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年末年始は抗争を休戦すること。 昔気質の、というよりも近年あちこちで抗争が激化している現在においては化石のようなこの協定は、それでも破れば後の火消しに莫大な金や人間を投入することになっているとわかっている。何しろヤクザが重んじる「義理」や「男気」という道理に反する。 内地で頻発している抗争は案の定、冬の津軽海峡を越えてきた。この豪能組の札幌支部にも本部から兵隊を増やせ、勢力を拡大しろとの命令が下っている。 今年の1月、年始が明けるのを待って豪能組はひとまず昔から小競り合いが多い鳳勝会に奇襲を掛けたがそれが失敗に終わった。無用の失敗を重ねて本部を怒らせたくは無い札幌支部は様子見の構えのまま春をやり過ごしたが、厄介なことに、冬場の失敗は夏になった今も尾を引いてる。 「鳳勝はどうなった」 夏の遅い夕暮れ時の薄暗い事務所の中、男が低く唸るように呟いた。ブラインドから射し込む西陽が、男がくゆらす煙草の煙を目の前にくっきりと浮かび上がらせる。指し向かいに座る男が鼻から息を抜いた。 「未だ臨戦態勢です。組長が張り切ってるのか、いつでも迎え撃つといった風情で事務所を固めています」 支部の先代が理由を撒いたと聞く仲の悪さは現在ではただの荷物だ。数十年前の遺恨を物持ち良く携えているだけあり、鳳勝会の会長はとにかくしつこい。豪能組とて今のヤクザへの風当たりが強い世の中で、この狭い札幌で無用な争いを頻発させて警察や市民を刺激することは避けたい。奇襲はやはり一発で成功させるべきだった。鉄砲玉にしたハイエースの運転手の泣き顔を思い出しては、男、豪能組若頭である安樂は大きく舌打ちする。 「今鳳勝に手を出すのは文字通り悪手かと」 「…雄誠は代替わりしたのか」 鳳勝会と雄誠会は1枚岩だ。田舎ヤクザ同士の互助を侮ってはいけないということを本部の人間は知らないのだ。何かことが起これば二つの組は結束して豪能に向かって来ることだろう。 互いの会長同士は古くからの付き合いで入魂の仲だと聞いている。雄誠会の会長の方が幾分か年下だが、その分行動力も機動力もあることは世間の噂で承知している。ーー不幸中の幸いというものを拾うのであれば、耳に入ってくる雄誠会の会長の息子の評判だ。 「いえ。まだのようです」 「代替わりしちまってるなら話は早いんだけどな」 雄誠会若頭、矢立煇は腑抜けだ。 寄り合いでまことしやかに流れている噂は噂であるまい。安樂もまた、男の姿を一度目にしたことがあるが噂通りの大人しそうな、誰かに噛み付いてくる牙などひとつも無いような男だった。親譲りの顔の厳しさだけはあるようだが、その親に敷かれた道を歩いているだけの三十そこそこの若い男が組織1つを束ねられるとは思えない。 代替わりは未だしていない。今は支部を任されていると聞いている。ーー鳳勝会が駄目なら雄誠会をつつくしかあるまい。 「……アイツを呼べ」 問い直す部下に向かって安樂が一人の人間の名を口にする。 本部からの命の遂行には、幾ばくかの投資が必要だ。忌々しげに舌打ちし、安樂はまだ長い煙草の残りを吸うことなく、灰皿の上に穂先を強く押し付けた。 、 〇◎〇 じりじりと照り付ける陽射しの下、将未がもう数十分の間不動産屋の前の看板を睨み付けている。整然と貼り付けられた物件を眉を寄せつつ眺める、風貌だけはいかにもヤクザの下っ端といった男が佇んでいる様に、店内のカウンターに座る店員は見て見ぬふりを決め込むことにしたらしい。1度将未の姿を見たその後は、腰を浮かせる素振りもなく慌てて視線を逸らして熱心にパソコンに向き合っていた。 