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狭い個室に少年のすすり泣きが響いている。
ベッドに顔を伏せ、汚れたままの身体を震わせて泣く少年を横目で見遣り、将未は淡い溜息を逃した。この場面には何度も遭遇している。だが、未だに口にするべき言葉が何なのかはわからない。自分が初めて客を取った夜は誰かに何かを言われただろうか。それも今は遠い記憶の彼方だ。何も言わず、客が退いた後の部屋を片付け始めても、少年は顔を上げない。二十八歳の自分より一回りは年下だと思われる少年は、昨晩この店に連れて来られたと聞いていた。
客室にはさっきまで行われていた行為の余韻を残す体液の臭いが色濃く残っている。床に落ちた紙屑を拾い、モップをかけ、次の客を迎える為に黙々と室内を清掃する。手にしていた消臭スプレーを置き、後回しにしたシーツ交換を試みようと換えようとするも、少年の涙は止まらないらしい。濡れたタオルを手にベッドの縁に腰を下ろす。たっぷり一時間を掛けて散々貪られ、触れられた双丘にタオルを当てると、少年はびくりと肩を震わせてからようやく顔を上げた。
「ーー大丈夫、だから、」
泣き腫らした目が怯えた色で将未を見つめている。どうせこの少年にも賀川はろくな説明をしていない。あの住職の元から来たのであるのならともかく、別の施設から売り飛ばされてきた少年が、何の経験も知識も無い上で客を取らされる様は本当に気の毒だった。皮膚に張り付き、乾いた性交の残滓や汗を丁寧に拭い、少年の身体をそっと裏返す。ほとんど放心したような状態の少年はされるがままにぼんやりと虚空を見つめている。少年の下肢には射精の跡は見られなかった。
怖い思いをしたか、それとも屈辱か。少年の思いは計れないが、想像することくらいは出来る。
十五の時にこの店に来た時から、将未は来る日も来る日も男を受け入れて来た。この店の唯一といっても良い禁止事項である身体に痕が残る行為以外は何でもさせられた。やがて成人を迎え、二十二を過ぎた頃から客が付かなくなった。そもそも十代の少年を目当てに来る客をターゲットにしている店だ。年を重ねるにつれ、客が他の〈商品〉に移っていくのはこの店ではごく当たり前のことだった。
それでも他の少年達は二十歳を過ぎた頃には相応の自我が芽生えると同時にこの店での自分の価値は無くなったことを知る。元から借金等の借りがある訳でもなく、価値の無くなった〈商品〉にオーナーである賀川は頓着しない為、この店を辞めて別の夜の店に移っていく〈商品〉達は少なくはない。客に気に入られ、恋仲になって店を辞めた人間もいた。だが、将未にはそれが叶わない。
生来のぼんやりとした気質と、媚びることや甘えることを知らない性質が、一層ーー面倒ごとの無い〈商品〉として重宝されたものだから、特定の客との惚れた腫れたとも無縁だった。おまけにこうして裏方という名の雑用に回された後は主に使いっ走りとして外に出るようになったが、それまではほとんど外の世界から遮断されていた。外に出ることを知らなければ、外への憧れも生まれない。
黙って身体を拭かれていた少年が顔を上げた。将未を見上げ、不思議そうな眼差しを向けている。この人は誰だろう、と問う瞳が赤く腫れて痛々しい。赤く腫れ上がるまで弄られた乳首に静かにタオルを宛てがい、柔らかく拭く。その手付きに安心したのか、少年がまた大きな瞳からぽろぽろと涙を零し始めた。
「……大丈夫、だから。…俺は、何もしないから」
「…っ、」
ようやく安堵出来る場所を見つけたかのように、少年の手が将未の白いシャツを掴む。一度大きくしゃくりあげると、将未の胸に顔を押し付け声を上げて泣き始めた。もう時期次の客と商品に部屋を明け渡さなければいけない。少しの時間のズレはまた賀川の不興を買う。だが、将未は少年を突き放すことなど出来ない。怯えさせぬように髪に触れ、あまり手入れされていない髪を撫でた。
