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薄暗く照明を落とした寝室の、広いベッドに乗り上げた将未と龍俊の身体は同じボディソープの香りを纏っている。シャワーを浴びたにも関わらず、既に汗ばみ始めている将未の胸板にそっと額を寄せた龍俊が、興奮に尖った小さな突起に甘く歯を立てた。咄嗟に声は噛み殺したものの、ベッドの上に立てた両膝が崩れ落ちそうになる。支えを求め、龍俊の肩に両の掌を載せると、淡い茶色がかった前髪の下の目元が弧を描いた。暗さに慣れた龍俊の目には、将未の白い肢体がくっきりと映っている。 将未の細い腰は龍俊の右手によって支えられ、素肌を顕にした双丘は骨張った腰の線をなぞった左手でやわやわと揉み込まれる。それだけでまた、忍び寄るように全身に走る快楽に身を捩ると、龍俊の指は将未の意を汲んだように臀部を開き、奥の窄まりを探る。 「っぁ、あ、」 焦らすように表面を撫でる指にすら声が零れた。 将未の中の欲が容赦なく引き摺り出され、宥められ、慰められる。 誰かにどれだけ触れられても埋まらずに、持て余していた箇所が龍俊に触れられるその度に穴が小さくなっていく。将未自らは埋めようとしたことも無い、埋める術すら知らなかった箇所が埋められていく。 それは、傷を縫うような作業に近いということにも将未はまた気付いていない。 幾度か皺を往復した後、濡れた指がゆっくりと根元まで差し込まれる。呼気を詰めては吐き出す将未の吐息に促されたように顔を上げた龍俊が、もう何度目かわからない動作で唇を啄んだ。 唾液で濡れる音を立てた唇と同じような音を立てながら将未の中が掻き回される。ぶるぶると震える膝頭に力を込めるも上手くは行かない。今にも龍俊にもたれかかってしまいそうになるものの、龍俊がまた将未の胸板に呼吸を吹き掛けてはそこにある尖りを吸い上げる。 「っ…!やめ、一緒に、したら、」 「本当に…?」 力なく首を振る将未を見上げた龍俊が悪戯な目で笑う。囁くように問い掛けられた将未が戸惑う隙を縫うように突起に歯が立つと、身体の奥で飲み込んだ指を顕著に締め付けた。 「ここ弄ったらね、…将未の中、反応するよ?」 「…言わない、で、」 意地の悪い言葉に下唇を噛む。その意地らしさに目を細めた龍俊が、飽くことなく唇から呼吸を奪う。淫らであると指摘する言葉すら、龍俊の声で聴くことによって将未の内側が熱くなる。 将未にとって、男と寝るという行為はある種日常のものとして当たり前に存在していた。ただ言われるがままに身体を触られ、貪られ、奪われる。それが将未にとって男と寝るということだった。ごく当たり前のことであり、慣れ切った筈のその行為を、龍俊と行うとなるとどうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。 龍俊の手が触れただけで、身体が、胸の中心から熱を持ったように熱くなる。 自分の身体が目的だと思われた所で、他の誰かならばそれで構わないと思うだろう。だが、龍俊がそうであるのかもしれないと思った時に、ほんの微かに胸が痛んだ。 身体以外を求めては貰えないだろうか。 湧き上がる小さな欲求は、口にすることは出来ない。 口付けられる度に呼吸が浅くなるのは気の所為などではないだろう。こうして身体を触れ合わせている最中であるからだけではない。他の誰と寝ても、こんな風に心までは乱れなかった。思考を緩慢にさせられることも、胸の奥までもを攪拌されたこともなかった。 この感情の形は知らない。 否、知らない振りをすることで、明確にすることを避けているだけだということを、将未は薄らと気付き始めている。 初めて抱く感情の正体から目を逸らしている。 幾ら龍俊からその〈形〉の感情を向けられても、自分が龍俊に向けようとしている感情こそが、最も不相応なのではないだろうかーー。 「龍俊、さん、」 強請るように首を下げ、小さく唇を動かす将未に応じて龍俊が唇を合わせ、舌を差し出す。辿々しく舌を絡め合わせる姿すら堪らないと言うように、龍俊が唾液を飲み下しては興奮を伝えるような乱暴な手つきで、将未の内部を音を立ててまさぐった。 