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ラーメン屋に行く道すがら、ヒデの後ろに着いていく将未が街の景色を眺めたところ雄誠会の事務所はススキノメインストリートからはやや外れた場所であることがわかった。昼間の比較的閑散としたススキノの景色は、夜職に就いていた将未に物珍しく映る。雪を踏み、白い息を吐きつつきょろきょろと辺りを見渡す将未を振り返ったヒデが、観光客みてぇだなと笑ってからかった。 明るくなった景色の中では自分の元いた場所を探すことも出来ない。元々奥まった路地の中にあるビルだ。賀川や畑山に遭遇するだろうかと思うと何も悪事を働いていないのに肝が冷えたが、あの店から追い出された今は何故か、二人とは金輪際会う機会が無いような予感がしていた。 ススキノの一角のラーメン屋でカウンターに座って食べた味の濃い味噌ラーメンは今までに食べたどのラーメンより美味いと思った。夢中になって麺を啜る将未の横顔を眺めていたヒデが何を思ったのか将未の丼の中に自分のチャーシューを1枚分け、その間に雄誠会やヤクザの世界についての話をしてくれた。ヒデは、将未についてはほとんど何も聞かなかった。 ラーメン屋から戻ると、事務所の前に大型の国産車が停まっていた。路駐という概念など無聞いたことが無いとばかりに堂々と停まったフルスモークの車に、ヒデがサッと顔色を変えた。血の気が引いた相貌で時間よりも早いじゃねえかと呟いて将未を見遣って顎で促し、慌てた様子で事務所へと駆け寄り、ドアを開いた。 「お疲れ様です!!鞍瀬さん!」 「ーーご苦労さん」 朝礼の時にはあれほどまちまちの整列をしていた事務所の中の人間達が総じて深々と頭を下げ、アーチを作る向こう側に大柄な男が一人立っていた。身長はあの矢立よりも高いだろうか。淡い茶色に染めた髪をツーブロックに刈り込んだ洒落た髪型をしていると思った。高級そうなスリーピースを纏った背筋を伸ばして立つ姿は、美丈夫という言葉が似合う。若く見せているようだが、年齢は三十代後半といった所で、咥えタバコの煙の幕の中、耳朶や外耳に複数の宝石が輝いているように見えた。あれはピアスかなにかだろうか。いずれにせよ、あの人はこの有象無象のヤクザ達とは格が違うーー。ぼんやりと見つめる将未の様子にぎょっとしたヒデが、その新入りの頭を鷲掴んで深く下げるように手に圧を込めた。 「こういう時はお疲れ様ですだろバカ!」 「…お疲れ様、です」 頭を下げる将未の姿に鞍瀬の視線が滑る。怪訝そうに眉を寄せたかと思うと、顔を上げたヒデに顎をしゃくった。 「おう。ヒデ。なんだこのぼんやりしたのは」 頭を上げた将未は文字通りに直立不動の姿勢を取る。鞍瀬の眼光は、あの賀川よりもずっと険しく、強く、瞳を覗かれただけでぞくりと肌が粟立つ程だった。 促されたヒデが将未を見遣る。なんと説明すべきかと眉を垂れつつも、へら、と口元を緩めた。 「広瀬です。昨日ボスが拾って、今日から部屋住みっす」 「……なんか癖でもあんのか。あの親子は」 拾った、という単語に鞍瀬の眉間にはますます深く皺が刻まれる。呟いた言葉の意味は捉えられない。再度まじまじと将未を眺めた鞍瀬は、側で控えている組員が手にしている灰皿に短くなった白筒の先を押し付けた。 「…まあ良いわ。アイツに直接聴く。…服だけなんとかしとけよ。格好がつかねえ、」 将未の出で立ちは店に勤めていた時と同じ白のシャツと黒のスラックスである。確かに周囲の安そうなスーツや妙な柄のセーター等とは雰囲気が異なるだろうか。ヒデの元気な返答を聞き届けた鞍瀬は、億劫そうな足取りで二階に続く廊下へと出ていった。 〇◎〇 雄誠会会長補佐、鞍瀬理久は矢立煇が好きではない。 矢立は現在三十代半ばを過ぎた鞍瀬が二十代前半の頃から心酔し、命を賭けても構わないと思っている雄誠会会長の一人息子ではあるが、鞍瀬に言わせると自分は矢立の父親に仕えているのであって、この息子の下に付いたつもりはないというのが理屈である。 年季と年齢は鞍瀬が上で、だが組織中の序列としては若頭である矢立の方が上だ。構図的に見てしまうと複雑だが、鞍瀬にとってはそんな数字の話よりも、矢立の心根や性格が気に入らない。