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龍俊に見送られて出勤すると、事務所の前でヒデが見張りの人間と立ち話をしていた。秋は着実に深まり、朝ともなれば風はめっきり冷たくなっているがこの男はいつも陽気だ。背中に虎の刺繍を施した派手なスカジャンのポケットに手を突っ込んで何やら楽しげに会話を交わしていたヒデが、静かに玄関に歩み寄る将未に気が付いた。
「おう。はよ、」
「おはようございます」
ぺこりと頭を下げる将未の秋の装いに気が付き、上から下までをまじまじと眺めたヒデはおもむろに苦笑いを浮かべて眉を垂れる。足を止めた将未の背をぱんぱんと叩いては周りに聞こえぬように耳打ちした。
「今度また服買いに行こうぜ」
秋物、と囁くヒデに今度は将未が眉を下げる。どの人間が見ても将未の秋物のジャンパーの見目は良くはないらしい。曖昧に頷く様をもう一度眺め直したヒデが、将未のスラックスのポケットに押し込まれたスマートフォンに目を留めた。
「お。スマホ。本当に買って貰ったのか。番号教えろよ」
今朝、朝食の片付けを終えて支度をする為に寝室に入った将未に龍俊が慌てて持たせてきた。出勤前の短い時間の中で最低限の通話の方法だけは教えて貰ったものの、自分の手ではまだほとんど触れていない。龍俊曰く全ての機能をすぐにでも使えるらしいスマートフォンを取り出したものの、自分の電話番号も、その呼び出し方もわからない将未が、画面をもたもたと触れる様子にヒデがからかうように破顔した。
「あ、そうか。それから俺の携帯にかけりゃ良いんだな。ちょっと貸せ」
名案だと差し出す指にスマートフォンを渡すと、ヒデはポケットから自分の携帯電話も取り出してから澱みなく指を動かす。程なくして、ヒデの携帯電話から着信音が響き始めた。
「ん。これで登録しとく。つうかすげえな。最新のやつじゃねえか」
ヒデの携帯電話の背には将未と同じリンゴのマークが付いている。羨ましそうに呟きつつ指を動かすと、今度は将未の携帯電話から初期設定の着信音が鳴った。
「俺の名前登録しておいてやるよ。…はは、カンバラさんしか入ってねえ」
電話帳には龍俊の番号を登録しておいたと聞いている。将未にとってはこれまでは希薄であったプライバシーを覗かれたようで、何となく過ぎる気恥しさを抱えながら佇む将未の後ろで車が1台停まった。振り返ると、フルスモークを施した黒の外車から矢立が静かに降りてくる所だった。
「おはようございます!」
その場にいる男たちが一斉に深深と頭を下げ、威勢の良い声を張り上げる。ススキノの端とはいえ、朝からこれ程大声を張り上げている場所もあるまいーー。大の、顔も体格も厳つい男たちが折り目正しく頭を下げる壮観とも言える光景に軽く眉を垂れた矢立がやはり物静かにおはよう、と返した後、ちょうど良かったと呟きながらヒデを見やった。用があった部下が両手に携帯電話を持っている不思議な光景に眉を上げる。
「…どうした。こんな所で」
「広瀬が携帯持ったんで電話番号交換っす。おい。ボスにも一応番号教えておいた方がいいぞ」
矢立の反応を見るより先にヒデが将未を小突く。そういうものなのだろうかと頷くものの、自分で操作が出来る気はしない将未はヒデの手元にある携帯電話を引き取ろうか否かを悩んで再び立ち尽くす。
だが、ヒデのその言葉に立ち尽くしたのは矢立も同じで、電話番号、と小さく呟いた後に軽く首を傾げ、自分のスマートフォンを取り出し直接ヒデに手渡した。
「……やってくれ、」
「…いつになったら覚えるんですか…」
