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「ひーろーせ」 昼間、外から帰ってきた潮見が、ヒデと共に玄関の前の掃き掃除をしている将未の姿を見るなり口角を持ち上げて歩み寄ってきた。捲りあげたシャツの袖口で汗を拭う将未の肩に不躾に太い腕を回したかと思うと、煙草臭い体を押し付けてくる。あくまで親しげな様子で絡む潮見にヒデは小さく瞠目した。 「今日の夜、遊ぼうぜ」 囁きに、将未が僅かに間を置いて頷く。表情こそ変えないものの、確かな動作を見やった潮見がますます嬉しげに頬を緩めた。含んだ笑いにヒデが訝しげな眼差しを送ったかと思うと、軽く眉間に皺を作って潮見を見遣る。 「てめぇ今日見張り番だろうが。忘れてんのかよ」 「…あ、…じゃあ明後日な、明後日」 やや低く、将未と接する時には決して出さない声音を向けられた潮見が一度目を瞬かせ、ややバツが悪そうに太い眉を下げた。舌打ちを飲み込み、ヒデに睨まれた事にも懲りない様子でへらへらと笑う潮見に将未が浅く顎を引いた。無骨な指で将未の尻を一つ叩き、潮見が鼻歌混じりに事務所の中へと消えていく。 すっかり見慣れてしまった後ろ姿を見送った将未が細く息を吐き出した。高い位置からの溜め息と思しき呼吸を受けたヒデが将未を見上げる。目は普段と同じ色に戻っていた。 「なんだ。お前潮見と仲良くなったのか?最近付き合い悪いとは思ってたけど、」 「……、」 潮見達との行為は、1週間に1度程のペースで続いていた。将未を逃がさないようにする為なのか、律儀に夜の予約をしては男達はいつも三人連れ立って部屋を訪れる。潮見達は、将未を手軽な欲の発散の対象や、好き勝手に遊ぶことが出来る道具だと思っているらしい。上層部に可愛がられる下っ端への嫉妬心は最早後付けであり、抵抗することの無い将未の身体を夜通し犯し、顔面を始めとして身体中を汚しては征服欲と性欲を同時に満たして朝方部屋を出ていく。それは昔、店で客を取っていた頃の生活と何処か似ているようで、将未の方は一連の流れをただ淡々と受け入れている。 だが、その事は矢立はおろか、ヒデにも告げていない。この屈託のない、自分の面倒を見てくれるヒデは自分が複数の男を咥え込む姿を見るとどう思うのか。想像は出来なかったが、この男には見られたくはないと思った。 冗談のつもりで向けた言葉に対して黙り込む将未の横顔を、ヒデが案ずる眼差しで見上げる。夏の日差しはきつく、過ぎった心配を誤魔化すように目を細めた。 「良いけどよ。アイツ…潮見、あんま素行良くねえからな。要らねえこと教えられるんじゃねえぞ」 「……はい、」 ヤクザのような組織の中でも素行の良い悪いはあるのだろうか。ぼんやりと思いつつも、深く頷く。ヒデに嘘を付いていると思うと、明るい日差しの下にも関わらず将未は無性に悲しくなった。 「…明後日の、…その次は、…ヒデさんと、遊びます」 ぽつ、と呟いた言葉に他意は無い。酒は相変わらず飲めないが、ヒデに連れられて行く安い居酒屋や、コンビニの前で行う立ち食いは楽しいと思ったことを思い出した。何も男と寝ることだけが、全てではないはずだ。 伏し目がちの将未の口から零れた言葉に、ヒデが1度目を瞬かせた後、照れ臭そうに破顔した。 一日を終え、ベッドに腰掛けて吐息を逃す。どんな場所にいても、どんな境遇に置かれても日々は淡々と過ぎていく事は変わらない。階下からは、時折弾けるような笑い声と、ジャラジャラと麻雀牌を掻き回す音がする。