客を取らなくなって幾年経っても、少年達が泣く様には自分が重なる。あの高台の施設に帰りたい。始めはそう思っていたが、やがてあの住職が自分や他の少年に行ってきたことの意味を知った時、自分にはもう帰る場所など無いのだと知ることとなる。自分はここ以外の行き場が無い。もうずっとーー客を取っている時から感じていた思いは今も変わらない。自分は生涯ここから出られることは無いのではないだろうか。漠然とした思いは、今この瞬間も将未の胸の奥底に沈み、動かない。
お前はもう使えねえ。そう賀川に告げられたのは何年前だったか。こうして毎日客室の片付けをし、少年達の後処理を行うようになって何年が経ったのか。この店には季節や月日は無い。あるのは、夜と朝方の世界だけだ。
声を殺して泣く少年の頭を撫で続ける将未の記憶の奥底に、泣きじゃくる赤ん坊の髪を撫でていた感触が蘇る。あれは確か自分の弟か妹だった筈だ。あの子供は一体どうなったのか。考えた事もあったが、やがて記憶は日々に流され、手の届かない場所へと消えていった。
泣き続ける少年の細い身体が震えている。この少年もまた全てを諦めた目をするようになるのだろうか。
そのうち慣れるから。そんな言葉は一つの慰めにもならないことだけは、随分前に気が付いていることだった。
〇◎〇
お前もいつの間にか全部諦めた目になっちまったな。
まだ客を取っていた頃、二十歳になろうかという将未にそう呟いたのはこの畑山だった。
畑山という男はあのかつて将未が暮らしていた施設の住職とこの店の仲介をしに来ていた男で、この店に将未を連れてきた運転手だ。本人は自分は賀川の懐刀のようなものだと称しているが、賀川がどう思っているかはわからない。少なくとも、オーナーである賀川の片腕として店内を仕切る畑山を、賀川が無下に扱っている様は見たことは無いが特に厚遇している様も目にしたことは無い。坊主刈りのせいか年齢は若く見えるが、賀川よりも幾分か年下同じだと言うから四十に手が届く頃だろうか。
その畑山が、無遠慮な動作で下肢を将未の腰に打ち付けた。双丘を高く抱えられた体勢で、将未はびくびくと身体を震わせながら顔を伏せ、シーツの上に握り込んだ手の甲に歯を立てる。客の来ない夜、空いた客室で畑山が将未に手を出すようになったのは、将未が裏方に回されたすぐ後のことだった。
客や賀川と違って少年をどうこうする趣味はないが、女を抱くより男と交わる方が好き勝手に出来る。畑山はそんなことを言っていた。お前は誰にも拾われなかったなあ、と呟く畑山の声音には苦笑が混じっていた。客も賀川も要らないと言った将未は畑山に拾われたのかもしれない。賀川はこの関係を知らない筈だが、見て見ぬ振りをしている可能性もある。
「ーーッ…!」
また深く身体を穿たれる。あの住職がいる施設に引き取られた直後から、まだ発達途中の身体を大人の男に触れられ、貪られることを教え込まれ、他人の精液が染み付いたような身体は少しずつ男を受け入れることに馴染んで行った。住職の時にも、客と寝る時にも存在していた筈の嫌悪感はとうに失った。一方で、求められることに応じたのなら、自分は愛でて貰える、褒めて貰えるという感覚だけが育ち、他の感覚を無意識に麻痺させている。どれだけ乱暴に扱われ、性欲を発散させる為の道具として見られていても、それが当然であり、仕事だと教え込まれて育った将未の中には疑問は無い。男を受け入れ、初めて吐精を果たした時の自分の身体はどうなってしまうのだろうと震えた恐怖も、夜を重ねるうちにやがて慣れてしまった。
ーー客を取らなくなった今、こうして畑山と交わっている時は、何もかもを忘れられる時間として存在している。
この店以外の行き場は未だに無いことも、この店以外のーーあるいはこの店の中でも誰一人とも繋がっていないという孤独も、この店と同じような、薄暗がりの中にある自分の人生も、先に待つのか否かすらもわからない未来への不安も、胸にある全てのことは、汗にまみれ、男の精液に濡れている間は考えずに済んだ。
