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ベッドの縁に腰掛ける将未の前にしゃがみ込んだ矢立煇が小難しげに眉を寄せている。強面が更に迫力を増す真剣そのものの表情を浮かべ、手にした大判の絆創膏をそっと将未の頬に宛てがった。慎重に裏のシートを剥がしつつ赤く腫れた頬を覆うが、傷口を塞ぐことには成功したものの、顎の辺りに小さな皺が寄ってしまった。自分の手で処置を施した将未の顔をまじまじと眺め、矢立がごく不思議そうな仕草で首を捻る。真正面から重なる視線に、将未の方は逃げ場が無い。
「……難しいな」
「…ボスが不器用なんですよ…」
部下の手を断り、自分でやると意気込んでいた矢立が悲しげに呟くと、その背後で事の成り行きを見守っていた角刈りの男が苦笑混じりに呟く。男を振り返り、矢立は気落ちした様子で残りの絆創膏を差し出した。
「やってくれ…、」
「はいはい」
立ち上がる矢立と入れ替わりに角刈りの男が将未の前にしゃがみこむ。その隙に将未は周囲に視線を巡らせるも、あまり広くは無い部屋には家具と呼べるような物は無い。今自分が座るベッドが1台と、部屋のドアを仕切る為の目隠し代わりの衝立が1枚、それとベッドの側に旧式の灯油ストーブが置かれているのが目に留まるくらいだ。ストーブの上には、加湿の為なのかやはり古びてあちこちがへこんだ巨大なヤカンが乗せられ、そこからシュンシュンと絶え間なく蒸気が吹き上げられている。壁は住宅の壁とは違うようで、いつか店で客のいない時に畑山が暇潰しに眺めていたテレビドラマの中で観たことのあるビルの一室に設えられた休憩室を思わせる様な部屋だった。
脇に立つ矢立をちらりと見上げる。知らない男だ、と思ったのは一瞬のことで、降ってくるように店の事務所での記憶が蘇った。応接セットに座っていた男。矢立と呼ばれた客だ。確か店の元締めで、雄誠会と言ったか。
ススキノでヤクザ絡んでねえ店なんて見たことねえよ。畑山の声が追いかけて来た。
「口んとこも切れてんな。喧嘩って訳じゃねえんだろうに、」
男が将未の口元に、ちょんと人差し指で触れた。微かに走る痛みに思わず顔を顰めると男もまた痛々しげに眉を寄せる。同情のような色が含まれた声音で呟き、絆創膏のシートを剥がす。
気が付いた時にはこの部屋のベッドに寝かされていた。てっきりこのまま死ぬのだろうと思い込みながら深夜のススキノの片隅で眠りに落ちたその後、これまで渡り歩いたどの場所にも無かった立派なベッドと厚い布団に包まれていると気が付いた時には、あの世の寝床は現よりも豪勢なのだなと新たな発見をした心地に陥った。寝起きの霞んだ目を凝らし、周囲を見渡すうちに自分はどうやら生きているらしいと自覚し、そこではっきりと目が覚めた。誰かの手によって自分は、暖かで、屋根のいる部屋に運ばれたらしい。
男の手で将未の口元に絆創膏が貼られる。先程の矢立の指先よりは幾分か器用で、賀川に蹴られた拍子に口の中までも切れたらしく、舌でなぞると違和感があった。
「…さっき医者に来てもらったが、骨は折れていないらしい、」
「…はぁ…、」
角刈りの男の動作をじっと見守っていた矢立が思い出したように口を開く。医者という言葉も将未にとっては耳慣れない。治療費云々の話にも思い至らない将未が呆けたように呟く様に矢立は気を悪くしたような様子もなく、薄い表情を変えることなく淡々と続けた。
「それで、今日からお前を部屋住みとして迎え入れようと思うんだが、」
「……部屋、」
「部屋住み」
矢立が口にする言葉の意味が理解出来ない上に、唐突な提案にまたぼんやりとした声が漏れた。とりあえず拾った言葉を復唱してみるも、そもそも今自分がどこにいるのか、どういう状況なのかを理解出来ていない。その将未の様子を正面にした男がやはり苦笑混じりに矢立を見やった。
「ボス。ちゃんと頭から説明しなきゃ伝わらないですって」
「……頭、」
物静か、というよりも口下手という印象の方が強い。声音には邪険な空気が一切含まれない。ボスと呼ばれる男をじっと見上げた将未の脳裏にあの店の事務所での光景が再び蘇る。あの時もこの男はどこか所在なさげにソファーに腰掛けていた。あの賀川の指し向かい、あまり物を言わずに、だが自分の出した茶に丁寧な礼を口にした姿は、どことなく大人しい大型犬を彷彿とさせた。
「……ここは雄誠会の支部の、部屋住み用の部屋で、俺は矢立だ。こっちはヒデ」
「……」