自分が仕える父親に比べーーそこらのヤクザに比べても、矢立煇は静かで大人し過ぎる。幼い頃から父親に溺愛されて育ってきたという、ある意味では温室育ちであることの重大な後遺症なのか、性格も何処かぼんやりした節がある。その癖、幼少期からの環境が高じてか、組に出入りする顔も素行も悪い人間達に対して怯えることや卑屈になる事がある訳では無い。野心や山っ気とは無縁で、淡々と生きているように見えるこの男がいずれは現在の会長に代わって組を継ぐのかと思うと鞍瀬は一層腹立たしい。 そんな全てのことを総合し、鞍瀬は矢立が好きではなかったが、何かと用が発生してはこうして数週間に一度は支部を訪れ、若頭と顔を合わせることとなっている。父親が息子に持たせた雄誠会の支部は、本部とはそれ程離れていないことだけが幸いだった。 「よお」 「…鞍瀬さん。お疲れ様です」 支部の2階には部屋住み用の部屋が一つと矢立の仕事部屋がある。若頭という役職にも関わらず、他に出来る人間がいないという理由で日々細かい事務仕事に追われる矢立はこの部屋で机の前に向かっていることが多い。ノックもせずに現れた鞍瀬の姿に顔を上げ、手を止める。無遠慮に部屋に入ってきた鞍瀬は休憩用のソファーの背に腰を下ろし、長い足を組んだ。 「今日はなにか、」 鞍瀬が支部にやって来るということは、電話では済ませられない伝達事項があるということを示している。煙草を吸わない矢立の机の上にある灰皿は、以前鞍瀬がこの部屋を訪れた時に灰皿も無いのかと怒り出した為に置いてある。そのガラス製の灰皿の縁を指で引き寄せつつ、鞍瀬は片手で煙草の箱を開けた。 「ーー豪能組がまた動き出した」 「……豪能、ですか」 声を潜める鞍瀬に、矢立は微かにうんざりしたような色を混ぜて呟くも、その中には微かに想定していたという気配がある。反応を眺めつつ、鞍瀬が煙草のフィルターを唇に挟んだ。銀色の喫煙具で火を灯し、深い呼吸を置く。 「年明け前から内地の方ではバタバタしてたしな。こっちも何とかしたくなってきたんだろ。迷惑な話だ」 豪能組は、関東圏に本家がある老舗の暴力団組織である。広域な活動は全国的にも有名で、その支部はもちろんこの札幌にも存在している。巨大な組織同士の争いは専ら本州の方で繰り広げられるものが多いが、時折こうして火種が海を渡ってくる。道内にある小さな暴力団組織を傘下に置き、勢力として束ねたい。自分達以外の組織を田舎ヤクザと揶揄する豪能組の狙いははっきりしているものだから、立ち向かう他の組織はある意味で闘いやすい。矢立の脳裏に現在の豪能組のトップの頭が過ぎる。狡猾で計算高い五十代だ。 「この間鳳勝の所にハイエース突っ込もうとして失敗してる。あそこのオヤジがキレ散らかしてたらしいけど、その分ならウチに来るのも時間の問題だろ」 ふー、と長い息を吐くと共に煙を吐き出す。聞いています。小さく呟いた後は、矢立はじっと鞍瀬の話を聞いている。 鳳勝会は雄誠会とほとんど同規模の組織で、会長同士が旧知の仲ということもあって互いに暗黙の平和協定を結ぶ関係にある。鳳勝会の会長は既に六十代に乗った筈だが、今より更に血気盛んだった若い頃の遺恨を理由に蛇蝎のごとく豪能組を嫌っている。雄誠会と鳳勝会の協定は専ら豪能組への対抗策であり、鳳勝会が動くのであれば雄誠会も静観している訳にはいくまい、鞍瀬の伝達事項はそこに帰結するようだった。 「…それとなく、下のモンに伝えておきます」 「そうしてくれ。何かあったらすぐ動けるようにしとけよ」 本部も構えておく。呟くように足して、鞍瀬はまだ吸い終わらない煙草の先を灰皿の上で押し潰す。話は終わったとソファーから降りようとするも、ふと矢立の顔をまじまじと見やった。 「……?」 「あのぼんやりしたの、お前が拾って来たってか」 鞍瀬が示す事項が分からず、矢立はしばし間を置いた。せっかちな鞍瀬が苛立たしげに眉を寄せる。 「広瀬とか言ったか。下で会った、」 「…ああ…。……昨日の深夜、鴨鴨川の側で拾いました。荷物1つで道端で眠ろうとしていたので、」 なんだそりゃ。口の中で呟いた鞍瀬がもう一本白筒を咥える。火を付けず、先端を上下に揺らして弄びつつガシガシと短髪を掻いた。 