単身者用の物件を目で拾ってはいるが、将未には価格の相場がわからない。風呂とトイレがあればそれで良いとは思ったものの、その2つが無い部屋の方が稀らしい。どれも似たような間取りのワンルームであるから、後は横に添えられた築年数を見てみるものの、世間を知らない将未にとっめは数字上で物件の新旧を測ることは出来ても外観や内部の様子を想像をすることも難しい。 そもそも、一人暮らしをするということは部屋があれば良いというだけではあるまい。思えば今まで渡り歩いた場所は環境はともかくとして、寝床だけは備わっていた。例えそれがプライバシーなど欠片も無い雑魚寝の施設でも、かつて身を置いていたススキノの風俗店の《商品》達と頭を並べて眠るタコ部屋のようなものであっても、体を休めて眠る場所はあったのだと気が付く。 本当に一人暮らしをするとなれば、寝床を始めとしてあらゆる物を揃えなければならないのではないだろうか。通帳というものを持ったことが無い将未の所持金は全て店を出る時ーーそれ以前、中学の時の修学旅行か何かの際に施設で必要な物として買い与えられたボストンバッグの中にある。稼いだ金、というよりも店にいた時に畑山と寝ることと引き返えに貰っていた金は使い道が無かったとはいえ微々たるものだ。現在は、ヒデ曰くヤクザは小遣い制だということで特に決まった日付は無いが時折矢立が自ら配る茶封筒の中に入った金を受け取っているが、何しろ部屋住みだ。専ら掃除や茶汲みの仕事を与えられたままの将未の小遣いはおそらく他の組員たちよりも少ないものだろう。足りないと思うのなら自分で稼げと他の組員は言っているが、将未はまだその手立てを持っていない。 いずれにせよ、それらを掻き集めたところで果たして金は足りるのだろうか。不意に矢立の顔が脳裏に浮かぶ。 ーー結局、迷惑を掛けてしまうことになりかねない。設置されている立派な空調を入れることをせず、全ての窓を開け放った矢立の私室でのやり取りを思い出した。 真夜中、ヒデが将未と潮見達のいる部屋に踏み込んでから中1日が空いたが、ヒデが将未に接する態度は変わらなかった。 翌朝ばったり顔を合わせた時には案ずるような、何かを言いたげな目をしたことを覚えている。だがヒデはその後も将未や潮見達の処遇は口にせず、その翌日の昼過ぎに、矢立の部屋に行くようにと一言を告げてきた。 普段入る事はない矢立の部屋は、持ち主の性格に伴うように綺麗に片付いていた。室内には大きなデスクと椅子、それと重厚な応接セット以外にはほとんど物が無い。失礼します、と入室した将未を、自分の席に座ったままの矢立が短く応答して出迎える。小さく音を立てて閉まるドアの前に立った将未を、矢立もまた、普段と同じような物憂げな眼差しでじっと見上げていた。 潮見達との件はヒデから伝わっているのだろう。そうでなければ、自分のような下っ端が1人この部屋に呼ばれることは無い。あの夜起こったことをヒデが矢立にどう報告したのかはわからない。ただ、自分が誘ったという将未の主張を信じても信じなくても、潮見達が何を言ったとしても、事務所の中で組員同士の騒動を引き起こしたことは事実だ。その騒動の片割れとなった下っ端を切る事くらいは雑作ないことだろう。 矢立が1度視線を彷徨わせる。言いにくそうに口を噤んだ後、慎重な様子で目を上げた。 「……お前に、部屋から出てもらおうと思う」 将未は頭の中で既に、ここに居られなくなったら、という可能性についてぼんやりと考えていた。ーーそれ故に、静かに口を開いた矢立が発した言葉は予想していたものだった。 何処かから追い出されることは慣れている。 