そして、将未の胸の底に絶えず淀む言葉に出来ない渇望も、誰かと交わっている時は僅かながらに霧散していくような気がしていた。
「っ…、出すぞ…ッ、」
「んッ、んん、ッ…!」
畑山ががつがつと激しい抜き差しを始めたかと思うと、シーツの上の将未の細い身体が揺さぶられる。やがて将未の体内で欲は膨張し、そのまま熱い体液が流し込まれる。ほとんど同時に、下肢の間で揺れていた将未の雄からも、シーツの上に精が吐き出された。
「…あ。やべ、」
行為を終え、下着だけを身に付けた畑山がぶらぶらと室内を歩きながら備品をチェックしている。無闇に大きな鏡の前のカウンターの小箱を開けると、ベッドの上で身体を拭う将未を見遣った。
「この部屋ゴム切れてるわ。ストックも切れてるはずだ。買ってこい」
「はい、」
店の規約としては、コンドームの着用を求めている。だが、従うかどうかまでは店側からは客に干渉することはない。事実上放任の状態ではあるが、律儀な客はいるもので備え付けの備品はいつの間にか減っている事が多い。賀川とは違い、ほとんど店に常駐している畑山は脱ぎ捨てた自分のスーツのポケットの中からいつも所持している店用の財布を抜く。必要な物はそこから買えと命じられているのか、畑山もまた妙に律儀な男だった。
「ついでに茶も切れてたな。そこのコンビニにあるだろ、」
抜いた一万円札を投げて寄越す。将未は最後にタオルで顔を拭い、半端に伸びた前髪を掻き上げた。ベッドから降り、下着を手にする将未を何気なく眺めていた畑山が、息を抜いて苦笑した。
「…そうやってっと、お前も一丁前の色男に見えるんだけどな、」
一丁前なのは外側だけだ。呟く畑山の目は、どこか自分達と同じ商品と同じ色を目をしているということに将未は気が付いていたが、口に出したことは無い。
〇◎〇
使いっ走りという名の買い出しは好きだった。
客を取っていた頃はほとんど出ることのなかった外の世界をある程度は自由に歩くことが出来る。夜のススキノは初めてこの街に足を踏み入れた時と変わらないネオンがギラギラと輝き、あらゆる人種が行き交う雑踏は基本的に人への関心を持たないように見える。それでいて、皆どこか鬱屈したような、やり場の無いあらゆる種類の欲望を剥き身で携えているような雰囲気があり、それが街全体の空気として漂い、充満している。閉塞感と、北国らしい妙におおらかな空気が同居している為か、ススキノという歓楽街はどこか闇が薄い。
ススキノではコンビニを探すのに苦労することはない。ほとんど一丁角に、この不景気で抜けたテナントを埋めるようにあらゆる種類のコンビニが並び、夜の街の灯りの一端を担っている。普段着ているなんの装飾もないスラックスとシャツに秋のコートを羽織った将未は店から数メートル先に建つコンビニへと足を踏み入れた。
店とは異なる電灯の眩しさに目を細めつつ、商品が並ぶ棚からコンドームを選んで手にする。店内を行き、別の棚から緑茶の茶葉が詰まったパックを手に取る。将未や畑山に茶の善し悪しなどはわかりはしない。だが、風俗店にやって来る人間で、茶の善し悪しがわかる人種は稀にいる。
レジには中年の男が立っていた。眠たげな目をしてバーコードを読み取った店員の無愛想な声音が金額を呟く。カウンターの上のトレイに将未が置いた一万円札に、店員はちらりと目を向けた。
「お客さん。細かいの無いの?」
「…え、」
将未の買い物の合計金額は3桁だ。向けた言葉に目を瞬かせる将未を店員がじとりとした眼差しで見上げる。
「え、じゃなくて。悪いけど細かい釣り切らしてんですよね。万札じゃ困るんですよ」
虫の居所が悪いのか、それとも一度レジを閉めた直後だったのか。店員は憮然とした表情を隠しもせずに将未を見遣る。