「っ…、もう、龍俊さん、……欲しい…っ、」 視線を絡め合わせながら唇が離れていくと、将未はまた小さく身を捩ってから遠慮がちな手つきで龍俊の下肢に手を伸ばす。龍俊同様に部屋の暗さに慣れた将未の目には、既に1度吐精を果たしながらも天井に向かって勃ち上がっている自身と、包み込む下着を苦しげに押し上げている龍俊の熱が映る。邪魔にすら思える布に触れるも龍俊は逃げることは無い。細めた双眸で将未の動作を見守る龍俊の雄が、急くような手つきで外気に晒された。 「自分で…乗れる…?」 「出来、る、」 幾度となく経験してきた行為であるというのに、龍俊の上気した眼差しに問われるとたちどころに胸が熱くなる。浅く頷いて腰を浮かせ、龍俊の膝の上に乗り上げた。確かめるように龍俊の雄の陰茎を撫で上げ、呼気が詰まる気配を感じつつ自ら双丘を割って奥に硬さを宛てがうとそのままゆっくりと腰を下ろしていく。 「は…っ、あ、あ…、」 頭を垂れ、再び両手を龍俊の肩に載せる。下から覗き上げるような龍俊が顔を傾け、労るように軽い口付けを幾度も送る。必死に啄み返すも、将未はまた思考を全てかき混ぜられるような快楽に襲われる。流されようとする意志を保つようにきつく目を閉ざし、龍俊の大腿と自らの双丘が密着するまで膝を折った。 「…全部、見えるね」 「ん…ッ、」 「将未の胸も、ここも、」 将未の身体を見上げた視線がゆっくりと滑り降りる。胸板に触れる左手にぴくりと身体を震わせると共に、根元まで龍俊を飲み込んだ内壁が収縮する。示すように、龍俊の指が将未の先走りの浮く亀頭を撫でる。将未の肩が大きく跳ねた。 「ッ…、」 「俺のが入ってる、ここも、」 亀頭から竿を撫で、膨らんだ陰嚢を持ち上げられると、将未の目元が一気に紅潮する。龍俊の目には深々と龍俊を咥え込んだ後孔が見えているのだろう。堪らない羞恥心に激しく首を振った。 「…可愛い。将未、」 戯れを詫びるように龍俊が胸板に唇を寄せた。甘やかな声を上げ、思わず身体を上下させることで将未の内部が擦られる。もっと触れたい。快楽に溺れかける脳裏で思っては、瞼を開いて目の前の龍俊の胸板に指を伸ばし、左胸に触れた。 速い鼓動を直に感じる仕草の中、ふと、視界の中に映るものに違和感を覚えた。 均等な、適度に鍛え上げた事がわかる綺麗な筋肉が着いた龍俊の胸板の下、左の下腹部に大きな傷跡があった。5センチ程だろうか、薄らと割れた腹筋の筋の中にある異質なそれは隠しようもなく良く目立つ。明らかに縫い合わせたような線が走っているような傷跡は、随分古いものであるように思えた。 「ーー…?」 将未の指がほとんど無意識に、そっと傷跡に伸びる。触れるか触れまいかのその刹那、視線の先を追った龍俊がほんの微かに身を震わせた後、咄嗟にその手を払った。 「…龍俊、さん…?」 「…っ、」 驚いた将未の声に、龍俊が我に返ったように小さく瞠目する。流れかけた沈黙と、漂う冷や水とも言える時間を裂くように、龍俊が将未の両脚を取り、同時に自分の腰を持ち上げることで勢い良く体勢を反転させた。 ベッドの上に組み敷かれる形となった将未が天井を見上げた目を大きく見開くも、間を誤魔化すように龍俊がまた深く将未の身体に入り込む。 「…っああ…!深…、龍俊さん、」 「…将未は、ここ、浅い場所も好きだけど」 口を動かしながら腰を引き、亀頭が抜けてしまいそうな箇所で小刻みに肉輪を擦る。先程目にした傷の跡の記憶などたちまち掻き消されてしまう将未が泣くような喘ぎを上げる。 「奥の方が、好きなんだよね、」 小さく囁き、ぐ、と将未の両脚を掲げたかと思うと、猛った男根を根元まで押し込んだ。 「っう…!ぁ、ああ…っ、」 腰と腰がぶつかり合い、将未の奥、最も深い場所にごりごりと亀頭が押し付けられる。長い年月を掛けて男たちに貪られ、拓かれた身体は将未の意に関係なく反応し、後孔の最も奥の秘孔を抉られる度に龍俊の熱を締め付けて止まない。 「駄目、龍俊さん、駄目、そんな…っ、」 「ああ…、すごく良いよ。将未、将未…、」 あられもなく声を上げる将未に龍俊のうっとりしたような声が降る。普段の穏やかで優しい龍俊からは想像できない程に激しく、がつがつと身体を突き上げられた将未は大きく身体を震わせて腹の上に精を吐き出す。 