これでもう何度目だろうかとやはりぼんやりと思いつつ、将未はぺこりと頭を下げた。 「…お世話に…、なりました、」 「……間違えた、」 将未の動作と、将未の口からごく自然に出た言葉に慌てたのは矢立の方で、ハッとした様な妙な間が出来た。将未の目を見たままでぽつりとを呟いた矢立が眉間に皺を寄せ、顎に手を当てて考え事を始める。不思議そうな目をして顔を上げた将未を見上げ、神妙な顔をして黙り込んでは、何か探し物を見付けたような顔をする。 「…順番を、間違えた。…お前の部屋住みの期間を、終わりにしようと思う」 ボスは口下手だからな。以前ヒデが言っていた。思えばここに初めて連れられてきた朝も、矢立は部屋住みの制度も雄誠会の説明も最低限の言葉で済ませ、後は全てヒデに任せていた。ぽかんと拍子抜けしたような顔をして矢立を見つめる将未の瞳に、口の中で小さく唸っては懸命に言葉を探す様子が伝わってくる。人差し指で眉間を掻き、改めて将未に目を合わせた。 「…その、…半年経ったから。いい頃だろうと思う。…部屋は、組が持っているアパートの中から探す」 部屋住みは最低1年は経験するものだと聞いていたから、これは緊急の処置であるということは将未にでも理解出来る。申し訳なさに眉を垂れる将未を見つめてはいるが、矢立は次の説明に精一杯らしく、せっかく解した眉間の皺をまた作る。ヒデを同席させるべきだったとその相貌が語っていた。 「……今後は、その部屋から通う事になるから。…そのつもりでいてくれ。……あと、…金の心配はしなくていい、」 今日呼び出した時に告げようと用意していたことは全て告げた。矢立の目がそんな風に安堵の色を灯したことで、将未は用件が終わった事を知る。それでも、未だ虚を突かれて立ち尽くしたままの将未が、そっと口を開いた。 「…あの、」 「……」 何か質問があるのか、と矢立が身構える。会話の上で起こる突発的な事態に対応することも苦手らしい。1度目を泳がせるも、それでも話を聞く時には相手の目を見ることが矢立の癖なのか、視線は再び重なった。 「俺は…追い出されないんですか、」 今度は矢立が小さく瞠目する。緊張で強ばる将未の相貌をしばし見つめた後、当然だと言いたげに静かに、深く頷いた。 「…俺は、棄てない」 矢立にこれまでの事を話したことはない。 だが、将未の奥の埋まらない箇所を、ほんの少しだけ埋めるような声と動作が、温もりを持って胸に落ちた。 少し伸びた前髪を緩くオールバックに纏めた将未の額から汗が落ちる。そろそろ散髪に行こうかと思っていた頃、ヒデにお前はこの方が強そうに見えると薦められて黒髪を切らずに整えることにしたが、将未は自分の髪型を気にした事はない。 再び淡い溜め息を吐き出し、貼り紙を見る為に曲げていた腰を伸ばす。夏の強い陽射しの下、手にしているビニール袋の重さを思い出した。中には2リットルの緑茶のペットボトルが2本入っている。このくそ暑いのに熱い茶出す馬鹿がいるか。午前中に組員に怒鳴られ、昼休みを使って買いに出て来た。ヒデは今日は外回りの矢立の運転手をしているらしく朝から不在である。 そろそろ戻ろうか。時計も携帯電話持っていない将未は細かい時間の経過がわからない。そういえばヒデが今度は時計でも買いに行くかと言っていたが、あれも出来れば断りたい。金を貯めたいし、これから先も雄誠会の世話になるのであれば出来る限り矢立や組の財布に頼らずに過ごしたい。つらつらと考えながらくるりと踵を返すと、振り返り様、スーツ姿の男と鉢合わせた。 「…っ、すみません、」 危うく正面から衝突するところだった。慌てて道を避けつつ頭を下げると、長身の男のスラックスの中に押し込まれた右手が目に入る。