今日の見張りは潮見達だ。見張りが事務所を空にすることは固く禁じられているから、今夜は誰かが部屋を訪れる事は無い。 明日。昼間、潮見が言っていた。明日の夜にはまた身体を組み伏せられ、暴かれる。行為を想像する将未の芯にぞくりとした、だが熱いものが走る。身体中を男に触れられ、内側を擦られ、快楽を引き摺り出される感覚が生々しく身体を這い回る。早く明日が来ないだろうか。潮見達の行為を心待ちにしているような自分が顔を覗かせ、それがまた悪寒を走らせる。 ーー想像だけでは空虚は埋まらない。小さく息を飲み込み、そっと自分の下肢に触れた。 性の発散だけであれば、自分以外の誰かの手は必要が無いだろう。だが、行為に没頭している間は、胸の空虚は霧散する筈だ。スラックスのジッパーを下ろし、下着の中に指を差し込む。欲に指を絡めて取り出しては、ゆるゆると上下に扱き始めた。 「…っ、」 たちまち芯を帯びる熱の先端を擽り、鈴口に指を立て、短い爪で掻く。零れる吐息すらも熱を敏感にさせるようで、先走りの滑りを感じる頃には将未は目を伏せて背を丸め、行為に身を委ねていく。 脳裏に浮かべる男の相貌は判然としない。相手が誰であれ、将未にとっては関係がない。ただ自分の身体を這い、熱に触れた手付きの記憶を引っ張り出しては反芻し、夢中で雄を慰めた。 「ぁ、…っあ、あ、…ッ…!」 腰から背に這い上がる快楽にぶるりと睫毛を震わせた。階下に声は届かない筈だ。しかし、漏れる小さな喘ぎすらも噛み殺し、将未は手の中に精を吐き出した。 「……、」 脱力した身体を、どさりとベッドに横たえた。触れないままの双丘のその奥からじわりと何かが湧き上がるような気配を感じては嫌悪するように眉を寄せ、きつく瞼を閉ざす。 悪戯にーー自慰だけでは何もかもが不足していると証明してしまっただけだという虚しさに無性に泣きたくなる。 自分はいつからこんなに淫らな人間になってしまったのか。 教え込まれ、染み付いたものは取り返しがつかないのか。 誰かに触れられたい。 嘘でも、一時でも構わないから、求められたのならこの虚しさは無くなる。ーー否、身体だけを求められた所で、行為が終わればすぐにまた渇望は去来する。 自分は何を与えられれば満たされるのだろうか。 探しても見付からず、探し終えるよりも先に暗い行き止まりへと辿り着く。自分はきっと、何処にも行けず、欠けた部分をいつまでも埋められないままだ。 そもそも自分は探し物を探すということすらして来なかった。欠けたものは自ら探せば良いのだと気付く機会も逸してしまっていたらしい。自我の目覚めの時期にも、淫らな身体になる前にも引き返す事は出来ないことだけは理解している。 行き止まりだーー。瞼を落とし、諦観の溜め息を吐き出した。 目を閉じてしまうと同時に吐精による眠気がやって来る。緩く、漠然とした絶望感に包み込まれたまま、将未は浅い眠りに落ちていった。 〇●〇 汗や体臭、それと潮見や見張りの男の口元にある煙草の煙に満ちた部屋は、外に音が漏れるのを防ぐ為に換気等はしていない。蒸し暑く、息苦しさすら覚える空気の中、瞳を閉ざしたままの将未の身体が背後からしつこく揺さぶられる。既に汗や、自分以外の人間の精に塗れた身体の奥からは今夜も将未の期待した通りに欠乏感が消え去っている。 ベッドが軋む音が煩いのか、潮見がにわかに顔を顰めた。苛立ちをぶつけるように将未の双丘をぴしゃりと叩き、反応し、震える腰を片手で鷲掴みにして乱暴な動作で腰を押し付ける。目の前の男根、反った竿にしゃぶり付いていた将未がびくりと身体を震わせた。 