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翌日、将未は朝礼を終えてからすぐに矢立の元へ赴いた。部屋を探してくれると言っていた矢立に、住む場所が見つかったことを伝えなければなるまい。朝の掃除に入るより先に矢立の私室のドアを叩くと、組の誰よりも勤勉では無いだろうかと思われる若頭の短い返答があったドアを開くと、室内には既にヒデがいた。1人矢立の部屋を尋ねてきた将未の姿に小さく驚いている。
「…あの、住む部屋が…見つかりました」
ぺこりと頭を下げて朝の挨拶をした後にすぐに要件を切り出した。矢立の側に立ったままのヒデが今度は驚きを露わにする。矢立もまた、表情の変化こそ僅かではあるが小さく目を見開きつつも、すぐに続きを促した。
「知り合いが…声を掛けてくれて、ここから歩いて20分くらいの、所に…」
「知り合い、」
お前に知り合いがいたのか。矢立の目が雄弁に語っている。自分の事は知り合いだと伝えると良いよ、とアドバイスをくれたのはあの龍俊だ。確かに知り合いと言えばそれ以上の詮索は免れるかもしれない。だがそもそも、道端で拾われた自分に知り合いと呼ぶものがある事に無理があるということには昨夜龍俊と別れた後に気が付いた。
だが、2度しか会っていない男を知り合いと称しても良いのであれば間違いではないし、一晩考えたところで龍俊を説明する他の名称も見当たらなかった。押し通すしかないのだと矢立の目を見る。矢立は何か考えるように視線を落とすも、再び将未を見上げた。
「…広瀬は、…一人暮らしをしたことがあるのか」
「…いえ、…でも、大丈夫、だと思います」
常に誰かが同じ屋根の下にいる生活を送ってきた将未に一人暮らしの経験は無い。だが、雄誠会を職場にするというのなら、将未の生活は今の生活とほとんど変化は生まれないだろう。家には寝に帰るだけだ。生活するという程の生活はあの部屋では過ごさない気がする。それはいよいよあの部屋が勿体ない気がするがーー。
ぼんやりと思いつつ答えると、矢立がごく純粋そうな動作で首を傾ける。どこか慎重な動作で瞳を覗き込まれた。
「…同棲、か…?」
「……違い、ます」
矢立が口にした単語をすぐには理解出来なかった。頭の中で音を砕き、思い当たる意味を捉えてから慌てて答える。龍俊とは一緒に住む訳では無い。夕食を共にするだけの約束で、部屋の貸し借りをするだけの間柄だ。矢立はそうか、と短く呟き、顔を上げた。
「…何か入り用があったらいつでも言え。…出すから」
「ありがとうございます」
組から、もしくは矢立の私費から出すということだろう。矢立には拾って貰って以降、皆に配られる小遣いの他、将未は服飾代や食べ物代をもう十分過ぎる程に受け取っている。これ以上不要な世話を焼いてもらうわけにはいかない。深く頭を下げ、用の終えた将未は静かに部屋を辞した、
「…アイツ…知り合いとかいたんすね、」
部屋に残されたヒデが、将未の足音が遠ざかる間を置いてから矢立を見遣る。軽く眉間に皺を寄せつつ、矢立が首を捻る動作をした。日頃親しくしているヒデに心当たりが無ければ、矢立にも当然将未の知り合いについての心当たりは無い。まさか賀川や畑山が将未を見付け、声を掛けたわけではないだろう。そうであるのなら賀川の店に出向いて確かめた方が良いかと思うが、矢立の中でその予感は薄い。
どうにも腑に落ちない面は否めない。だが、先程の将未の表情には悲観するようなものは無かった。自分の手間を慮った末に道端で眠るのだとしても、誰かの世話になるにしてもいずれにせよ将未とは毎日顔を合わせるのだ。矢立も伊達に毎日事務所に顔を出しているわけではない。様子のおかしい組員の顔色くらいは把握出来る。よくよく観察を重ねることで近いうちに環境は掴めるだろうと指先で眉間を掻いた。
「……ウチを…辞める訳ではないから、」
