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神原に連れられたカフェはススキノ界隈であったものの、食事を進めつつ待ち合わせの段取りを決めた将未は昼休みが終わる間際に事務所に戻ることになった。 駆け足で給湯室に飛び込み、汗も拭わずにペットボトルの緑茶を冷蔵庫に入れる。冷たい物を購入してきたは良いが、それを入れるのは果たしていつもの湯呑みで良いのだろうかと悩みつつ給湯室を出ると、ヒデが通りがかった。矢立との外回りを終えたのか、相変わらず機嫌が良さそうなヒデ声をかけ、夜に出掛けたい旨を告げると、世話焼きの上司は一瞬心底案ずるような目をする。だが、すぐにはたと何かに気が付いたようにいつものように将未を見上げて笑って見せた。 「おう。始めに言ったろ。好きに出入りして良いんだって。門限だけ気を付けとけよ。締め出されんぞ」 事務所の玄関のドアは、夜までだらだらとたむろしている金欠の組員や時間を持て余している組員達がようやく帰路に着く頃ーー日付が変わる頃にセキュリティの為のオートロックが掛けられる。こうなると玄関は中からは誰でも開けることは出来るが、外から開けられる人間はごく少数の者に限られる。部屋住みである将未が夜に外に出る理由と言えば専らヒデが連れ歩くというものだが、そのヒデが時間を把握して気に留めている為に事務所から締め出されるような経験はしていない。 「はい、ヒデさん」 素直に頷く将未に、ヒデは景気づけのようにぱん、と音を立てて背を叩き、鼻歌混じりに去っていった。 〇〇〇 神原龍俊との待ち合わせ場所はススキノのデパートの前、広い通りに面した交差点の角だった。平日にも関わらず、観光客や酔客、それに客引きで賑わう往来を眺めつつ立っている将未は未だに事態を把握し切れていない節がある。 昼間出会ったばかりのーー正確には、1度コンビニで出会っただけの男が自分に部屋を斡旋しようとしている。神原は昼間、「ちゃんとした人に貸したい」という旨を言っていたような気がするが、自分程「ちゃんとした人」とは真逆の場所にいる男もいないのではないだろうか。学校に通えていたからには戸籍くらいはどこかにあるだろうと気が付いたのもつい先日のことだ。そんな将未の身元を確認することはおろか、これまでの事も聞くことはしなかった。身の上話はおいおい聞かれるということなのだろうか。尋ねられた所で将未は曖昧な返答しか出来ないが、それを踏まえてやっぱり部屋を貸せないと言われたのならどうしようか。 取り留めなく考えつつ、人混みの中に神原の姿を探す。昼間テーブルを挟んで向かい合った神原の纏う空気を思い出す。穏やかで柔らかく、見るからに上等な人間だと思った。将未はあのような人種には会ったことが無い。風俗店で客を取っていた頃には時折似たような人種は訪れたような気がするが、どれほど柔らかな空気を漂わせていても最終的にはすることは他の客と変わらない。むしろあのような人間は、日頃溜め込んでいるあらゆるものを少年にぶつけるような行為をするパターンが多かった気がする。神原もそういう種類の人間なのだろうかーー。 そこまで考え、自分もまた神原のことを何も知らないことに気が付く。簡単に人を信用してはいけない。そんな当たり前のことですら誰かに教わったことの無い将未は、人を疑うことも知らない。部屋は矢立が探してくれている、と断る術もあったのだが、あの親切な神原の誘いを無碍にすることもまた気が引けた。昼間誘われた洒落た店で、洒落た昼食の会計をさっと済ませてしまう男が親切でない訳はないと思っている。 ぼんやりと佇む将未に向かって、昼間と同じスリーピースを纏った男が歩み寄ってくる。今夜は気温が下がらない。上着は右肩に掛け、きょろきょろと辺りを見回す姿を見るにつけ、どうしてあのようなきちんとした男が自分を探しているのかがわからなくなった。それでも神原のやや垂れ目がちの大きな目はしっかりと将未を捉え、男は嬉しげに歩を進めてきた。 「お待たせ。ごめんね。遅れたかな」 「…いえ。…大丈夫、です」 ネオンを背負う神原が眩しげに笑う。首を横に振る動作に安堵したように目元を緩めると、じゃあ行こうかと大通りの方面に向かって歩き出した。 「街の中はね、車より歩く方が好きなんだよね。今日も混んでるね。広瀬くんは車は持ってる?」 歩き始めた神原が、半歩下がって歩く将未を顔だけで振り返る。車どころか運転免許すら持たない将未が緩く首を振った。 「広瀬くん、もあれだなあ。歳はいくつ?」 