「オラもっと締めろ。休んでんじゃねえよ」 「っ、んッ、ふ…、」 片手で下肢をまさぐり、自ら熱を握り込む。溢れる先走りを塗り付けるように雄を扱くと、既に数回吐精した自身から薄い精が散る。自らの手で果てた将未の体内に埋め込まれた潮見の怒張が強く締め付けられた。恍惚とした潮見の吐息を背に感じつつ、別の男の陰茎に吸い付き、舌を這わせる。脈打つ熱から散った精が将未の少し長い前髪を汚した。既に唾液が溢れる口の端から溢れかける精を喉を上下させて飲み下す様に、坊主頭の男が満足げに目を細める。 「なあ。代われよ潮見。早くイケって」 「るせえな。お前が早いんだよ、」 男たちの冗談めかした声音が背の上で行き来する。ゲラゲラと笑いつつ将未の口腔と後ろを犯しては、時折思い出したように犯す対象の顔を見やる。金のかからない風俗は誘いはいつも断らない。とろりと惚けたような眼差しが潮見を振り返った。 「ッ…、もう、潮見、さん、」 「ああ?へばってんじゃねえよ、」 軋んでいるのはベッドだけではない。長時間の性交を強いられる細い身体は軋み、後孔はとうに赤く熱を持っている。唇から男根が離れた隙を縫うように潮見を振り返ると、短気な男は腰を振りながら額に青筋を立てた。抱えた腰に咥えたままの煙草の火を押し付けると、将未からは喘ぎとは違う種類の声が口を突きかける。咄嗟に手の甲に歯を立てた将未が必死に声を噛み殺す様を眺めては、潮見が坊主頭を見やった。 「…なあ。挿れさせてやるよ、」 「あ?」 目の前の男に向けて視線をギラつかせる。一段と色を濃くした不穏な気配に見張りの男が振り返る。潮見の指が将未の双丘を割り、既に自身が埋まる後孔に指を差し込み、口を広げた。これまでとは異なる感覚に将未は思わず顔を上げた。 「っぁ、…!やめ、広げ、ないで、」 「これだけ緩くなってんだ。口じゃなくてこっちで咥えられんだろ。来いよ」 呼ばれた男が下卑た笑みを浮かべた。壊れるーー潮見が口にする、求める行為を察した将未の顔が歪む。恐怖に思わずシーツを蹴るも、頼りない布地と、屈強な潮見の手が許さない。歩み寄った男に片足を掴まれ、大きく膝を折り曲げられた。経験したことの無い行為が、否が応にも身体を固くさせる。 「やめ、やめてください、無理…っ、」 「うるせえ!騒ぐんじゃねえ!」 懇願に近い声を漏らす将未の頬が掌で張られた。口の中が切れ、走る痛みは、遠い記憶さえも引き摺り出して将未の拒絶の意志を削ぐ。抗わなければ褒められる。受け入れたのなら行為はいつか終わり、解放される。胸の空虚は、今は、無い。 眉根を寄せ、唇を噛み締めたその時だった。 「ーー広瀬?」 パーテーションの向こう、ドアが開く音がした。よく知った声に、さっと将未の血の気が引く。脳裏に浮かぶ人物の来訪に目の前が暗くなるも、起き上がる間も、余地などもある筈もない。深夜にも関わらず、雑な足音を立ててやって来た兄貴分が、コンビニの袋を掲げながら衝立の向こうからひょいと顔を覗かせた。 「この間言ってた新商品。あれあったからーー…、」 酒が入っているのか、やや赤みが射したヒデの笑顔が、目の前の光景に硬直した。瞠目するヒデに、あられも無い体勢を取らされ、潮見の男根を咥えたままの将未の視線が重なった。どさ、と音を立て、ヒデの手から離れたコンビニの袋が床に落ちた。 「何やってんだお前ら!!」 転がり出たカップ麺を蹴り飛ばすように走り寄ったヒデが電光石火の如くベッドに乗り上げた。見られてしまった。