一際強く雄を締め上げられた龍俊が、射精感に眉根を寄せて腰を引こうとするも、その気配に気付いた将未が、射精の余韻が残る身体を必死に押し付けて龍俊に抱き着いた。 「龍俊さ、…っ、中、中に、欲し…、」 「…将未、」 縋り付く将未の頭を抱かれ、髪が撫でられる。日頃自らの要求など何一つ口にすることのない将未の涙混じりの懇願に龍俊が微かに口元を持ち上げた。力が入らないながらも、将未が初めて意識する形できゅ、と龍俊の雄を締め付けると、程なくして将未の体内の奥に龍俊の欲が迸った。 しばらくの間、互いの吐き出す荒い息だけが部屋に満ちていた。龍俊に抱き着く形のまま、将未はそっと瞼を閉ざす。芯を失った龍俊の熱が重力に引かれてずるりと体内を抜けていく感覚に小さく身を震わせるも、少しでも身動きしてしまうと龍俊が離れていってしまうような気がして手を離すことが出来ない。 ずっとこのままでいられたのなら。胸に広がる思いを口に出すことは出来ない将未の髪を龍俊の優しい指が柔らかな手付きで撫でる。不意に額に額がすり寄せられる感触があった。静かに目を開ける。まだ間近にある龍俊の肩に安堵した。 「将未。…好きだよ。将未、」 「ーー…、」 ーー胸が、急激に熱くなる。 今耳にした言葉は、きっと初めて聴いた言葉だ。 瞠目する将未に気付いているのか否か、龍俊はそっと、大切なものに触れるように将未の額に唇を寄せる。 「好きだよ。可愛い、将未。好き、」 「ーー…、」 知らない形をした音が将未の鼓膜を擽る。 胸が苦しい。 どうすれば良いのかわからない。 何を返すべきなのかを、知らない。 水が満たされる。 ーー不意に、開いたままの両目からぽろぽろと涙が溢れ出した。 惜しみなく注がれる情に、将未の暗い場所が満たされ、決壊した。 文字通りに、堰を切ったように涙が溢れて止まらない。だが将未はそれにすら気付かない。霞む視界の中で、反応を伺う為に顔を上げた龍俊が驚いた表情を浮かべているのがわかった。だが将未はどうすることも出来ない。 「将未、」 龍俊の掌が将未の頬を包み込む。その温もりに、将未の唇から声が盛れた。 「…っ、」 涙の次に零れ落ちたのは、泣き声だった。 ーー物心着いた時から、それよりも以前から、将未は人前で泣いた記憶が無い。 泣いてはいけないという母親の呪縛に囚われ続けたていた。保護された病室で二度と母親や弟に会えないと知った時も、少年の時、あの施設の住職に蹂躙された時も、成長し、風俗店に身を売られた時も、将未は1度も泣くことはなかった。何があっても泣いてはいけない。言いつけ通りに、泣きたい時にはいつも歯を食い縛り、その感情をやり過ごす。嵐が去ることを身を縮めて待つようなそれは、いつしか自戒のように将未の感情の起伏を小さくする元となっていた。 独り溜め込んでいた涙は、龍俊の言葉1つが引き金となって滂沱として溢れ出してしまった。 ぐちゃぐちゃになった脳裏で初めて自分が泣いている事に気が付き、感情の理由や、止める術を考えるも、それはまるで意味が無い。 ただ、将未の涙は、将未の胸の中の空になっていた器に少しずつ注がれていた水が、龍俊の言葉によって満杯になり、溢れてしまったようだった。 どうすることも出来ずに、ただそのまま放置してあった欠落した部分がそっと埋められていく。暗く、底のない空虚に眩し過ぎる光が射す。 自分はずっと、こんな風に誰かに愛されたかった。 ただ人肌があれば良かった訳じゃない。 髪に触れ、お前のことが好きだと告げて欲しかった。 ーーただ、抱き締めて貰いたかっただけなのだーー。 1度しゃくり上げてしまうと声も涙もますます止まらなくなる。子供のようにわんわんと声を上げて泣き出した将未に目を瞬かせた龍俊が、もう一度先程と同じように将未の頭部を肩に抱き寄せる。ゆっくりと髪を上下に撫で始める掌に一瞬の逡巡の間があったものの、将未は龍俊の体に両腕で抱き着いてひたすらに泣き続けていた。 どのくらいそうしていたのだろうか。ひとしきり泣き終えてしまうと感情の波は急速に引いていく。龍俊の腕や肩の温もりを甘受しながらも、泣き止んだ後の、セックスの最中とは種類の違う激しい羞恥心に眉根を寄せた将未は小さく鼻を啜った。将未が気付かぬ間に龍俊の手で引き上げられたのか、暖かな布団に全身が包まれている。