノフクロを、いつかこの目で見てみたいな』  滅多に自分の望みを口にしない、四人の子供の中でもいちばん謙虚な末子が言った言葉だ。シュトルテは忘れられなかった。商荷とともに大陸を渡りながらその花をずっと探し続けていた。  --------もしあの花があれば。  なんの欲もない、父親である自分になんの我が儘も言うことがない、慎ましやかで可愛いあの子を心から喜ばせることができるのではないか。  --------一輪でいい。どうしてもあの花が欲しい。  子を深く愛するゆえ、それは耐え難い誘惑であった。  --------こんなにもたくさん咲いている。たったの一輪ならば許されてもいいのではないか。いや、愛する我が子のためならばきっと許されるはずだ。  門扉を乗り越えたシュトルテは、とうとうその花を手折っていた。すると。 「……なぜだ……」  手折った瞬間、それが命の幕切れであることを示すように花は光を失った。 「なぜ……こうも早くに光を失う…」  みるみる生気を失い、花はたちどころに萎れ、シュトルテの手の中で惜しむ暇すら与えず塵となり散った。 「なぜこんなにも早く枯れてしまう……長らえられないのは、うつくしいものの宿命なのか………?」  シュトルテは力なく項垂れたが、落胆に浸る間もなかった。 「そうとも!!」 唸るような、心を一瞬で凍りつかせるようなおそろしい声が背後にあった。 「おまえは知らないのか?うつくしいものにはその対価として、何かしら呪いが掛けられているのだ」  己の身に危機を察したシュトルテは転げるように振り向いた。そしてそのまま身じろぎひとつできなくなる。風に煽られて揺れる妖精花。その花々の淡い光に照らし出された姿があまりにもおそろしくて言葉が出てこなかった。 「このうつくしい妖精花はこの土地以外では生きられぬという呪いが掛けられている。貴様が手折らねばまだまだうつくしく咲き生きていられたものを、どうしてくれる」  それはおおきな獣だった。人のように服を着て二足で立っている。だが頭にはヤギのように堅く尖った角を生やし、突き出た鼻は狼のようであった。そして顔と言わず手と言わず、体じゅうが長い毛で覆われている。大きく不気味な目はぎょろりと剥かれ、まるでナイフで切ったように口は耳まで裂けており、口を開くたびにするどい牙がびっしり並んでいるのが見えた。    なによりおそろしいのが、この獣が人語を解することだ。世界の海と陸とを駆ける大商人であるシュトルテも、こんな醜悪な生き物を見たことがなかった。怖気のあまり、気を失いそうになる。その様を見て、おそろしい獣は歯を剥いて笑った。 「我が城の花を断りなく手折った罪は深いぞ。立て。……おい、モーリッツ。この男を地下の牢へ連れて行けッ」  闇の中から、もうひとり男が現れた。使用人らしい簡素な格好をした男だ。いや、やはりただの男ではない。顔は人間であるのに、袖から覗く手は長毛に覆われ、爪は獅子のように鋭い。どう見てもまともな人ではない。迷い込んだ場所が化け物の館だったとは。シュトルテは祈った。 --------ああ、神よ。 --------罪は罰をもって償います。  ですがどうか。どうか愛する子供たちに、最期にもう一度だけでいい。会いたい、と。

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