見られたくない男に。過ぎる絶望を感じながらも、将未はその場から動けない。 だが、逃げる間も与えられなかったのは将未だけではない。誰かが言葉を発するより先にヒデが振った拳は潮見の頬の中心を捉え、嫌な音を立てた。 「ヒデさ、」 「何やってんだって聞いてんだ!!ああ!?」 不意をつかれた形でまともに殴り飛ばされた潮見が強かに壁に頭を打ち付けた。その首根っこを掴んだヒデが滅茶苦茶に顔を殴り付ける。薄暗い部屋の中に、鮮やかな色の血が飛んだ。他の二人の男たちは、ヒデの剣幕に逃げるでもなく、やはり身を固くしたままただ立ち尽くしている。 「っ、ヒデさん、やめ、」 目の前の光景を呆然と見つめていた将未の足首に一滴血が散った。不快な感触に我に返って起き上がり、慌ててヒデの腰に手を伸ばす。ベルトを掴み、さっきまで漏らしていた喘ぎに掠れてしまった声を上げた。 「てめえ止めてんじゃねえよ広瀬!お前なにされてたかわかってんのか!!」 「…違、」 お前が誘ったんだ。最初の夜、潮見に向けられた言葉を思い出す。矢立に迷惑をかけてはいけない。このことは他の誰にも知られてはいけない。 自分は幾度も経験している。これはーーごく普通のことだというのにーー。 振り返るヒデの目が血走っている。目にしたことの無いヒデの剣幕に恐怖に震える指を堪え、将未が首を横に振ると、それを目にした潮見が血だらけの顔面で微かに口元で笑った。 「俺が、…誘ったんです、」 「ああ!?んなわけ、」 鉄の味がする口内で唾を飲み込み、震える声を絞る。左右に小刻みに首を振り、ヒデを見上げた。 「俺が誘ったんです。俺が、…しましょうって、…っ、だから、」 目を見られない。嘘を付きたくはない。ーーこれは本当に嘘なのか。自らを疑い、後ろめたさを背負う。始めに手を出したのは潮見だ。だが、自分は。 男たちに身体を暴かれ、精を掛けられ、熱を受け入れいている時に胸に在ったものと無かったものを思う。 二度と男に身体を触れられなくても良いのだ。そう思っていたのは果たしていつだったか。客を取らなくなった頃か。それとも、ここに住み始めた時か。 搾取されることから逃れられた安堵は確かにあった。だが、それとは裏腹に、胸には常に欠落感や渇望があった。 再び潮見達に貪られているその最中。今初めの時も、今も。 自分の欲望は、確かに満たされてしまっていたのだーー。 激昴していたヒデが手を止め、将未の目を覗く。そんなはずは無いだろう。伺う瞳が戸惑っている。 「広瀬、」 「俺が、…誘いました」 将未の声音は変わらない。冷静さすら漂わせる部下を、ヒデは信じられないと言いたげな眼差しで見下ろしている。 自分が誘った。ーー潮見は、間違ってはいない。 自分が誘った。自分の欲を、満たすために。 ヒデが眉根を寄せる。潮見から手を離し、暫くじっと将未を見つめていた。合わなくなった視線に舌打ちし、腹立たしげに潮見の腹を蹴り飛ばした。 「…広瀬。シャワーして来い」 「……」 潮見が発した、ぎゃ、という汚い叫び声に一層顔を顰めてヒデが呟く。顔を上げた将未の目を見据えてから顎で退室を示した後、ヒデは再び潮見を睨み付け、逃さぬようにと首根っこを掴む。 「お前らは下来い。このままハイそうですかなんて納得するとでも思ってんのか。ボスにも報告すっからな、」 「それは…!」 狼狽する潮見をヒデが視線で黙らせる。服着ろ、と怒鳴るヒデがこれ程までに激怒する様を見たことがなかったという事に、将未はその時初めて気が付いた。 〇●〇 窓の外では土砂降りの雨が降っている。