矢立もまた、立派な携帯電話を持っているようだが操作に明るくはないらしい。覚える気が無いと言うよりも覚えられる気がしないとは本人の言である。躊躇なく差し出されたスマートフォンにヒデが屈託なく笑い、自分の携帯電話をポケットに押し込む。矢立の携帯電話を受け取りつつ、ヒデがふと、自分より高い位置にある将未と矢立の顔を見比べるように視線を泳がせた。
「なんつうか、…似てますよね。ボスと広瀬」
「ーー…、」
そうだろうか。思わず矢立を見遣るも、その矢立はどこかはっとしたように小さく瞠目している。軽く視線がうろつかせた後、困ったように目を伏せてしまった矢立の姿に将未は内心で首を傾ける。
「どこって訳じゃないすけど…雰囲気っていうか、どことなく似てんなって、」
ヒデは口を動かしながら将未と矢立の携帯電話を二台同時に器用に扱う。大した意味は無いのかもしれない。矢立は目元を微かに緩め、今の自分の反応を誤魔化すようにヒデの手元を覗き込んだ。
「…神原…、」
将未のスマートフォンの画面には2件しか登録されていない電話帳が表示されている。矢立の番号は頭に入っているのか、ヒデが何も見ずに電話帳に打ち込む様を見下ろした矢立が呟く名に、将未より早くヒデが反応した。
「ああ、広瀬に部屋貸してくれてる奴らしいっすよ。この携帯もそいつが持たせてくれたとか」
「……、そうか、」
口の中で呟くようにしながら相槌を打つ矢立の目が納得していない。何か不味いことがあるのだろうかと不安を過ぎらせる将未の手元にようやくスマートフォンが返ってきた。
「出来た。とりあえず俺とボスだけ入ってりゃ良いだろ」
「…ありがとう…ございます」
暫くは使い方も覚束無いであろう携帯電話から自ら誰かに電話を掛けるような機会があるとは思えない。だが、示された電話帳に並ぶ3件の名前が今の自分の根元を支えているような気がして、将未の胸中は微かに温かくなる。大切そうに携帯電話をポケットに収める様を見守っていた矢立が、あ、と小さく声を発した。ヒデに声をかけた理由を思い出したらしい。
「忘れていた」
「なんです」
矢立の表情は今日も普段と変わらない。淡々とした声が路地裏に落ちていく。
「今日、午後に鞍瀬さんが来る」
「…げ、」
晴れ渡った秋空の下、ヒデが絞め殺されそうな声を出す。将未の頭の中には、今日も今日とて夜番の人間が散らかり放題に散らかした事務所の光景が浮かび上がった。相変わらず端的に用件を告げた矢立が先に建物の中に入っていく。その矢立の背中を、将未とヒデは二人揃って足早に追い掛けた。
〇〇〇
神原、とはどこで聞いた名前だったか。
朝、事務所の前でヒデと鉢合わせた時から引っ掛かっている記憶を探るもどうにも糸口が掴めない。耳で聞いたわけではなく、どこかで目にした名前だったかもしれない。液晶画面の中ではなく、書面か何かで目にした為に印象が異なるのだろうか。
午前中に時折そんな事をつらつらと考えているうちに、午後に入ってすぐに鞍瀬が矢立の私室に訪れた。相変わらずノックはするものの、返答を待つことなく部屋に入ってきた組長補佐は大股で矢立のデスクへと歩み寄る。疲れた疲れたと眉を寄せながらテーブルの上にある灰皿を引き寄せると、矢立に横顔を向ける形で定位置であるソファーの背に腰を下ろした。
「ーー大体お前が寄り合いに出れば俺が報告に来なくて済むんだけどな」
曲がったことを嫌う、一本気は男である鞍瀬は嫌味を言う男ではない。だが、代わりに本音は言う。不満げな声音ではあるものの、さほど期限は悪くはないと判断した矢立がさりげなく目を逸らした。
「オヤジが元気なうちはお前も逃げ回っていられるけどな。代替わりしても俺ぁ知らねえぞ」
寄り合いやその他の会合の類から逃げ回っている、と真正面から突き付けられても矢立は反論が出来ない。
