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その男、濡れ鼠が娘を懐 へ抱き入れるようにしながら去ったのを見届けて、藤はおもむろに日傘を開いた。
「追い掛けねえのか?」
「ああ。あの調子だと今日明日中に喰われることはないだろ」
まあそうかと欠伸 混じりに言い返し、紅蓮は再び人型 を成す。藤が持っている日傘は意外に丈夫で、番傘ほどじゃないが多少の雨にも耐えられるようにできている。本降りの日以外の外出に必需品のそれは、藤の母方の祖母の形見の品だ。
「ちょ」
紅蓮は腕を伸ばして傘を奪うと、藤を懐に抱き入れた。
「返せ」
「まあまあ。そう固いことを言うなよ」
紅蓮がわざわざ人型を成したのは、こうして藤の傘に入れて貰うためだった。鬼の姿のままで傘に入ると、不自然に藤の横が空いてしまう。鬼の姿のままでは人に見えないため、人間 になる必要があるのだ。
藤は恨 めしげに紅蓮を軽く睨 むと、諦めたように真っ直ぐ前を向いて歩き出した。
どうやら本格的に雨が降り始めたようで、紅蓮に後ろから抱き寄せられるような体勢で二人は帰路を急いだ。幸い神社は藤吉屋がある問屋町界隈にあり、遠回りしてここまで来た割りに帰りは楽だった。濡れ鼠が娘を連れ出したとの情報を掴み、藤は濡れ鼠を尾行した。一人では危険だと言うことで藤の護衛でもある紅蓮が同行して現在に至っている。
濡れ鼠はその名が示す通り、雨の日を好んだ。町娘を連れ出すのもいつも雨の日で、お陰で今回の遠出は日光 を浴びずに済んでいる。
「若旦那。お帰りなさいまし」
住まいを兼ねた藤吉屋の裏戸から中に入ると、大量の反物を抱えた手代で乳兄弟でもある佐吉と出くわした。ちなみに裏戸を潜る前に紅蓮は鬼の姿に戻っている。藤は佐吉を軽く一瞥 すると、そのまま自室へと向かった。
両親は藤に藤吉屋を継がせたがったが、藤は年子の弟に継がせたいと考えていた。病弱な自分が継ぐより、聡明で壮健な藤吉郎 が継ぐほうが将来的にも安泰だからだ。
今年、数えで十八になった藤には数えで十七の弟がいる。実質的には一歳半の年 の差があるが、それはこのことには関係がないため、ここでは割愛させて頂く。弟の藤吉郎は既に藤吉屋を手伝っており、店の者には若と呼ばれていた。世間的には藤が若旦那と言うことになってはいるが、肝心の藤は放蕩 の限りを尽くしているため、名前で呼ばれることが多い。
藤のことを若旦那と呼ぶのは乳兄弟の佐吉含むほんの一握りで、藤が自室に入った刹那、
「ちっ、面倒くせえ」
何故か三度 紅蓮が人型を成した。こちらからすればわざわざ人間に変わるほうが面倒だと思うのだが、どうやら紅蓮には思うところがあるらしい。その時、
「あれ、若旦那。もしかして出掛けていたんですか?」
酷く涼やかな声がしたかと思ったら、襖 を開け放っていた藤の部屋の入り口に紅蓮や藤より更に見目好 い男が立っていた。
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