ぽそりと呟く。どこか安堵に似た目をしているその様は、親が子の巣立ちを見送るような目に似ていた。
「何かあったら…助けてやればいい」
組織の人間は家族と同じだ。矢立が父親に教えられたことは深く根付いている。1度組に入れたからには、組に影響を及ぼすような悪事を働かない限りは組が守る。矢立は誰に対してもそう腹を括っている。
言葉少なではあるが、矢立にしては珍しく断定的な物言いだった。強い意志を含めたにも関わらずごく静かに部屋に響く若頭の声に、ヒデが嬉しげに目を細めた。
〇〇〇
引越しと呼べる程の荷物は持っていない。部屋住み用のベッドは部屋住みがいない間は組員の仮眠用として、そして病人や怪我人が出た際に使われている物だとヒデが言っていた。だから荷物は少しずつ運べよというヒデの言葉に甘える形で、まずは身の回りの物だけを持っていくことにした。冬と春に買い揃えて貰ったスーツやシャツは追々運ばせて貰おうと雑踏を抜けながら考える。古びたボストンバッグを提げ、先日龍俊に導かれて歩いた道を行く。ススキノや大通り界隈の広い通りに出ると目印になるような目立つ建物や看板が多い上に、龍俊のマンション自体が背が高くよく目立っているから、道に迷う心配だけは無さそうだった。
それでも、辿り着いたマンションのエントランスに足を踏み入れると自分はどう考えても場違い思える。幼少期や少年期に育った施設はどこも定員いっぱいに子供が溢れ返り、人数に見合わない狭さと窮屈さが当たり前だった。ススキノの店にいた時は客を取っていた時も、長じてからの雑用の時も店の2階の空き部屋で〈商品〉達との雑魚寝が当たり前だった。雄誠会であてがわれた部屋が他人のいびきや寝息を気にせず最も落ち着いて眠ることが出来る部屋であったが、階下の事務所には常に自分以外の人間がいた。
集合住宅であるから、同じ屋根の下に他人がいることは変わらない。だが、先日龍俊に連れて来られた時は上からも下からもほとんど物音は聞こえなかった。違うのは他人の有無や壁の厚さだけでは無いだろう。将未はこれまでの生活環境との差に戸惑うしかない。
ふと顔を上げると、エントランスホールのガラスに自分の姿が映っている。未だに何処かスーツに着られているような風貌と、髪型だけは人が避けるようなものではあるが、自信の欠片も感じられない顔をしている。手にするものが何も無いということも、内側のあらゆる箇所が欠けているということも、この情けない風貌に繋がっているのだろうか。
埋まらない箇所は、放り出されたまま埋めることを諦めている。抱えたままの空虚が相貌に現れてしまっているようでならない。ーーこの建物の中には、自分のような種類の人間は存在しないのではないだろうか。漠然と思うその次には、ならばどうして龍俊は自分に部屋を貸すと言ってくれたのだろうかという遅い疑問が追い掛けてくる。
龍俊は親切だ。明るく、軽やかなその姿には憂いの欠片も見当たらない。自信を誇示するでもないが、身に付けているであろうそれは龍俊が纏う柔らかさによって中和されているのか、龍俊の中にごく自然に内包されているのかもしれない。
この部屋や、身に付けているものだけを見ても、龍俊は上等な人間だとわかる。そんな龍俊が、どうして自分のような人間に声を掛けたのか。
考えるに連れ、龍俊の笑顔が脳裏に浮かんだ。彼は今晩から部屋で夕食を取るのだろうか。龍俊に渡されたカードキーを、やや急いた手付きでパネルに差し込む。前回の龍俊の見よう見まねであっても、忠実に開く自動ドアをそっと潜った。エレベーターに乗り込み、目的の階数のボタンを押してからようやく淡い息を吐き出し、無意識に強ばらせていた肩を落とす。そのうちこの環境に慣れるのだろうか。漠然と思いつつ、上昇するエレベーターに身を任せる。やがて開いたドアを抜け、龍俊の部屋へと足を向けた。