昨日まで数日続いていた高温が尾を引く形で、外気もこの矢立の私室も酷く蒸いものになっていた。 ヒデの報告を聞き終えた矢立が鼻から息を抜く。背筋を伸ばした姿勢のまま、矢立の反応を待っていたヒデもまた緊張感を解放するように微かに息を吐き出した。 ヒデは幹部ではないが、支部の古株で矢立との付き合いは長い。気立ての良さも手伝い今では運転手兼側近の様な扱いになっているが身分としては一介の構成員である。だが、序列にさほど頓着しないヒデには、この物静かな若頭を影で支えているのは自分だという自負があり、だからこそ矢立が今途方に暮れている様が手に取るようにわかる。矢立自ら拾った部屋住みが、そして自分の片腕のような男が面倒を見ていた部屋住みが引き起こしたと告げられる事態に矢立は腕を組み、デスクの上に視線を落とすと黙ったままで思考を巡らせている。 「…すんません」 後ろ手に腕を組み、重たい声音でヒデが呟く。矢立が顔を上げた。 「俺が、もっとちゃんと見ていれば良かったんだと思います」 「お前は悪くない、」 日頃言い淀む、というよりも十分に言葉を選び、吟味してから口を開く矢立が間を置かずに返す。その眼差しは真剣であったが、すぐに揺れて逸らされた。 「…潮見達は、本部に回す」 「…広瀬は、」 悪事を働いたとはいえ、潮見達もまた支部で働いていた男達だ。事の顛末を知れば潮見達は本部を仕切る鞍瀬から相当の制裁を受けるだろう。腐っても矢立の部下である潮見達を慮ってしまえば事情を鞍瀬に話すことも迷うところだったが、一方の広瀬の方はまだ雄誠会に所属してから半年しか経っていない。半端なままの部屋住みを放り出すように本部に送る事は出来ない。ましてあの広瀬だ。支部よりも荒っぽい本部で務められるような性分にはまだ程遠い。 なにより、広瀬を拾った自分の手元から離れた場所に動かしてしまう事は酷なことだ。ヒデの報告では広瀬が引き起こした事態であるとのことではあったが、潮見達の方を引き離すことは必然だと思った。 ーーそもそも本来は部屋住みは、親分の家で寝泊まりし、親分の世話をしながら組のしきたりやヤクザという組織を身をもって覚える為にある制度だ。だが矢立自身は家にまでヤクザの風を入れたくはない。その意識が今の雄誠会の支部の部屋住みの制度を作らせた。 不意に、鞍瀬の言葉を思い出す。「風紀が乱れそうだ」。支部に置いた部屋住みは最低1年は務めさせることが慣例であるがどうするべきか。 「…俺、…広瀬が誘ったとは思えないんす、」 悩む矢立を前にヒデが声を潜めて呟いた。日頃快活で明るい男が真剣な目をしている。矢立は黙って続きを促す。 「自分が誘ったって言ったけど、多分違うと思います。潮見達も、…俺がアイツに構い過ぎてんのが面白くなかったってゲロってますし」 自分の所為だ。ヒデの声音は終始その色が漂っている。可愛い弟分が衣服を剥かれ、男たちに犯されていた。その光景がヒデを一も二もなく激昴させた。だが昨晩、ベルトを掴む将未の目の色に感じた違和感が拭いきれない。自分が誘ったと主張するわりには、潮見達を庇うでも、殴ることを止めて欲しいという懇願でも、まして開き直りでもなかった。ヒデの眉間にも皺が刻まれた。 「……けどアイツ、…なんか、変なんです」 「…変、」 床に視線を落とすヒデが困ったように首を捻る。気立ては良く、要領も悪くはないが学は無い。そのヒデが懸命に言葉を探している様子が見て取れた。 「変ていうか、…上手く言えねえんですけど、当たり前のこと、みてえな」 「……」 「男にヤラれるのが当たり前みてえな。