そして今も、行儀の良い犬のように丁寧に説明事項を並べていく。だがそれは言葉足らずで、伝わりそうで伝わらない。苦笑いを深めるヒデに気付くことなく矢立は一度口を噤むと、何かを考える間を置いてからまたぽそりと言葉を置いていく。
「…昨日のお前…、マサミの様子を見ていたんだが、行く場所が無さそうだったから、拾った」
訥々とした声音の中、将未、と呼ぶ声の端に何処かほのかに温もりが宿っている。声音は平坦で、顔つきは厳しく、表情はほとんど変わらないが矢立は店の事務所で見た時と同じ何処か寂しげな色をした目をしていた。矢立の視線が足元に落ちる。ベッドの脇に、雪で付着した水滴を拭われた将未のボストンバッグがきちんと置かれていた。
「……住む場所が、無さそうだと思ったから…、…外で過ごすには寒すぎる。……ヒデ。色々教えてやってくれ」
「…丸投げっすね…」
将未を拾った理由だと思われる一言を付け加えると、矢立はふ、と息を逃す。喋ることに疲れた、と呟いてはヒデを見遣り、短くバトンを渡した。ヒデと呼ばれた男は矢立のその様子に慣れているのか、やれやれと腰を上げて将未を見下ろす。矢立は安堵したような、ひと仕事終えたような空気を漂わせながら部屋から出ていってしまったらしい。重たいドアが閉まる音が部屋に響いた。
「骨、折れてなくて良かったな」
「…はい、」
心底嬉しげな笑顔だった。額の辺りに何かで切られたような細い傷跡があり、それが人相に凄みを持たせているようではあるが、笑うと妙に人懐っこそうな印象を与えた。年齢は将未よりも多少は年上だろうか。頷く将未にヒデもまたうんうんと数回頷き、部屋を見渡した。
「部屋住みだからな。当分はここで寝起きしろよ。飯は適当に食いに行ってもいいし買ってきてここで食っていい。下は事務所だから下で食っても良いけど他の奴らに慣れてからの方が良いかもな。うちはそんな人数多くはねえけど、部屋住みってのは1番下っ端だからな。ちゃんと働けよ」
「……、」
矢立に比べ、この男は随分と口が回るらしい。次々に告げられる事項を懸命に飲み込み理解しようとするも、将未はまず始めの一点で立ち止まってしまう。
自由に部屋に出入りしていいなどという環境は将未はほとんど経験した事がない。施設でも店でも、生活する場に於いては常に誰かの監視下に置かれ、外に出るには誰かの許可が必要だった。脳裏にススキノの夜景が蘇る。買い出しの間の短い時間。かつてはそれだけが将未の小さな羽を動かせる時間であったが、ここではそうではないというのだろうか。
一方で、働く、ということは将未にとってイコール身体を売ることだ。果たしてここでもそうなのだろうか。あの店と同じようにヤクザの経営する店に出されるのだろうか。将未のように悪戯に歳を重ねてしまった男を好む客などいるのだろうか。
ーーまたいつか、ここでは不要と言われてしまうんだろうか。
追い出された店で起こっていたあらゆる出来事や、身に降りかかった記憶を思い返す将未の言葉が詰まる。戸惑い、顔を強ばらせる将未にヒデが腰を折って目を合わせた。
「返事」
「はい!」
芝居がかったような軽い睨みを効かせられると条件反射のように声が出た。背筋まで伸ばした将未に、ヒデがまた音がしそうに笑う。ぽん、と1つ肩を叩かれた。骨は折れていないと聞いたが、節々は痛む。
「じゃあ下行こうぜ。新入りだからとりあえず皆に顔見せしなきゃなんねえし今日は下の片付けしなきゃなんねえんだった。歩けるか?階段だからな。気を付けて歩けよ」
「…はい…」
未だにここがどういう場所なのかはわからない。だが、背を見せたヒデが振り返りつつ自分へと投げ掛ける言葉は、見たことも無いくらいに優しい色と響きがあり、将未は一層戸惑いを覚えつつもゆっくりと立ち上がった。
〇◎〇
人から値踏みされることには慣れ切っている。
ついでに言えば、腐ってもーー例えそれが自分の意思で就いたものではなくとも接客業に就いていた将未は、あらゆる人種と会うことも慣れてはいる。
だが、ここは本当のヤクザの巣窟であるらしい。きちんとした整列ではなく、それまで各々がたむろしていた場所で立ち、疎らに並ぶ男達の様子は、あのチンピラのような賀川とは格も凄みもまるで違う。ヒデの横に立たされた将未は、正体の知れない初見の男に対して否応なく睨みを利かせてくる男達と視線を合わせないよう虚空を眺めている。ヤクザが怖くないと言えば嘘になる。だが、他に行き場も逃げ場も無いことは将未は既に悟っている。