札幌や、その近郊にある雄誠会と同じ種の組織の寄り合いは月に1度ほど開催され、いずれも欠かすことの出来ない義理ごとの類である。どこの組からも概ね幹部に属する人間達出てきて集まるが、そこに矢立が父親と顔を出した事は数回ある。その時の反応は大方矢立が予想した通りのものであり、恐らく今もそれは変わらないと推測している。
血だけで継ぐ、腰抜けの若頭。
なまじ父親が先代から継いだ組を潰しも縮小もせずに回しているような才覚がある人間である。おっとりしている、悪くいえばぼんやりしていると称される自分とは正反対だと思われるその父親を恨みも憎みもせずにいる矢立煇にとっては、父親と比べられることは憂いていない。矢立の中では比べるまでもない事だ。
だが、自分の評判が父親の耳に入る事は本意ではない。父親の豪胆さや威厳を受け継ぐことなく、物静かに育ってしまったた息子に何も言わず、武者修行だとばかりに支部を預けて外に出した父親が自分の評価を聞いて現状を良しとするはずはないだろう。檄を飛ばされたり、叱られたりするのであればまだマシだ。黙って悲しい目をされることが最も身にこたえる。
時間は絶えず流れている。逃げていても解決はしない。だが、支部にいる限りは許されている猶予期間を重ねるうちにこうして身に付いた自己防衛の癖が、矢立をますます寄り合いから遠ざけることとなっていた。
「まあ良いわ。とりあえず報告ーー」
部屋に満ちていく煙草の煙の中、小言は気が済んだ鞍瀬が髪を掻きながら記憶を巻き戻すべく視線を上向かせる。口を開こうとしたその時、部屋のドアがノックされた。
「失礼、します」
「…ああ、」
短い返答に部屋を開けたのは広瀬将未だった。誰かに命じられたのだろう。僅かに怯えたような目をした将未は丸い盆の上に茶を2組載せて立っていた。矢立の客がやって来た時には他の人間が茶を運んできていたが、将未がやってきたのは初めてだ。一段昇格したということなのかもしれない。
失礼します、もう1度同じことを口にし、部屋に入ってきた将未は、はたと足を止める。目が逡巡に泳いでいた。
「俺が客、」
若頭である矢立と、組長補佐だと聞いている鞍瀬と。どちらに先に茶を出すべきなのか。先に客人に出すものと教えられてはいるが、ここはそれよりも序列を重んじるべきなのか。だとすれば、どちらが上に位置するのかーー。如実に語り、やがて混乱が顕になりかけた目を引き取り、鞍瀬が素っ気なく告げてやる。将未は微かに安堵したように眉間の皺を解き、鞍瀬へと歩を進めた。
「そこ置いとけ、」
普段から偉そうな鞍瀬が顎でローテーブルを示す。はい、と短い返事をした将未が茶托に湯呑みを載せて慎重な手つきでテーブルの上に置く。鞍瀬の視線が無遠慮に向けられる事がまた将未を緊張させるのか、恐る恐ると言った指で矢立の手前にも茶が置かれた。
「ありがとう、」
「…いえ、」
そんな将未の緊張を解そうとしてなのか、それとも矢立の中に身に付いたものなのか、静かに向けられる礼に将未がようやくほっとしたように僅かに目元を緩めて部屋を辞していった。
「…アイツ、」
「広瀬ですか」
ドアの向こうに消えた背を見送った鞍瀬がぼそりと呟く。湯呑みの中に満たされた茶を眺めていた矢立が顔を上げるも、鞍瀬は1度首を捻った後に煙草の煙を深く吐き出した。
「…いや、良いわ。で、報告、」
仕切り直した鞍瀬の口から聞く報告は特筆するようなものは無かった。夏場は何かと忙しい。その上この不景気風だ。ヤクザ組織も余計なことには目を向けず、各々の持ち場でヤクザなりに組を回しているということなのだろう。