頭を垂れたまますれ違おうとする将未に視線が向けられたかと思うと、男の方が綺麗に磨かれた革靴の足を止めた。 「…あれ?ねえ、お兄さん」 将未は自分が声を掛けられたとは思わない。歩みを止めない将未のシャツを不躾な指が摘んだかと思うと、緩い力で引かれ、将未はまた驚く。自分に声を掛けて来るような人間に心当たりは無い。あるとすれば店にいた時の客か、賀川や畑山くらいだ。恐る恐る振り返り、男を見遣る。ススキノの雑多な景色よりも大通りや駅の方面の方が似合いそうな、爽やかなビジネスマンといったスーツ姿の男が太陽の下でにこにこと笑っていた。 「お兄さんでしょ。ほら。コンビニの」 「……?」 物腰の柔らかそうな印象をそのままに、穏やかに問い掛けられたが将未にはやはり心当たりが無い。眉間に皺を寄せつつも戸惑いを露わにする将未に男が歩み寄り、高い背を軽く曲げる形でじっと顔を覗き込んだ。 「やっぱりそうだ。ほら。覚えてないかな。お茶とコンドーム」 「ーーあ、」 夜のススキノのコンビニ。1万円札とカートンの煙草。眩しいネオンの下で交わした一言二言。男の言葉に引っ掛かって浮上した記憶が次々に連なって形になる。再び驚く将未の姿に男が悪戯っぽく口元を持ち上げた。垂れ目がちの目が人懐っこそうに細くなる。 「思い出した?」 「…はい、」 昼間の日の下で見る男は、ススキノのネオンの中で見るよりも快活で軽やかな姿をしている。緩くパーマがかかった髪の色は陽の光を借りて一層明るく見えた。偶然の再会が嬉しいのか、男は楽しげな様子で将未の風貌を眺め下ろした。 「今日もお使い?重たそうだね」 「…はい」 「部屋、借りるの?」 こくりと頷く将未の返答を待つか待たずかの間にまた違う質問が寄越される。日頃ぼんやりしていると称され、おまけに矢立に負けず劣らず会話下手な将未は男のテンポに着いていくことに追われ始める。 「ええと、まだ、決まっていなくて、」 「お昼ご飯、食べた?」 また新たな質問が降ってくる。将未は首を横に振ることが精一杯である。じゃあちょうど良いね、男が呟いたかと思うと、背で将未を誘うようにして大股で歩き始めてしまった。 〇〇〇 「好きな物食べていいよ。お兄さんが奢ってあげる」 「……、」 断る間も遠慮する間も与えられずに連れて来られたのはヒデが逆立ちしても足を踏み入れないような小洒落た飲食店だった。当然のように将未も入ったことのない店内にはゆったりとしたBGMが流れ、上等なスーツを纏ったサラリーマンや、友人とのランチを楽しむ品の良さそうな女性たちで席が埋まっている。下っ端とはいえ、見た目だけはどう見てもヤクザ然とした将未は見るからに異分子であるが、フランクかつ行儀の良い店員は客を差別したりはしない。将未を連れて来たこの男は店の常連なのか、 若い店員と二言ほどの軽快なやり取りを交わしつつ店内を渡る。スマートに案内されたのは壁側の席で、二人は向かい合う形で席に腰を下ろした。 「嬉しいなあ。1人ランチも飽きるんだよね。時々」 呑気な声音と笑顔で渡されたメニューを開くも、ひたすら続くカタカナの羅列に将未はくラリと目眩を起こしそうになる。懸命に目を通したところで、記されているものがどんな料理なのかはわからない。思えばヒデに連れられて行く店は概ねメニューを見ればどんな料理が出てくるのかがわかるような店だった。眉を下げつつ半ば必死にメニューを読み込んでいくと、ランチメニューのアラカルトの中にミートソースパスタの文字を見付けた。これは学校給食や施設の料理にも出てきたから見た目も味も知っている。 「…これ、で、」 「もっといい物食べていいのに。