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年が明け、新年もぼちぼち軌道に乗り始めようかという頃、店に勤めていた少年が一人脱走した。 少年と言っても年齢は二十歳近くで、将未のような施設から買ってきた人間ではなく、数年前にススキノの端の発展場で春を売っていた家出少年を見かけた畑山が声を掛けて連れてきた子だった。体は細く童顔で、性格は人懐っこく、どこで学んだのか性技にも長けるという理由で人気があり、稼ぎ頭の一人ではあった少年は、年明け前から頻繁にやって来ていた客の一人と示し合わせ、駆け落ちを彷彿とさせる風情で店を忍び出て行った。 「てめぇは何やってたんだ!!」 その日は真冬の大雪の降る夜で、賀川はおろか畑山も店には顔を見せなかった。当時の事実上の番頭は将未であったが、何しろ店を開けている間の雑務は積み重なる一方で、人手は全く足りないこととなる。オーナーも畑山も不在の日、将未が客室の清掃に入った目を盗んでの少年の遁走だった。 もぬけの殻となった客室を目にした将未が血の気が引いた顔で賀川と畑山に連絡を入れると、二人はすぐに店に現れた。事の顛末を最後まで聞き届けるよりも早く、将未の腹部には賀川の怒声と共に硬い革靴を履いたままの足が蹴り込まれた。 狭い事務所の中、転がった将未の体はデスクにぶつかり、腹部と背に走る痛みに唸る間もなく頭上からは山の形に積まれた書類や風俗雑誌がバサバサと音を立てて降ってきた。埃に塗れ、蹲る将未の腹や顔を、怒りのままに蹴り続けた賀川が最後に息を切らせて舌打ちした。 「もういい。お前は出ていけ」 「ーー、」 苛立ち紛れに将未の手が踏まれる。冷たい靴底の下で血が滲む。賀川が怒ると手を付けられない。熟知している畑山が、それでも上司の背後で小さく瞠目した。 「客も取れねえ、雑用も出来ねえ、おまけに脱走も止められねえんじゃクソも役に立たねえ。役立たず飼う余裕はねえんだ。出てけ」 「賀川さん、ちょっとそれは、」 慌てたように口を挟んだ畑山の心境はわからない。同情なのか、それとも将未が居なくなることで雑用が自分に降りてくる事を回避する為なのか。それとも、欲の発散や暇つぶしとはいえ、身体を重ねたことから及ぶ情なのか。その心境を図るよりも先に、賀川は青ざめた畑山の相貌を睨め付ける。 「…畑山。誰に向かって口利いてんだ」 青筋が立つまでに殺気立った瞳に畑山の肝が一層冷える。殴り掛かられてもおかしくない。察して黙り込む畑山と、再度忌々しげに舌打ちする賀川のやり取りを前に、将未は音も立てずに起き上がる。よろめく足元の下で、散らばった書類がカサリと音を立てた。 少年一人を自分の管理下で逃がしたことを責める目をしてはいるが、言い訳はしない。申し開きをする術も語彙も、縋る言葉や抵抗する言葉も持たず、ただ俯いていたまま呆然と立ち尽くす。将未の中に理不尽という言葉は存在しない。叱られていることは、当然の報いだと思っていた。 烈火の如く怒り散らした賀川が将未に冷えた眼差しを向けるも、すぐに汚物を見るように目を逸らし、吐き捨てた。 「荷物まとめて今すぐ出てけ。ーーお前はもうこの店には要らねえ」 〇◎〇 店を出た時は止んでいた雪が再び降り始めた。 深夜の低い気温は雪を小さな粒に変え、微かに吹く風に乗って舞い落ちる。派手なネオンの灯るススキノを、身の回りの物少しをまとめたボストンバッグ一つ手にした将未がとぼとぼと歩む。日付が変わって間もない歓楽街の通行人は少なかったが、すれ違う人間は、顔面の傷の手当もしないまま呆けたように歩く将未の顔を見てはぎょっと目を見開き、関わりにならないようにと足早に過ぎ去っていく。 眩しいネオンから逃げるようにコートの裾を揺らめかせ、節々が軋む体を引き摺るようにふらふらと歩くうちにやがて小さな橋の前に辿り着いた。欄干から見下ろすと、細くて狭い川が凍っているのがわかる。ここに飛び込んでも何にもならないだろうか。ぼんやりと思いつつ、先の道に目を投じる。そこから先はネオンの灯りも届かない、眠りに就いた深夜の住宅街が続いている。頼る灯りも見当たらず、足を止めたまま立ち尽くした将未はその欄干にもたれてずるずると座り込んでしまった。 