冷える箇所など1分も無い体には、感情の爆発の後に忍び寄る気怠い眠気に襲われ始めていた。 声を発さなくなった将未を、落ち着いただろうかと龍俊の目が顔を覗き込もうとする。重なりそうな視線を感じ、慌てて目を逸らした。 「ん?」 「……恥ずかしい、」 大の大人が人前で、それも声を上げて泣くなんて。込み上げる感情もまた初めてのものではあるが、感じるままに将未は小さく口を開く。ふふ、と淡い呼気を抜いた唇が将未の額に触れた。驚くよりも、一層強い羞じらいに目を伏せてしまう将未を宥めるように龍俊の指が髪を梳く。 「俺は嬉しかったよ」 「……?」 「初めて見る将未が見られて、嬉しかった」 また唇が降る。柔らかな感触を頬に受け、今度は照れて目を伏せると、将未は布団の中でそっと龍俊の身体に腕を載せる。遠慮がちに抱き着く将未を、龍俊が強く抱き締めて引き寄せた。 「ーー龍俊さんは、神様みたいだ」 いつかヒデに言われた言葉を思い出した。 龍俊に会ってから、将未はいつも知ることの出来なかった世界を知り、知らなかった自分を知り、知る機会を失った感情を引き出されている。 そんな将未に龍俊は、見返りを求めるでもなく、物理的に満たしてくれるばかりではなく、無償の愛情というものを注いでくれる。 空虚だった胸の奥を満たされる。 行き止まりだと思っていた人生のその向こうがある事を、初めて知った。 こんなにも優しく自分に触れてくれる人間を将未は知らない。これまで生きてきた中、出会った人間達の誰よりもーーあの矢立やヒデよりも、きっと龍俊は優しい人なのだろう。 そんな人間は知らなかった。 そんな人間には出逢ったことはなかった。 龍俊は。 「…神様?」 不思議そうな色をしたの声音が聞き返す。ゆるゆると迫る眠気に瞼を上下させながらも、将未は微かに目元を緩めて笑った。 「俺の、…神様、」 ーーこんな幸せは、自分の元に在って良いのだろうか。 腕の中の温もりが、緩やかな不安を呼んでくるのは今が幸せ過ぎるからであるからだろうか。 いつかそのうちまた、自分はこの場所から追い出されるのではないだろうか。その時はきっとこの幸せも幻であったかのように霧散する。 形のない不安がさざ波のように過ぎる。だが、自分は今確かに龍俊の腕の中にいる。今が幸せであるのなら、それ以上に望むことは無い。 龍俊の表情すら伺うことの出来ないくらい眩し過ぎる光の中に自分は置かれている。 誘われる眠気に逆らい、辛うじてそれだけを言うと程なくして将未は寝息を立て始める。龍俊の指が、擽るように将未の頬を撫でた。 〇〇〇 泣き疲れたのか、小さな子供が一瞬で、すとん、と落ちるように眠ってしまった将未の顔を眺める。布団から半身を抜け出した龍俊は腕を伸ばしてベッドサイドにあるテーブルの上の喫煙具を引き寄せた。体に絡む将未の腕を解きながら起き上がり、枕元に背をもたれる姿勢で箱から煙草を抜く。 「……」 無防備な寝顔を見下ろす。歳は三十近いと聞いていたが、将未はまるで無垢な子供だ。ススキノの有象無象どころか、世の事など1つもわかっていない子供のような目をすることがある。先程将未に送っていた熱の篭った視線とは裏腹な、すっと色の冷めた眼差しで男を見遣り、指の欠けた右手で器用にライターを使って白筒の先を焦がした。口内に満ちる苦味が、先程まで自分が吐いていた甘言をかき消していく。 夏に偶然手に入れた〈的〉は、思っていた以上に呆気なく手中に陥落した。 自分が契約してきた携帯電話が将未の枕元に大切そうに置かれている。これ位は些細な出費だ。寝顔や、この男の人格同様に無防備なスマートフォンの画面に触れ、電話帳を呼び出す。 「ーー…、」 空き容量だらけの電話帳に入った、「矢立」の文字を指でなぞると、表情を変えずに画面を閉じて携帯電話を元の場所へと戻す。 将未にはーー将未以外にも、誰にも触れさせたことのない腹の傷をそっと撫でた。 「ーーカミサマなんていねえよ。将未、」 ごく小さく、ごく低く呟く。 将未が信じているらしい偶像を、龍俊はもうずっと存在するものだとは思っていない。 手順は1つずつ踏むことが望ましい。 神や仏を信じるような純粋さを嘲笑してやるには、まだ早い。

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