畑山といた部屋からまっすぐに外に出てきた将未は自分の財布も持っていなかった。寄越された一万円札の他に手持ちはない。どこか別のコンビニに行くか、別の場所で両替するか、冷静になればその位の選択肢はあるだろうが、経験したことの無い出来事に戸惑う将未は上手く思考が働かない。戸惑う将未を店員がイライラとした目で見上げている。背後に人が並ぶ気配を感じ、将未はますます焦りを覚える。夜のススキノはどんな人種がいるかはわからない。振り返る勇気もなく、ただ肩を竦めたその時、後ろの男がすっ、と将未へと距離を詰めた。
「オジサン。メビウス。その一番色が濃いやつ。カートンで二つ頂戴」
「……」
男は将未を見向きもせずに店員を顎で使う。一度虚をつかれながらも、店員は慌てて煙草が並ぶ棚の下段を開け始めた。モタモタしていた自分が悪い。将未がカウンターの上の商品ごと身を避けようとすると、隣に並んだ男が意図的に目を合わせてにこりと笑った。淡い茶色の髪を短く切り込み、緩いパーマを掛けている。濃紺のスーツからは上品な香りが漂っていた。
「ーー、」
「こちらですか」
店員が煙草を2カートン手にして戻ってくる。男は鷹揚に頷きながら指を伸ばし、将未の手元のコンドームと茶葉を攫ってしまうと、その指でトレイの上に乗った札を避けて将未の方へと滑らせる。
「じゃあそれこの人の会計に乗せて。細かいの出せばいいんだろ?」
「…え、」
「え、あ、ああ…、どうも、」
店員は、鬱屈した夜の気分をただの八つ当たりとして将未にぶつけただけなのかもしれない。ごく柔らかい物言いで毒気を抜かれてしまった店員は呆けたように目を丸くしながらレジを打つ。会計は結局一万円を越えたが、端数を含めた支払いは、見知らぬ男が財布から取り出した金で済ませてしまった。
「あの、」
現れた男の背に着いていく形で店を出た将未は慌てて背に声を張る。コンビニの前の灰皿の前で足を止めた男が振り返る。比較的長身の、175センチはあるだろうかという将未よりも背が高い。その男に向かい、将未は慌てて一万円札を差し出した。
「会計…を、俺の分、」
「…ああ…。良いよ。一日一善、ってね。これ。君の、」
秋の夜風にふわふわと揺れる髪のように柔らかな物腰の男だった。店に客としてやって来る男の中には時折優しげな男はやって来たが、普段は圧倒的に粗暴なタイプの男と接することが多い。三十代の半ば頃に見える男はにこにこと笑いながらビニール袋の口を開けて差し出す。その中から、将未は遠慮がちな手付きでコンドームの箱と茶葉の袋を取り出した。
「…不思議な組み合わせだね?」
買い物を大切そうに抱える将未に男は目を合わせる。浮かべた笑顔を絶やさないままで素朴な疑問を口にしては軽く首を傾けた。将未は手の中の商品を見下ろし、そのまま視線を地面へと落とす。
「…これは…店の、」
「店?」
こくりと頷く。誰かに何かを聞かれた時はそう言え。こうして外に出るようになってからは、賀川からも畑山からもきつく言いつけられていた。
「夜の、店」
「ああ…、」
男がビニール袋を左手に下げ、右手をスーツのポケットに押し込んだ男は、改めて将未の、少年期からの経験が作り上げたのか、妙な色気だけが漂う容姿に視線を滑らせる。なるほどと平坦に呟く男の前、将未のボトムのポケットから携帯電話の音が鳴り響いた。
「あの、俺、行かなきゃ」
「うん。それじゃあね、」
持たされている携帯電話はけたたましく鳴り続ける。取り出し、ディスプレイに視線を落とす将未に男は穏やかな笑顔で袋を手にしたままの左手を軽く掲げた。
ぺこりと頭を下げた将未が踵を返す。雑踏の中、人とぶつかりそうになりつつ慌てて駆け出す将未の背を眺める男が不意に笑みを消す。ポケットから取り出して顎を撫でる右手の人差し指は、初めから無かったかのように欠けていた。
「遅せぇぞ!!どこほっつき歩いてんだ!茶ぁ出せ!」