ミートソース好き?あ、飲み物も頼みなよ」 ーー好きか嫌いかも、よくはわからない。 男は真っ直ぐに、ごく慣れた風に将未に質問を重ねてくる。最後に問いを付けてくるのは男の癖か何かだろうか。曖昧に頷く将未ににこりと笑い、店員を呼んだ男はミートソースと自分が食べる難しい名前の料理、それと二人分のドリンクを注文した。 さて、とメニューを閉じ、テーブルの上の灰皿を手前に引き寄せる。今どきランチでも喫煙可なんて有難いよね、世間話のように将未に向けつつ、胸ポケットから取り出した煙草のパッケージを開くと、綺麗に収まった煙草の先を将未へと向けた。 「吸う?」 将未が慌てて首を振る。煙草の臭いから縁が切れない場所にいるが、将未自身は試したことは無い。男は気を悪くするでもなく、抜いた1本を唇に挟む。その動作に、将未が反射的にポケットからライターを取り出して差し出した。 「ーー…、…自分で出来るよ?」 「……すみません…、」 誰かが煙草を咥えたらすぐに飛んでいけ。ライターくらい持っとけ。これらは将未が雄誠会に入ってほとんどすぐにヒデに叩き込まれた事だった。半年程度の事でも、習慣はいとも簡単に身に付いてしまう。その将未の動作に面食らったように目を丸くして呟く男を前に、ヒデのお下がりのオイルライターをしまいつつ、将未はしゅんと頭を下げた。 「…面白いねえ。君、」 自ら火を灯した煙草を指で挟み、男は喉の奥で笑う。何が面白いのかはわからないが、面白い等と称されたのは初めてだった。テーブルに視線を落としたまま目を瞬かせる将未の脇に店員が立つ。テーブルの上には、男が選んだオレンジジュースと発泡酒が入ったグラスが置かれた。 「なんだっけ。部屋、探してるんだっけ、」 細いグラスを傾けつつ男が話を巻き戻す。未だ何処か他人事のような事態ではあるが、将未は浅く頷いて返す。どうぞ、と促されて口を付けたオレンジジュースは濃厚で、酷く酸っぱかった。 「……今いる所を、出なければならなくて」 「ふうん。夜のお店、だっけ」 説明下手は自分も矢立もやはりそう差は無いのではないだろうか。ぼんやりと思いつつ答えると、男は緩く首を傾ける。この男は会った人間の全てをこうして覚えているのだろうか。内心で驚きつつも、ゆるゆると首を振った。 「今は、もうあそこにはいない、です」 「じゃあ今はどこにいるの?」 サラダが運ばれてくる。目にしたことの無い野菜が美しく盛られたそれを横目に男が脇にあるカトラリーが入ったケースを互いの中心に置いた。吸いかけの煙草を灰皿に預けたままフォークを取り出す左手の動きを見様見真似で将未もフォークを手に取る。未だ場に圧倒されながらもゆっくりとした動作で口に運んだ野菜は、食べた事のないドレッシングの味がした。 「雄誠会、というところに、」 「ーー雄誠会?」 雄誠会にいる、ということを他言してはならない、そんなことはヒデには言われていない。元より、将未には他言する相手もいないだろうと思われている節がある。将未にしても、暴力団と呼ばれる組織に所属するということが世間的にどう言った目で見られるのかを考えたことも無い。世間知らずに加えて、お前はここに居ると良いと流され、置かれた場所に抗うことなく、疑問を抱くことも無く居るだけだ。 呟くような答えに、男が一瞬フォークを止めた。サラダに落としていた視線をちらりと持ち上げて将未を見遣る。ふうん、鼻から呼気が抜ける音がした。 「そう言われれば何だか前に会った時とは雰囲気が違うよね」 置いた1拍の間をかき消すように続ける。 将未が身に付けている物は以前この男と会った時とは違う色気も素っ気もない、着古したシャツではない。