先日は気が付かなかったが、ドアの脇には「神原」と記したプレートが貼り付けてある。金色の板に黒字で書かれた名前に、将未は初めて龍俊の姓の漢字を知る。名はどういう字を書くのだろう。横目に眺めつつ、ドアにキーを差し込んだ。
ドアを開くと、眩しい明かりが目に飛び込んできた。先に龍俊が着いているのだろうか、と思う間もなくぱたぱたと足音が聞こえてくる。廊下から、龍俊がひょこりと顔を出した。
「おかえり!将未、」
「ーー…」
ーー酷く、聞き慣れない言葉だと思った。
笑顔で出迎える龍俊に、将未はどうしたら良いのかわからない。既に1度訪れた部屋の玄関、前回同様に立ち尽くしてしまう将未の手から、重そうだね、と龍俊がボストンバッグを奪ってしまう。我に返り、持たせるわけにはいかないと取り返そうとするも、龍俊は先にリビングへと歩んでいってしまった。
「いつもこのくらいの時間になるのかな?何時に帰ってくるか聞くの忘れちゃったから仕事持って来ちゃったよ。そうそう、今日はね、張り切ってフレンチデリバリーしちゃった。今はどこでもデリバリーやってるから便利だよね。フレンチ好き?」
いつものように、立て板に水の如く喋っては最後に疑問符を付けて将未を振り返る。ぱちぱちと目を瞬かせ、曖昧に頷く将未に、龍俊は良かった、と呟きリビングへと到着する。ダイニングテーブルの上には、既に龍俊がセッティングしたのか見目にも鮮やかなフレンチがシルバーのカトラリーと共に並べられていた。温かそうな料理の傍にはワイングラスまで用意され、夕食の開始を待っている、
「そうだ。この間見せなかったの思い出したんだよね。ほら、」
遅れてリビングに入る将未を龍俊が手招きする。料理の芳香に鼻腔を擽られながら大きな窓に歩み寄ると、龍俊は手にしていた将未のバッグを置き、深いネイビーの色をした厚手のカーテンをサッと開いた。
「ーー、すごい…、」
眼下には、札幌の夜景がパノラマのように広がっている。遠くに見える暗い小山を背景に、大通りはもちろん、ススキノ方面の数多のネオンが風に揺れてちらちらと瞬いている。辛うじて呟き、いよいよ目を大きくさせて窓に歩み寄る将未に、龍俊が満足気に口元を持ち上げた。
「すごいでしょ。毎晩観られるよ。もうすぐ花火大会もあるし。特等席だよ。…あ、そうだ。それとね、」
龍俊が将未に歩み寄る。緩く首を傾けて真面目な目でじっと将未の瞳を覗いたかと思うと、悪戯に笑い、将未の口元を人差し指でちょん、とつついた。
「おかえり、って言ったら、ただいま、って言ってよ。将未」
ーー遠い昔、お古のランドセルを背負って帰った時、施設にいた誰かにそんなことを教えられたことが頭を過ぎる。そんなことを口にするのはいつの頃以来なのか。将未の中、随分遠くにあった単語は龍俊によってすぐ近くに引き寄せられる。あれは何処での記憶だったか。おかえりなさい。その一言に、自分の中の渇いた箇所にほんの1滴潤いが落ちた事を将未は何故か今、鮮明に思い出した。あれは、その時の将未の〈家〉だった。
将未は〈家〉を知らない。その上、こんな上等な部屋と、上等な龍俊は自分には不釣り合いだ。
だが確かに今、自分の奥底が微かに暖かくなっているのを感じる。眼下に広がるのは、今まで自分が生きていた歓楽街だ。あそこには落ちていなかった形が、将未の胸の奥にぽつんと火を灯す。
ーーこの部屋は、龍俊は、今まで見たことのない色や形をしている。
気恥しさを携えて目を伏せる。龍俊が触れた感触が残る唇を小さく開いた。待つ龍俊に軽く視線を合わせ、はっきりと口にした。
「……ただいま。…龍俊、さん」
〈家〉とは、こういうものなのだろうか。煌めく夜景を背景にして嬉しげに立つ龍俊の微笑みと、リビングに満ちる温かな照明の色と料理の香りに、また酩酊するような目眩を覚えた。
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