「…二十…、八、…九、だと、思います」 のんびりとした声音に促されて答えると、神原がひょいと片眉を上げた。年齢を聞かれ、答えた時のこの反応はヒデも似たようなものを示していた。将未は自分の誕生日を知らない。年齢だけは、中学を卒業してすぐに店に売り飛ばされて来た時から数えてはいたものの、ただ悪戯に同じことを繰り返す年月を重ねてきた中でそれも曖昧になりつつある。だが、おそらく今年で二十九になった筈だ。 神原は1度首を捻ってから、ふうん、と鼻で呟く。再度将未を振り返り、頬を緩めた。 「じゃあ俺より年下だね。将未、でいい?」 「…はい、」 下の名を呼ばれるのは店にいた時以来だ。 そしてこの神原は、将未についてはやはり何も聞かない。年齢についての妙な返答も、昼間この待ち合わせを決める時に携帯電話をもっていないと告げた時も、神原は何も聞かず、何も言わなかった。雄誠会にいるような人間は拗ねに傷が無い方が珍しい、とされているだけに、矢立もヒデも将未の過去については詮索しない。大きな声では言えない過去を歩んできたという意識は将未の麻痺した倫理観の上では希薄だが、決して誇れるようなものでもなことはわかっている。ゆったりと歩く神原の背に密かに安堵の息を逃した。 「俺はねえ、三十四です。でも龍俊で良いよ」 「…龍俊…、…さん、」 放られる声に将未は目を瞬かせる。年上の人間を呼び捨てにする訳には行かないだろうと、口に出して音を確かめた後、ぽつりと付け足した呼称に、神原龍俊がぱち、と目を瞬かせてからまた笑みを深くした。 ススキノを抜け、更に十分ほど歩いて辿り着いた建物は大通公園の最も端、公的機関に属する建物が多く並ぶエリアに建っていた。周囲の重厚な建物に見劣りすることのない、ホテルかオフィスビルと見間違えてしまいそうな程に背が高く、豪奢な建物を将未はほとんど口を開けて見上げている。夏の夜空の下、オレンジや白の窓の灯りがあちこちで煌めいているように見えた。 こっちだよ、促す龍俊が左手でカードキーを取り出し、広いエントランスに置かれているパネルに刺した。ほとんど音も立てずに開いた自動ドアを潜り、広いエレベーターに乗り込むと、龍俊は13階のボタンを押す。並ぶボタンの数字を何気なく見遣った初めて、建物は15階建てであることを知った。 「本当は最上階が良かったんだけどさ、もう埋まっちゃってたんだよね。ワンフロアに2軒しか入れない上に議員だか医者だかが入ってるんだって」 「はあ…」 将未の目線を受け、独り言のように語る口調はやはりのんびりしている。やがて停止したエレベーターを降りると短い廊下があり、2つの玄関ドアに向かって分岐している。廊下には硬いタイル等ではなくカーペットが敷かれていた。 「はい。どうぞ」 先程と同様のカードで鍵を開けた龍俊が半身だけを玄関に入れて指で照明のスイッチを探る。大きく開かれたドアの中、ぱっと明るくなる風景に目を細めつつ足を踏み入れた将未の足が、ぴたりと止まった。 「ーー…」 道中、将未に貸したい部屋はファミリー向けの物件だと説明されていた。だが、ファミリー向けの部屋の玄関というのはこれ程広いスペースが当たり前なのだろうか。雄誠会の皆がやって来ても十分に靴が収まりそうなスペースがあり、脇には天井近くまである収納の物らしき扉があった。やっと踏み出した、ゴミひとつ落ちていない玄関に自分の革靴が並ぶ。春先にヒデが選んだものだが、1足しか無い故に履き古したその様が不意に恥ずかしくなった。 先に足を進める龍俊の背に導かれつつゆっくりと廊下を歩む。途中、ドアの前を通りがかる度に龍俊が、ここはトイレ、ここは水周り、と指を指して案内をしてくれた。 「で、そこがリビング」 「…リビング…」 廊下の突き当たりにある磨りガラスが嵌ったドアを押し開く。龍俊が廊下のパネルを押すと、リビングの照明が灯された。白いライトによって明るくなった室内が目の前に広がると、将未は今度こそ呆然と立ち尽くした。 「……広、」 思わず漏れ出た呟きに龍俊が振り返る。苦い笑みを混じらせ、軽く頭を掻きつつ部屋の中を見渡した。 「ああ…。本当は二間らしいんだけど、どうせ俺1人だからと思って買った時にぶち抜いて貰ったんだよね。ちょっと広過ぎたかも」 だだっ広いリビングには、ベージュ色の大きなソファーとガラス製のローテーブルがある。だが、まず始めに、将未の目は見たことの無いサイズのテレビに奪われてしまった。ローテーブルの前には頑丈そうな漆黒のテレビ台に乗った巨大なテレビがある。