裏口に停まっていた見慣れない外車と、運転席で退屈そうに待つ人影をよく眺める余裕もなく、コンビニから戻った将未は勝手口に飛び込んだ。相変わらず雑然と散らかった事務所の中、古い応接セットに腰を下ろす賀川と、指し向かいに座る見たことの無い男の姿に血の気が引く。こうして外に出ていた時に限って裏口からの客が来る。将未を怒鳴りつけた賀川の様子に、客は面食らったように目を丸くし、次いで将未を見遣る気配があったが将未はそのまま事務所の隅にあるカウンターの前に立つことで応接セットに背を向けてしまった。
「すみませんねえ。矢立さん。気のきかねえ奴で。そうそう。若頭が来るってことは雄誠会さんもぼちぼち代替わりですかね」
賀川の口振りはヘラヘラと調子が良い。愛想を振りまくついでに、客人へと媚びる笑顔が背中越しにでも想像出来た。対して客の方は静かな佇まいで姿勢よくソファーに腰掛けている。皺のないスーツを纏い、豊かな黒髪を丁寧に後ろへと撫で付けた男は口を開く。
「…いえ。…今日はたまたま俺が。親父は…息災です」
風貌は厳しいが、随分と物静かな声音を背で受けながら買ってきたばかりの茶葉のパックを開ける。使い古した安物の急須と来客用の湯呑みを出してポットを使いつつ聞き耳を立てるでもなく二人の会話を聞いていた。
「それはそれは。ウチとしては雄誠会さんに世話にならなきゃ話になりませんからね。ああ、これ、いつもの、」
わざとらしく、思い出したように賀川はテーブルの上に封筒を滑らせる。矢立と呼ばれた男はちらりと視線を落としてそれを指で引き寄せ、中身も確かめずにスーツの上着の内ポケットにしまい込んだ。
ススキノでヤクザ絡んでねえ風俗店なんて見たことねえよ。以前畑山が口にしていた言葉をぼんやりと思い出す。この店の元締めは雄誠会という組織であるということも言っていたか。畑山の世間話は、将未の狭い世界をほんの少しずつ広げていく。
「ーーどうぞ、」
「…ああ…、…ありがとう、」
茶を満たした湯呑みを載せた盆を慎重に運び、畑山に躾られた通りの動作で出す。温かな茶を前にした矢立がひょいと将未を見上げた。耳慣れない謝意に驚く将未の目をじっと覗く矢立の目は、微かに憂いを帯びている。どこか悲しげな眼差しで、浅い会釈をしてから茶托を指で引き寄せた。
「将未。客入ってんぞ」
「はい、」
賀川の声が急かす。先程まで来客のなかった今夜はにわかに忙しくなったようだ。盆を手にした将未は、そのまま早足で客室に続く廊下へと出て行った。
矢立の視線は閉じるドアを見やっている。湯呑みを持ち上げ、口を付ける前に指し向かいに座る賀川に視線を向けた。
「…今のは…」
「ああ。将未ですか。ただの雑用ですよ。元々は商品だったんですけどね。歳食っちまった上に行くところもねえってんで、そのまま雑用として使ってやってんですよ」
賀川の口調は相変わらず軽薄だ。自分の父親が束ねる指定暴力団雄誠会のシノギは、ヤクザに対して何かと風当たりの強い現代故に基本的に合法な物が多いが、それでも時折こうした違法な店が紛れ込んでいる。違法でも合法でも、こうして若頭である矢立煇自ら上納金を徴収しに来ることは、あらゆる面に対する抑止力として機能している筈だ。
だが矢立は賀川のような人種は苦手だ。早くこの淀んだ空気から辞してしまおうと思うも、せっかく出して貰った茶を辞するのも気が引けた。脳裏に先程の青年の顔を浮かべる。年齢は三十前半の自分よりも少し下だろうか。どことなく寂しげな、それでいて諦観ばかりが滲んだ目をしていた。
人の顔色を伺い、理由もなく何かに怯え、そして絶えず何かに渇望している。ーーあの目を、自分は知っている。
そうか。呟き、将未が入れた茶を啜る。酷く苦い、それでいてほとんど緑茶の香りのしない湯が咥内へと流れ込んできたが矢立は顔色を変えない。
「……不味い…、」
口の中で呟いた声は、賀川には届きはしなかった。
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