ヒデが選んだシンプルながらもきちんと糊付けされたものだ。何より、髪型もまた伸ばしているだけではなく、ヒデの指南と他の組員の見よう見まねで整えたオールバックだ。将未自身は何も変わっていないが、見た目というものは間違いなく人に与える印象を変える。 男はサラダを咀嚼した後、グラスの中の酒で野菜を流すようにして飲み込む。とん、とグラスを置き、将未の目が捉えられた。 「そこは会社か何かかな?そこの寮か何かに住んでるんだ?辞めるの?」 「…ええと、…住んで、いるんだけど、…辞めなくても良くて、…部屋を、出て、別の部屋を、借りる、とか、部屋は…ボスが探してくれる、」 やはり上手くは説明が出来ない。歯切れの悪い将未の答えを急かすでもなく、苛立つ様子も無くじっと耳を傾た男は視線を上向かせる。なるほど、と1つ頷き、また元のような笑みを浮かべた。 「ーーじゃあさ、俺のところ、来る?」 「……え、」 早口でサラダを片付けてしまった男がまたグラスで唇を湿らせる。放置されていた煙草の火は消えてしまった。満面の笑みを将未に向け、名案だとばかりに口を開く。 「俺ね、なんていうかな。実業家?みたいなことしてるんだけど、自宅とは別に仕事用に買った部屋があるんだよね。そこ、来ない?」 「…、あの、」 「ススキノ近いし、いい所だよ。買ったは良いけど仕事忙しい時にしか使わないからさ、不用心かなと思ってたんだよね。家賃も勿体ないし。あ、家賃とかは気にしなくて良いからさ。ね?そうだ。1回見においでよ」 ぽんぽんと、歌うように出てくる言葉に理解が追い付かない。フォークを手にしたまま硬直する将未の傍にやってきた店員が、湯気の立つミートソースパスタを置いていった。 「あ。来たきた。どうぞ、」 「あの、」 次いで男の前にもプレートが運ばれてくる。やはり洒落た盛りつけをされた料理が数品並べられたそれを前に男はまたフォークを持って将未を見遣る。上機嫌そうに見える理由は酒が入っているからというだけではないだろう。 「お兄さん真面目そうだし。どうせ人に貸すならちゃんとした人に貸したいと思ってたんだよね。俺から借りるんだったら、ええと、ボス?」 「…矢立、さん」 何処かわからない場所に流されかけている気がするーー。 漠然とした予感を抱きつつも、止められる術は持っていない。当人を置き去りにして進む話の切れ間にようやく置かれた疑問符に将未がはっと目を瞬かせる。フォークを握りしめたまま、促されるような形で矢立の名前を口にすると男の目が一層細くなった気がした。 「矢立さんの手間も省けるんじゃないかな」 手間が省ける。矢立に迷惑が掛からない。 そうか、と気が付く将未がやっと納得したように浅く頷いた。矢立に迷惑をかけたくはない。そもそも自分を拾ってくれたことだけで恩は出来ている。金銭的には到底返しきれない恩を、幾分かでも重ねずに過ごしたい。 微かに顎を引く動作を目にした男は嬉しげにフォークを動かし始める。レバーのパテを切り取り、口に運んでは思い出したように将未を見やった。 「あ、そうだ。お兄さん名前は?俺は神原龍俊です」 やっと口に入れたミートソースは何が入っているのかわからないが、これまで食べたものとは異なる種類のミートソースの味がした。自分が食べていたミートソースとは違う気がするーー内心で首を傾げる将未は、神原に尋ねられて顔を上げる。自己紹介もしていないことに、たった今気が付いた。 「…広瀬、将未、…です、」 慌てて飲み下したミートソースが絡んだパスタは、少し硬いような気がした。

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