昼間は人通りがあるのか、地面の雪は固く踏み固められている。買い出しに出るのなら、と畑山から与えられた古着の薄いコートの前を掻き合せた。冷えきった指の先が震えている。ぎゅ、と五指を握り締めて空を仰ぐと、降り続ける雪が傷口に染み込んだ。明るい灰色の空から降る雪は止む気配がない。 ーーまた要らないと言われてしまった。 遠い記憶の、ゴミが堆積したあの部屋にいた時から数えてこれで何度目の事だろう。あの部屋にいた時を始めとし、何処かに居場所を移しても、最後には必ず不要だと言われてしまう。 褒められたい等と願う年齢はとっくに通り過ぎている。それでもいつも、何をすれば必要と言って貰えるだろうか、何をすれば手放されずに生きられるだろうかと考えていた。もっと年齢を重ねる前に、あの店から逃げ出した少年のように媚びを売ったり甘えたりしたのなら結果は違っていたのだろうかと思うも、将未にはそのやり方もわからない。誰かに甘える方法も、人としての至らなさも、教えてくれるような人間には出逢わなかった。 だが、どれだけ男の手に触れられ、身体を求められていても、胸の奥に沈むどうしようも無い渇望は消えることがない。 自分は何をこんなに求めているのだろう。 何に飢えたまま生きているのだろう。 もうそれすらも曖昧になっている。 何も無い人生だ。 身体以外のものを人に求められることもなく、不要と言われては追い出される。自分の手の中や、自分の周りには何も無い。自分の中のあちこちが欠けていることは漠然と理解しているが、何が欠けているのかもわからない。 寒さが眠気を誘う。この都会の隅で眠り、朝には死んでしまったとしても誰にも気に留められることはないのかもしれない。自分が死んだとしても誰も嘆かないし、世界のどこにも影響は及ぼさない。 空虚な人生ではあるが、自分自身もまた、その人生や自分に未練はないのだろう。 何も持たないということは、生にも死にも執着しないということだ。死は怖くない。それだけが、唯一の幸運だと思った。 時間の経過と共に募るばかりの寒さに吐き出す息が目の前に白く留まっては消えていく。思えば、寒さを感じるということは少なかった。どんな場所であれ、住む場所だけはあったから、寒さに晒され凍えるという経験は覚えがない。 寒いと感じていたのは、微かに記憶に残る部屋の一室だけだ。出ることの出来ない部屋の中、ゴミに埋もれつつ寒さに震えていた。 あの部屋で、泣いてはいけない、と言われたのは遥か昔のことだ。 留守番の間も、そうでない時も決して泣いてはいけない。大きな声も出してはいけない。あの女はそう言った。あれは果たして口封じだったのか。 恐らく自分の母親であった女が、狭い部屋で自分に言ったことは呪文のように自分を縛る。白い病室で二度と母親はあの部屋に戻って来ないと知った時も、最後の施設で住職に身体を拓かれた時も、あの店に売り飛ばされた時も、将未は母親との約束を頑なに守っていた。 自分と約を交わしたあの女が何処に行ったのか、何処にいるのかは今となっては知る由もない。そもそも自分は戸籍の有無すら怪しいのだと気が付いたのはいつの事だったか。 最後の施設から自分に関する資料らしき物は送られてきたが、それも店に置いてきてしまった。現存するのかもわからないが、いずれにせよ自分は、書類上の存在や誰もが持つはずの生い立ちすら曖昧だ。 今あるのは、体と、物心着いてからの蓄積と、あちこちが欠けた自分一つ。 何も無いにも程があるーー。 知らず口元に苦笑が滲む。重たい頭は空から地上へと視線を戻し、将未はうとうとと眠りに落ちようとする。項垂れた黒髪にはしんしんと雪が積もる。不意に目の前の道路脇に車が停まった。顔を上げようにも眠気と疲労が勝った。ざり、と目の前の雪が踏まれた気がしたが、もう目を開ける事も気怠く思えた。 「ーー…、」 そっと、ほんの微かに雪以外の何かが髪に触れた。 触れる何かも耳に届く声も、触れたことの無い優しい色であるような気がして、眠りに落ちる刹那、将未は僅かに目元を緩めて笑った。

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