あれは、大きいと思っていた雄誠会の事務所に置かれているテレビよりも大きいのではないだろうか。巨大なテレビを放心したように見つめる将未の目を奪われ将未の脇を泳ぐようにすり抜けた龍俊が、立ち尽くす背を柔らかな力でとん、と押す。苦笑いをそのままに、テレビとは逆の方を指で示した。 「あそこがキッチン。食材はほとんど無いんだけどポットとレンジとIHくらいはあるから自由に使って良いよ。将未は料理とかする?得意?」 広すぎて落ち着かない、というのはこういうことを指すのだろうか。磨かれたフローリングの上から動けない将未に龍俊が尋ねるも、将未は置かれた風景に圧倒されている。ようやく目を向けた先にはアイランドキッチンがあり、手前には申し訳程度の2人がけのダイニングテーブルと椅子が置かれているが、そこに生活感は無い。 ーー否、この部屋全体に生活感は皆無だ。テレビ番組かなにかで目にしたようなモデルルームや、テレビドラマの中に出てきそうなスタイリッシュで、ある種無機質な部屋に将未は尻込みしている。これまで住んでいた食べることや寝ること全てをほとんどを一部屋で済ませていたような場所しか知らない将未には、ここを自分が使うかもしれない、という自覚は全く浮かばない。生活感が無い部屋で、どう生活すれば良いのだろうか。初めて知る不安が漠然と襲ってくる。 将未が広い部屋の中を見渡した姿を確かめ、龍俊がくるりと踵を返す。先程来た廊下を戻ると、リビングとは逆の突き当たりと、その隣、左の壁ににドアが1枚ずつある。 「こっちの突き当たりは俺の部屋。ここだけは仕事用の部屋だから、鍵掛けておくからね。で、こっちが寝室」 鍵がかかっているというドアと並ぶもう1枚のドアを開き、将未を手招きした。 再び廊下を歩み、龍俊が示した部屋をそっと覗き込む。微かに煙草の香りが漂う室内はやはり生活感というものが無く、オレンジ色の照明の下、壁に沿った形で備え付けられた巨大なクロゼットが目に入る。その手前には、やはり将未が目にした事の無いサイズの、大きくて広いベッドが鎮座していた。 あのベッドはかつて身を置いていた風俗店にあったベッドよりも広いのではないだろうかーー。清潔そうなリネンに包まれたベッドをまじまじと眺める将未の横顔を見下ろし、龍俊が照れ臭そうに笑う。 「なんか…ほとんど人なんて部屋に入れないからベッドとか見られると照れちゃうね。…で、どうかな。こういう部屋、嫌い?」 あくまで柔らかく、押し付けない声音で尋ねる龍俊の眉が下がる。断られてしまったらどうしよう。悲しげな目に、将未が夢現にいるように緩く首を振った。 「……何もしないのに、…こんな所は…借りられない」 家賃も取らず、何の見返りも無しにこれ程までに良い部屋を借りる訳にはいかない。そんなことは将未にでも理解出来る。自分は見返りになるような物も持たなければ、この親切や恩を返せる保証は全く無い。金銭的な話をする以前の問題だ。自分はこの部屋には相応しくは無いーー。 断らなければと眉根を下げて龍俊を見上げると、男はううん、と小さく唸って視線を上向かせた。 「でも多分ね、ここの家賃半額でも将未は払えないと思うよ?」 「……」 困ったな、と言いたげに髪を掻く。腰に手を当て、しばし眉を寄せて考えを巡らせていた龍俊は、不意にぱっと顔を明るくした。 「じゃあさ、俺と夜ご飯食べようよ。それが条件」 「……、よる…?」 「俺も一人暮らしだしさ、外食もひとり飯も飽きた頃だったんだよね。将未がここに帰ってくる時間に合わせて俺もここに来るから。一緒にご飯食べよう?」 「そんな…」 突飛な提案に将未が目を瞬かせる。それでも龍俊の流暢で、明るい声音は次々に将未へと降ってくる。 「もちろん将未の都合もあるだろうし、俺も仕事の付き合いとかもあるから、出来るだけってことで。ね?ご飯食べた後は俺は自分の家に帰るから将未の生活に干渉とかしないよ。どうかな、」 名案だと目を輝かせる。立てられた人差し指を眺めているうちに、将未はまたくらりと夢の中にいるような心地になる。 そんな事で良いのだろうか。それは果たして条件になるのだろうか。何か大切なことが欠けているのではないだろうか。 自分は、何処かに流されようとしているのではないだろうか。 眩しい程に明るい電灯の下、丁度あの不動産屋の前で龍俊と出会った時や、洒落たカフェで昼食を共にした時と同じように、まるで催眠術か何かに掛けられたように将未はこくりと頷いて見せた。

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