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08 : 呪いと絶望の夜
--------奇妙な子供だ。
ハイネは自室の寝台に横になったまま、天井を睨んでいた。本当ならばシュトルテの身代わりの娘を裸に剥いてあらゆる恥辱や恐怖を味あわせてやるところだったのだが。あの子供は泣き喚くどころか恐れもしなかった。こんなことは今まで一度だってなかった。
いまだに家来や召使たちは自分の姿を見れば恐ろし気に体を震わる。モーリッツですらはじめてこの醜い姿を見たときは目を見開きその顔に恐怖を張り付かせていた。
あの少年はまだ子供であるから、異質なものも柔軟に受け入れてしまえるのか。それともあの子供は獣の自分のことを、見た目は恐ろしくとも真に恐ろしい存在ではないと考えたのか。
--------私を、恐ろしくないと。
「……いや。そんなはずがない」
ハイネは己の獣の姿を何よりも呪っている。本当ならば自分は誰もが賛美する美しい姿をしていた。それがあるべき本来の自分の姿。それを失い、こんな醜い姿になった自分に、なんの価値もあるわけがない。
--------こんな醜い姿の私に価値などあってたまるものか!
ハイネ・アマデウ・ブルクミュラーはあの磨きがかった美貌があってこそ、唯一無二の「私」である。こんな醜い姿をしているのが「私」であるわけがない。今の私は「私」ではないのだ。
庭に迷い込んだあのシュトルテやその身代わりの子に残酷な気持ちになるのも、「私」ではない私が抱いた感情だ。もとの美しい姿に戻れれば、「ハイネ」はそんな愚かな感情は抱かない。美しい「私」がそんな卑しいことを考えるわけもない。
そう私は「私」ではない。
こんなに残酷な気持ちになるのは、姿がこんなにも醜い所為だ。「私」の所為なんかではない。「私」は何も悪くない!絶対に!!
眠りに付くまで、ハイネは呪文のようにそう繰り返していた。
《 傲慢な人の子よ……呪われるがいい。
おまえには醜い心に相応しい醜い体を与えてやる。
もう永久に誰からも愛されぬままひとり命を枯らしてゆくがいい……。》
明かりの焚かれた天井高き舞踏場で、飾り立てた男女がくるくる舞っていた。軽快な旋律を奏でるのは、宮殿付き楽団の弦楽器。人々がさざめくたのしげな空気が揺れていた。
だが、これは夢だ。
ハイネはそう理解していた。なぜならその会場にいる自分が、人間の姿をしていたからだ。
もう遠い日に失ってしまった、美しい姿。
夢の中でハイネは金糸銀糸の刺繍で飾り立てられたすばらしく華やかな夜会服を着て、優雅な円を描いて踊っていた。老いも若きも男も女も、誰もが自分に声を掛けられるのを待ち、期待に満ちた眼差しを送ってきた。
自分が人々の賞賛に値する人間なのだということをハイネは知っていた。自分はとてつもなく美しい、神から選ばれた特別な人間なのだと。己と言葉を交わしていいのは、口を利くに値する相手のみだ。
それなのに、この夜会の帰り。
馬車の前に突然飛び出してきた醜い老婆。
『どうかお若い貴族様。この花一輪で、あなた様の居城に一宿お願いできませんでしょうか?』
しわがれた老婆はそう言って薔薇を自分に差し出してきた。
見たこともない美しい薔薇だった。
だが老婆の皺くちゃの醜い手に掴まれたそれは、美しいからこそよけいに汚らわしく見えて、自分はその薔薇を老婆の手ごとブーツの靴先で蹴りあげた。
転がり倒れた老婆の姿があまりに滑稽で、自分はおおいに笑った。まさかあんな汚らしい老婆が、神の寵愛を受けた美しい自分にあのような呪いをかけるなんて-----------。
「やめろぉぉぉぉぉッ!!」
叫びと共に跳ね起きた。寝ている間に無意識に胸を掻き毟ったのか、己の黒い毛が宙に舞っていた。
いったい幾度あの呪われた日のことを夢に見なければならない。自分はあの老婆が魔女だということに気付かず。そしてあの手を蹴って。あの醜い老婆はあんなにも美しかった自分をこんなにも醜い姿に変えて-----。
おおおおおぉぉぉぉッ!!
獣の咽喉を引き絞り呻く。悔しさの余り、ぎょろりとした目からは涙が零れ落ちる。ハイネは両手で顔を覆う。覆った手も覆われた顔も、人間ではありえない獣じみた長毛で覆われている。
夢から覚めるたび、自分が化け物であることをまたこうして思い知らされる。夢の寝覚めはいつもハイネを深い絶望に落とす時間だった。
なぜ、自分ばかりこのような絶望を味合わねばならない。ハイネは明け方の暗闇の中、一人震えた。
「………お願いだ……助けてくれ……」
途方もない孤独であった。
「…誰か、……誰か助けてくれ………っ」
気が狂いそうだった。誰かに助けてもらいたい。誰かにこの気の狂いそうな絶望を分かって欲しい。
「…………分かって、ほしい……?」
その言葉に、意味に、何か齟齬を感じる。ハイネの震えはぴたりと止まっていた。
分かってほしいなどと、いつ自分は望んだ?どうせ誰も理解などしないのだから。そうではないだろう。自分はそんなことを望みはしない。
己の望みは。
「……誰かに…私と同じ絶望を、いや、それ以上の不幸を味合わせてやりたい………」
口に出して言ってみると、ひどく高揚する自分に気付く。
そうともなぜ自分ひとりが惨めな気持ちにならなくてはならない。誰かに自分以上の絶望を味合わせてやればいい。
ハイネは血のように真っ赤な口を左右に開いた。自分には絶望を味合わせる格好の獲物がある。
シュトルテ・バローの身代わりの子供。その子供が泣き叫ぶ姿を想像したとき、なぜか心の片隅でちくりと針を刺すような痛みを感じた。
だが。
残酷なことを考えているのは、「美しい私」ではない。この醜い姿に宿っている私が考えていることなのだ。
醜い姿に宿る私は、不幸の犠牲を求めている。それはあの赤毛の少年だ。ハイネは化け物の咆哮を上げて起き上がった。
「モーリッツ!今すぐ地下牢まで縄と枷を持てッ!」
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