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香ばしい匂いに鼻腔を擽られた気がした。 薄く開いた瞼に触れる光に、将未はがばりと起き上がった。自宅のベッドの上、既に明るくなっている部屋の風景に朝の訪れを知ると同時、枕元に置いた目覚まし時計をほとんど無意識に掴み上げた。寝過ごしただろうかと青ざめたものの、起床時間にはまだずいぶん早かった。時計を元に戻しながら安堵の息を吐くも、辺りは普段と景色が違う。まだ寝起きの目で見渡す部屋のカーテンが開けられていることに気が付き、遅れて昨夜の事を思い出した。 ベッドの上に龍俊はいない。 ーー昨夜の出来事は夢だったのかもしれない。今いるのはいつもと変わらない、一人では広過ぎる寝室だ。ぼんやりとした頭のままでベッドから降り、いつもの通りに洗面所へ向かう廊下へ出ると、もう1つの違和感に目を瞬かせる。リビングもまた、寝室同様にカーテンが開いてるらしく燦々と日が射している。家中のカーテンを開けて回るのは将未の習慣だ。思わず駆け足で歩を進め、リビングのドアを開けた。 「あ。おはよう。将未」 「…おはよう…、」 秋の日が射し込むリビングの端、キッチンに立っていた龍俊が将未の足音にひょいと顔を覗かせた。最近朝晩のみスイッチを入れ始めた暖房が程よく温めた室内を、下着1枚だけで彷徨いていた将未にくすりと鼻を鳴らして笑う。だが、将未本人は龍俊が笑うその様よりも、まず朝の風景の中に立っている龍俊に目を奪われている。 「起こそうかと思ったんだけど、目覚まし時計見たらまだみたいだったから。顔洗って着替えておいでよ」 「…うん、」 キッチンには先程嗅いだ良い香りが漂っている。一人きりで朝の支度を整えている時とは違い、龍俊が存在していることでこの部屋に光が満ちているようだ。キッチンで鳴る物音や、漂う食べ物の香りは夜のそれとはどこか違う。人間的な、生活の香り、そんな風に喩えられるような語彙は将未には無い。 龍俊に促され、将未は改めて洗面所へ向かう。龍俊が再び手を動かし始めたのか、カチャカチャと金属を使う音が耳に心地よく届いてきた。 顔を洗い、出勤用のスラックスとシャツに着替えて再びリビングを訪れた将未に龍俊が目を細める。招くように背を向け、顔だけを振り返らせた。 「朝ご飯食べようよ。昨日のピザ勿体ないから温めてみたんだ」 「朝ごはん…」 普段はあまり口にしない朝食に誘われ、将未はまたゆるりと目を瞬かせる。ダイニングテーブルの上には龍俊の言う通り、昨夜の夕飯であったピザがめいめいの皿に分けられ、湯気を上げている。傍らに置かれたマグカップには、龍俊のストックであり、将未は手を付けたことのないインスタントコーヒーが注がれていた。 「朝ご飯は食べた方が良いよ。将未、あんまり食べないでしょ」 朝の日差しの中、龍俊がふわりと笑う。微かに咎められるような口調すら心地が良く、将未は招かれるままにいつもの席に腰を下ろした。 オーブンで温め直したというピザは昨夜食べたものと変わりないくらいに美味かった。朝から十分に腹を満たしても、時間はまだ余っている。随分早起きをしたものだと思いつつ、将未は後片付けの為にキッチンに立った。 スポンジを濡らしながら顔を上げると、龍俊がリビングのテレビを眺めつつ一服つけている様が見えた。食後の一服は龍俊の習慣らしく、部屋に漂い始める煙草の香りを嗅ぐと、記憶が紐付けられているのか、将未は今が夜であるような錯覚を覚える。 初めて龍俊と取った夕食の後、片付けは自分がすると申し出たのはもちろん将未の方だった。ただ食わせて貰うだけはあまりに申し訳ないとかつて出た形ではあるが、将未は洗い物の類には慣れている。龍俊は備え付けの食洗機を使えば良いと勧めてくれたが、2人分の食器の量など知れていて、わざわざ電気代や水道代を使って機械を運転させるのは勿体ない気がしてた。龍俊自身は食器の片付けを手伝うことはしないが、将未はどこかでその方が龍俊らしいと感じている。