一通りの報告を簡潔に終えた鞍瀬がちらりと矢立を見遣る。2本目の煙草を咥えると、何かを整理する為の間で、しばしライターを手の中で弄んだ。
「ーーで、豪能、」
特筆することの無い寄り合いの報告など電話1本で済ませられるものだ。そこに鞍瀬本人がわざわざ支部を訪れてきている時点で矢立は察しが付いている。芯を入れたように、矢立の背筋が改めて伸びた。
「こっちも特に動きはねぇ。夏の間は不気味なくらい大人しかったって話だ。下同士の小競り合いはちょいちょいあったみてえだが、鳳勝の方もぼちぼち警戒を解くべきかどうかを話し合ってるらしい」
鳳勝会の方は相変わらず組長が直々に寄り合いにやって来る。あの齢60の組長は、賑やかな場所が好きだ。
かち、とライターを使う音がした。鞍瀬が目を伏せるようにして白筒の穂先を焦がし、ふー、と音を立てて煙を吐き出した。天井に滞留する煙を眺めつつ、鞍瀬は首を鳴らした。
「だが、今日の寄り合いには、…来なかった」
「…来なかった…?」
ようやく話の核に辿り着いた。怪訝に眉を顰める矢立の反応を確かめてから鞍瀬が淡々と続ける。
「誰も来なかった。元々あそこの頭領が顔出すのは珍しいけどな、それでも下のもんは寄越してた。けど今日は豪能からは誰も来てなかった」
「…それは…、…札幌での義理を欠いても構わないと思ってるということでしょうか」
あえて暈したことを察しもせずに矢立もまた訥々と口にする。裏表の無い若頭に、そういうとこだと軽く眉を寄せつつも鞍瀬が灰の伸びた煙草の背を指で叩く。
「知らねえよ。けどな、見えねえ所で何かゴソゴソやってるのは確かだろうな。…札幌での義理を欠こうが軽く見ようが知ったこっちゃねえけど、…こっちにはこっちの都合があるんだ。内地と同じようにデケえ顔出来ると思ってんならあの安樂って若頭も案外ナマクラってことだと思うぜ」
実際に、札幌に籍を置くヤクザ同士の仕来りや義理事などは内地に本部があるヤクザには知ったことではないだろう。ススキノの辺りの諸場争いや、それこそ下っ端同士の揉め事は取るに足らないと思っている節がある。だが、郷に入っては郷に従えという言葉は馬鹿には出来ない。札幌には札幌で生きていく為の義理や決まり事は存在するのだ。それを反故にしても構わないと捉え、その上で豪能組が札幌のヤクザを潰しにかかろうとするのなら、雄誠会や鳳勝会の一枚岩以外にも迎え撃つ組織は出てくるだろう。果たして豪能組はそれを解っているのか。
札幌のヤクザにしてみれば、内地からやって来て大きい顔をしている組織など鼻持ちならないに決まっている。下手を打てば、豪能の北海道支部を潰されることにもなりかねないーー。
「ま、様子見だな。ーー以上、」
考え込む矢立の眉間の皺を眺めていた鞍瀬が低く落とす。思考ごと遮断された矢立がハッとしたように顔を上げ、鞍瀬へと小さく頭を下げた。
鞍瀬がやれやれと眉間の皺を揉み、灰皿に煙草を押し付ける。ふとテーブルの上を見遣り、置かれたままの湯呑みを手に取った。
「…アイツ、広瀬。…なんか雰囲気変わったか」
「……雰囲気、」
唐突に出てきた名前に矢立が目を瞬かせる。鞍瀬は湯呑みの中を眺めた後に矢立に視線を向けた。せっかく揉んだ眉間に軽く皺を寄せてもどかしげに続ける。
「まともに顔見たの久しぶりだけどな。なんつうか、前に会った時よりこざっぱりしたっつうか垢抜けたっつうか、」
少なくとも矢立よりは弁が立つ鞍瀬が言葉を探して視線を泳がせている。一方の矢立はどうにもピントきていない。将未の顔は毎日見ているが、それだけに気が付かないことがあるのかもしれない。そもそも鞍瀬がまともに将未を見たというのも、将未がこの組に来たその日だったか。その頃に比べれば、着ているものや髪型が変わったことも確かだろう。ーー矢立が拾った将未は、以前鞍瀬が口にした「色気」の他はほとんど何も持ってはいないという印象だった。