殴られた跡もあったけど、そういうのも全部アイツにとっては普通のこと、って感じで…どっか平然としてるっていうか、」 歯切れが悪い上に、言葉も足りていない。だが、矢立の中には何かが腑に落ちるものがあった。小さく瞠目する矢立の表情を伺い、ヒデはまた言葉を探す。眉を寄せ、付け足した。 「なんか、…変な意味じゃなくて、…どっか足りてねえ、みてえな」 「…ああ、」 足りていない。 広瀬を称するに相応しい言葉だと思った。 以前ヒデが言っていた言葉を思い出す。初めて将未に会った日、ラーメン屋に連れて行ったヒデは将未に冗談まじりに前科を聞いたという。将未は困ったように眉を下げ、そういうものは何も無い、と答えたから、それならと故郷はどこかと尋ねた。その時も将未は。 「…何も無い、か、」 自分には何も無い。少し考えた後に将未は確かにそう言ったという。それが何を指すのかはヒデは深くは考えず、とりあえずその場の話は続けなかった。 前科や、いわゆる武勇伝を引っ提げて組に入ってくる男は少なくはない。故郷や親を捨てる覚悟でこの世界に飛び込んでくる男が多いのも必然的なものだろう。だが、いくら本人が捨てたと吹聴し、思い込んでも今生きている人間には必ず産みの親があり、生きてきた道があるはずだ。その全てが、「何も無い」人間など存在するだろうか。 将未を保護した後、矢立は将未が以前使われていた店に顔を出す機会があった。その時に、将未の身の上を聞くなり、身元や経歴を記したりする何かを引き取っても良かったのだが、人手が欠けた為なのか以前よりも更に雑然とした事務所の光景と、忙しそうな賀川と畑山の姿を見た矢立はそれをしなかった。自分の元に居ると知れば、賀川は何も無かったような顔をして返してくれと言い出しかねないと感じたからだ。 広瀬将未には何も無い。 それは果たして書類上の話だけだろうか。 あちこちが「足りていない」広瀬。「何も無い」事と「足りていない」事とは繋がり合って結び付き、広瀬将未を未だ人には成らせないのではないだろうかーー。 記憶を連ねて考えを巡らせる矢立にじっと視線が向けられている。我に返り、組んでいた腕を解くともう一度鼻から息を抜いた。 「…部屋を、探すか」 「部屋ですか」 いずれにせよ、広瀬を部屋住みにしたまま傍に置いておけばまた同じことが起こらないようにと自分やヒデは意識してしまうだろう。今までよりも更に目をかけずにはいられないから、そうなると今度はその事がまた、他の組員達に潮見達のような妙な嫉妬を起こしかねない。異例ではあるが、喧嘩両成敗の体を取って双方を物理的に引き離すことに決めた。 「組が管理しているアパートで空きを探してそこに住まわせようと思う」 どうだろう、矢立の目が伺っている。ヒデが小さく唸り、胸の前で腕を組んだ。眉を寄せたまま、深く首を捻ってみせる。 「…アイツ…一人暮らしとかしたことあるんですかね…」 「……、」 「……掃除洗濯は出来るらしいすけど…、アイツこの間生玉子レンチンしてましたけど」 「……」 給湯室に置かれた電子レンジがいつの間にか新調されていた理由を矢立は今知った。 広瀬将未に欠けているものは、自分達が想像しているよりも、多岐に渡り、数限りない。そんな予感を感じ取った矢立とヒデは阿吽の呼吸で顔を見合せたまま、そのまま口を閉ざして黙り込んだ。

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