おそらく昨夜のこと、あの凍える街角で自分は矢立に拾われた。それは果たして幸運なのだろうか。これまで誰かの手で保護された時にも、拾われた時にも、末は行く先々で要らないとされた自分は今度こそは上手くひとつ所に留まれるだろうか。ここに留まるには何をすれば良いのか。自分は上手く出来るだろうか。それは幼少期から住む場所や学校を転々とした時に感じてきたものと同じ感覚だ。こうして始めての場所に立った時にはいつも漠然とした不安に襲われる。その一方で、歳を重ねた将未は、何処か達観してしまっている部分がある。今度ここを追い出されたのなら自分はまた躊躇することなく、緩慢な死へと歩んでいく様な予感がした。
「つうわけで、今日から部屋住みにすっから。えー、…名前、」
朝礼の最後、幹部だと思われる男の申し送りが終わるまで口を開く順番を待っていたヒデの隣、ぼんやりと佇んでいる風にも見える将未が手の平で紹介された。あまり高くない身長のヒデが自分を見上げる気配に、将未は慌ててぺこりと頭を下げる。
「…広瀬、です」
「広瀬な。ボスが拾って来たんだからな。お前らいじめんなよ」
うす、と低い返事が部屋に満ちた。ベッドのあった部屋から案内されたのはヒデ曰く事務所だそうで、広い部屋の中心に大きく立派な応接セットが設えてあり、壁に沿うようにキャビネット等が並んでいる。キャビネットの上には誰の趣味なのか木彫りの熊やなにかの鳥の剥製らしき物が脈絡なく置かれ、横には書類やバインダーが無造作に積まれていた。見渡す室内はかつて身を置いていた店の事務所程の惨状ではないが、雑然と物が置かれ、散らばっている。その部屋の中、朝礼を終えた男達は三々五々に散っていった。
自分はどうするべきかと指示を仰ぐつもりで再度ヒデを見遣る。やれやれと首をひと回ししたヒデもまた、いかにも男所帯という言葉が相応しい室内をぐるりと見渡した。
「じゃあ部屋片付けっか。今日は鞍瀬さんが来るからな。あの人事務所散らかってっとすげえ怒るんだよ」
「…クラセ、さん」
将未に背を向けながらヒデが説明する。出てきた名前と思しき単語を拾う将未を置いて一度部屋を出ていったヒデは、柄の長いモップを手に戻ってきた。
「そ。とりあえずお前この辺モップかけろ。埃集めれば良いから。俺は机の上片付ける。鞍瀬さんてのはオヤジ…、オヤジっても俺の父親のことじゃねえぞ?雄誠会の会長な、」
ヒデが腰を折り、床に散らばった雑誌やスポーツ新聞を拾い上げ始める。白い板が覗き始めた床にモップを下ろし、説明を聞きながら将未が丁寧な手付きでリノリウムの床を研いていく。僅かながらに緊張の解けた目でよくよく見ると、壁も床も煙草のヤニの色なのか、黄ばんだ汚れが染み付いていた。
「鞍瀬さんはオヤジの補佐な。で、お前を拾ったボスはオヤジの息子。雄誠会の跡継ぎで今は若頭」
「若頭…」
「そ。ここの支部で一番偉い人な」
先程の部屋で見た矢立の顔を思い出す。世間知らずの将未はヤクザの若頭と言われてもあまりピンと来ない。だが、さっきこの部屋にいた獰猛そうな男達を束ねるには随分物静かで、影のある、というよりも影が付き纏うような佇まいをしていたような気がした。あの店の事務所に訪れた時も、さっき改めて顔を合わせた時も、何処か寂しげで、憂いを帯びた目をしている。
自分はあの目を見たことがある。矢立のあの目はーー。
「あ、でも若頭って呼ぶなよ。ボス、な、」
若頭って呼ぶと嫌がるんだよ。付け加えるヒデがごく嬉しげに喉を鳴らして笑う。この面倒見の良さそうな男は心底矢立を慕っているらしい。ひょい、と将未の手元に視線が向けられたかと思うと、感心したようにヒデの双眸が細くなる。
「つうかお前モップかけ上手いなあ」
「ーー…、」
十五までいた施設ではどんな施設でも身の回りの事は自分ですることが当たり前だった。その事が、十五で売り飛ばされた先の店での雑務に役立つことにはなったのだがーーこんな風に人から褒められた経験は、決して多くはない。
あまりに裏の無い、まっすぐな褒め言葉に将未はどう反応すれば良いのかわからず、ただ戸惑い目を伏せる。その姿に照れているのだと判断しつつ、ヒデがテーブルの上に無造作に広げたままのスポーツ新聞を持ち上げた。
「終わったらラーメンでも食いに行こうぜ。鞍瀬さん来るの午後からだって言ってたし」
「ラーメン…」
将未が目を瞬かせる。奢るぜ、と悪戯に笑うヒデは、あまりに次々と降り掛かる新鮮な言葉の数々に驚くばかりの将未に背を向けてキャビネットの上を片付け始めた。
誰かにそんな風に誘われたことは初めてだ。
綺麗に、というよりも散らばった物を捨てたり収納する形でなんとか事務所を片付けた昼の休憩に、ヒデは本当にラーメン屋に連れて行ってくれた。
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