湯呑みに口を付けようとした鞍瀬が思い付いたように顔を上げた。
「イロでも出来たか」
「イロ…、」
顔色を変えずに向けられた言葉に将未の顔を思い浮かべる。他人の色事に薄いのは矢立も鞍瀬もいい勝負である。難しげな顔をして首を捻る矢立に、自分の事は棚に上げた鞍瀬がお前に聞いたことが間違いだったと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「ぼんやりしてんのは相変わらずみてえだけどな。イロの一人や二人出来た方が腹も据わるーー、」
ーーあれもまた、何も持たない人間だということは鞍瀬ままた直感で見抜いている。
何も持たない者はある種では強くもあるが、それは引き換えとして自分すらも重んじることの無い人間も存在する。将未はその類に見えるが、一時でも〈枷〉のような守るものがあれば自分なりその人間なり自ずと腹が据わるだろう。
お前もそうだっただろう、言いかけた鞍瀬は次の言葉を待つ矢立の視線を受けて口を噤む。この若頭には数年前から付き合っている恋人がいるが、鞍瀬が知る限りではそういった人間が現れた直後も今も、矢立は良い意味でも悪い意味でも変わらない。将未同様、鞍瀬に言わせるとぼんやりした佇まいの男の変わらない様に吐く溜息が適温に下がった茶を揺らした。脳裏には、今より更に覇気のない、流されるように生きていた頃の矢立が浮かんでいる。
「…まあ、なんにせよいつまでも茶汲みだの掃除だのしてる奴に小遣いやる訳にはいかねえだろ。本当は喧嘩の一つでもしてきた方が良いんだけどな、」
人から殴られたことはあっても、殴ったことはあるまい。鞍瀬には容易に想像が着く。
「一応、夜番は割り振っています。特に大事は起きていませんが」
言い訳するようにもぞもぞと口を動かす矢立に、鞍瀬の意外そうな目が向けられた。その視線がドアへと向き、ひょいと廊下を示す。
「割り振ってるったって、部屋住みだろ。上から下に降りるだけじゃねえか」
「…理由があって別に部屋を借りさせました。通いです」
理由、を矢立は口にはしない。本部へと送り込んだ塩見達に関しては、内輪で揉め事を起こすような男達の性根を叩き込み直してくれというざっくりとした理由で押し通した。そして、察しの良い鞍瀬には余計なことを言わない方が良いということは長年の経験で知っている。わかりやすく泳ぐ矢立の視線を見て何かを言いかけたものの、過ぎたことの説教をしても仕方がない。鞍瀬は追求を止めることにした。
「それにしたってなあ、他にアイツに出来そうな仕事見付けて…、ヒデにくっ付けて集金にでも行かせろよ」
茶くみや掃除はヤクザの仕事ではないだろう。半ば呆れたように呟く唇が湯呑みの縁に乗る様を見て、矢立があ、と口を開いた。
「不味いですよ。多分、」
「ーーっ、…苦…っ、」
時は既に遅く、鞍瀬の口内には必要以上に苦い茶が流れ込んだ。噴き出しそうになるのを耐えて自分を睨む鞍瀬から矢立はさっと目を逸らす。
将未の入れる茶は、あのススキノの風俗店にいた時から変わらず不味いままだ。茶葉の問題ではないだろうと、矢立は慣れた様子で湯呑みを傾ける。苦い茶に、淡い息を逃す矢立を鞍瀬が再び睨みつけた。
「…てめえんとこは…茶もロクに入れられねえ奴に小遣いやる余裕あんのかよ」
「……、」
不味いならそれを先に言え。八つ当たり混じりの鞍瀬の低い声を、矢立は聞こえない振りをすることにした。
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