「お前もオヤジも…犬猫拾うみてえにほいほい人拾ってくんじゃねえよ。癖か」 その鞍瀬もまた、走り屋を経てチンピラ風情に成っていた若い頃に矢立の父親に拾わた経緯がある。溜め息混じりにボヤく鞍瀬に、矢立が困ったように眉を下げた。 「身元は、」 「ススキノの店で働いていた所を見たことがあります。大分酷い扱いをされていたようで、」 「どこだよ」 矢立が将未の所属していた店の名前を告げると、鞍瀬の眉間にいよいよ深い皺が寄った。露骨に法に触れるような危ない店は管理したくはない。ああいう店こそ豪能組に押し付けるべきだと思っている。 「なんでそいつが道端に落ちてんだよ」 「……わかりません。追い出されたのか…出てきたのか…」 「で、部屋住みか。風紀が乱れそうだな」 あの広瀬という男には妙な色気がある。ぼんやり、という表現は間違ってない。だが、男と寝ることを商売としていた経歴がフィルターをかけるのか、ぼんやりした雰囲気とはアンバランスにも思える整った顔立ちからはなるほど男を好みそうな男を引きそうな空気が漂っていた。鞍瀬は基本的に男には興味がないが、コートの上からでもわかる細い腰が、目の毒になる男もいるだろうかと頭の隅で巡らせる。 鞍瀬は半ば冗談のつもりだったが、矢立は眉ひとつ動かさない。言葉を選び、吟味してから口を開く男はしばし黙った後にぽつりと零す。 「…たまたま、車で通りかかったんですが、」 ーー寒空の下、膝を抱えるように蹲っていた。 冷え切った手を握り締め、寂しそうに空を仰いだ後、将未は雪の中で躊躇することなく眠りにつこうとしていた。 ヒデが運転する温かな車内の後部座席、見た事のある人間だと車を停めさせ、あのままどうするのかと見守ったいた矢立の目には、将未のその姿が悲しくて、痛々しくて、寂しくて仕方がなく映った。 だから拾った。行き場の無いーー行き場を求めて盛り場を彷徨いてた筈だが、いつしかその盛り場の灯りさえ届かない場所へと迷い込んでしまったような野良を、一人。 「……寒そう、でしたので」 思いは巡らせど、その全てを口にする男ではない。たっぷり時間を掛けたわりには短く結ばれた矢立の言葉に鞍瀬の長い指が顎の下を撫でる。ふうん、と鼻を鳴らし、思案げに視線を上向かせてからまた矢立を見据えた。 「…豪能のスパイじゃねえんだろうな」 「……スパイなら…もっと有能な人間を送ってくるかと」 いわゆる天然というものなのか、それとも芯を食っているのか。矢立は時折辛辣なことを口にする。 いずれにせよ、スパイ等とは古風な単語だ。鞍瀬が鼻から長く息を抜き、咥えたままの煙草の先端に火をつけた。 矢立の目を見る。脳裏に、さっき出会った広瀬将未の目が過ぎる。身にかかる全てのことを受け入れ、境遇を諦め、期待することを忘れてただ憂う目をする。その目は、鞍瀬が長年見続けている矢立の目によく似ている。この生まれ持って雄誠会の跡目とされていた矢立の決定的な弱点はヤクザ家業に向いていないことだ。向いていないが、親や運命に抗うことなく、敷かれた道を黙々と歩み続ける。その過程で、矢立はいつの間にか憂鬱が染み付いたような目をするようになっていた。 立ち塞がるものに抗うことを知らない人生。それも鞍瀬が矢立を毛嫌いする理由の1つではあるが、将未の背にもそれが乗るのであれば、自分はおそらく将未とは相性が悪い。 「…お前さあ、」 「…?」 矢立が将未を拾った理由を口にしようとし、止めた。おそらく、矢立にはその理由の自覚はない。 「…いや。良いわ。…なんにせよ、拾ったもんは最後まで責任持って飼えよ」 犬猫拾うように、と言ったわりには犬猫のような扱いをする。 こうして会長の側に居続けられる自分は幸運だ。だが、その幸運は自分自自身の漢気や腕っ節、そして会長への忠誠心を持ってのし上がり、掴んだものだと鞍瀬は自負している。果たしてあの将未には、何かにしがみつくような気概はあるのか。部屋に充満した煙のように、不意にモヤが掛かる視界に顔を顰め、鞍瀬はようやく部屋を辞する為にソファーの背から腰を上げた。

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