龍俊に家事は似合わない。 テレビの中では明るい声の気象予報士が今日の天気を告げている。1日気持ちの良い秋晴れではあるが、気温は低いので厚手の上着を、と告げる声を聞き届けてから龍俊が立ち上がった。無意識に目で追うその姿は、灰皿を片手に将未の横へと歩み寄る。 「……?」 「今日、寒いんだって」 龍俊の唇から零れる煙が将未の方へと流れる。不意に目を伏せた龍俊が、どこか甘えるような仕草で将未へと距離を詰めた。 「…今日も、夜、…泊まろうかな、って、」 「…っ、」 年上の、穏やかな眼差しが強請るような色含んで将未を見る。包み込まれる煙草の香りは昨夜の布団の中、龍俊の腕の中での呼吸や肌の感触を喚起させ、将未は思わず呼気を詰める。 ーーふと、龍俊は自分の身体が目当てなのだろうかという思いが頭を掠めた。 龍俊には家族はおろか、恋人と呼ぶ類のものがいるようにも見えない。夜は自分が夜番の日以外は共に過ごしている。夕食の後には自宅に帰るからその後の行動はわからないものの、自分は1度〈夜の店〉に務めていると告げたことがある。 そういった人間であれば御しやすいとでも思われたのかもしれない。ただーー。 手を止め、水が流れる音の中、軽く目を伏せながら羞じらうように頷いた。 「…うん、」 例え自分と寝ることが目的であったとしても、自分はそれ以上の恩恵を受けていると将未は思っている。 それよりも、龍俊のあの雄の色を濃くした目に見つめられるのならば、優しい手にふれられるのならば、将未は、それでも良いと思う程に昨夜の記憶が体中に留まっている。 「…へへ。温かいもの、買ってくるね」 将未の返答に龍俊が照れたようにはにかむ。唇に煙草を咥えると、、洗剤の泡の飛んだ将未の頬を空いた左手の指の背で軽く摩り、またリビングへと戻っていく。 「……?」 もし身体が目当てなら。そう考える将未の胸に、ほんの小さな棘が刺したような感覚を覚え、残されたキッチンで軽く首を捻った。 それでも、上質なシャツに包まれた背を目で追い掛ける将未の相貌が、龍俊の触れた箇所からまたほんのりと熱を帯びるような気がした。 天気予報に言われた通り、将未は厚手のジャンパーをクロゼットから引っ張り出した。焦げ茶のジャンパーは確かあの畑山からのお下がりだった気がするが、小さな毛玉が目立っている。将未の手持ちの上着といえばスーツのそれと、春と冬のコートそれぞれ1枚ずつとこの半端な季節に着られるこの1枚だけであるから仕方がない。寝室で身支度を整えた将未が廊下に出ると、待っていたかのように龍俊がリビングから出てきた。 玄関へと続く廊下の真ん中で龍俊が将未の風貌を眺め見る。軽く眉を寄せると、1歩距離を縮めて将未のジャンパーの襟に触れた。 「これも似合ってるけどさ、…今度一緒に服買いに行こうか」 龍俊に連れていかれる服屋が将未には想像が出来ない。少なくともヒデが連れて行ってくれるあのススキノの閑散としたデパートではないような気がする。自分の貯金で足りる場所であれば良いが、と咄嗟に迷い、返答を渋った様子の将未の表情を盗み見ては、龍俊が眉を下げて笑う。 「俺が見立ててあげるね。…ほら、」 龍俊の指が将未の前髪に触れる。緩く撫で付けた前髪から落ちるひと房を摘んで後ろへと整えられると、人に髪を触れられる擽ったさに将未がきゅっと双眸を細める。その隙を縫うように、龍俊の唇が将未の唇を淡く奪った。 「ーー…、」 「ん。今日も格好良いよ。行ってらっしゃい。将未、」 自分の指で完成させた将未の姿を満足気に見つめては何事も無かったように微笑む。柔らかな唇の感触が残る将未の唇が、擽ったさと戸惑いに小さく動き、照れたように目が伏せられた。 「…行って、きます、」 雄誠会でのお使いの時以外で最後にそんな言葉をを口にしたのは、もう数え切れない程に昔の事だった。

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