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今朝は随分と冷え込んだ。朝のローカルニュースが札幌での初雪の頼りを告げている。まだ11月に入ったばかりだが、今年の初雪は例年より早い。積もった雪は2、3cm程で、朝から照っている陽射しによって溶けてしまったらしいが、この高層マンションからは雪が降った様子も溶けた所も伺うことが出来ない。 それでも今朝は冬のコートを着ていくべきだろうかと思いつつ朝食の片付けをする将未の耳に、カシャ、という聞き慣れない音が届いた。なんの音だろうと顔を向けると、何をするでもなく寄り添うように横に立っていた龍俊が携帯電話を構えている。先程と同じ音がもう一度鳴った。将未の顔の高さまでかざした携帯電話の向こうで龍俊が悪戯な目をして笑う。 「…?」 「驚かせた?ごめんね。将未の横顔が良いなと思って眺めてたら撮りたくなっちゃった」 緩く首を傾ける将未に龍俊が画面を向けて示す。大きなスマートフォンの画面の中には黙々と皿洗いをする自分の横顔が大写しになっていた。 「…写真、……携帯、」 携帯電話というものと写真を撮るカメラというものが将未の中では結び付かない。不思議そうな目をする将未を見た龍俊がぱちりと目を瞬いた後に、そっか、と小さく呟き手が濡れている将未に自らの携帯電話を覗かせた。 「これね、写真も撮れるんだよ。将未に買ったのも撮れるからね」 「…そう…なのか…」 せっかく専用のスマートフォンを買い与えられたものの、将未はほとんどその機能を使っていない。そもそも携帯電話を持つ習慣が無かったことともあり、時折時間の空いた龍俊やヒデから教えて貰う機能はなかなか覚えられない。将未の日常では、通話とメールを使うことが出来ればそれで十分だった。 携帯電話とカメラが同居しているということは確かにどこかで聞いたことがあるが、こういうことだったのかと驚きと感心を露わにする将未に龍俊が親切な声で続ける。 「それでほら。撮った写真はここに保存されるんだよ。こうすればね、」 龍俊の指によって画面が切り替わり、カメラとは別の画面に移る。先程見た将未の横顔が移る画面から指をスライドさせると、今度は2枚目に撮った正面からの姿になる。少し驚いたような自分の顔をまじまじと見つめるものの、こうして自分の相貌を客観的に見ることは鏡を覗く時以外はほとんど無い。まだ朝の支度も整えていないこともあり、呆けたような自分の顔を目にすることは少し気恥ずかしかった。 「こうすれば、すぐに将未の顔が見られるし、いつでも将未と一緒に居られるみたいでしょ?」 横顔を向けていた龍俊が将未を見遣り、嬉しげに目を細める。過ぎる気恥しさと照れに思わず目を伏せる将未を見た龍俊が携帯電話をポケットにしまい込む。近い距離に立ったまま、同意を求めて小首を傾げる龍俊からふわりと龍俊の香りが漂った。 「…うん、」 昨夜もこの部屋に泊まった龍俊からは将未と同じシャンプーの香りがする。華やかなシトラスの香りと、苦い煙草の香りを纏った髪の毛先を擦り寄せるように将未の肩にじゃれてから、龍俊は鼻歌混じりにリビングへと戻っていく。 龍俊がこの部屋に泊まっていく頻度は、少しずつ増えていった。龍俊曰く、将未の出勤を見送った後に自分も職場に向かったり、この部屋にある龍俊の自室で働いてから外に出ているという。 夕食を共にし、どちらからともなくベッドへと誘い合い、朝まで抱き合って眠る。経験したことの無い幸福は今も途切れることなく続いている。龍俊は相変わらず優しいことに加え、自分を恋人然として扱ってくれる。時折過ぎる照れや、初々しさを楽しむように傍に寄り添ってくれる龍俊への想いは、一緒に過ごす時間が増えるにつれて募っていく。まだ自ら龍俊と同じ思いだとは口には出来ない将未に嫌な顔をすることなく触れてくれる龍俊の姿にどうしようもなく胸が締め付けられる。誰かを好きになるということは甘い苦しさと一体であるということを将未は三十近くなって初めて知った。 自分に背を向ける形でソファーに腰掛け、煙草をくゆらせながら携帯電話に触れている。そんな龍俊の背を眺めることが好きで、その風景が好きだった。抱き合ったり、キスやセックスをしなくても、その風景1つで将未の胸は満たされ、柔らかな形の熱を持つ。これが幸せというもなのだろうかと掌に載せ、眺めて愛でていたくなるような日々が続いていた。 洗い物が終わり、水道を止める。布巾を手に取りながら、ふと先程龍俊が言った自分の携帯電話にもあるというカメラの機能を思い出した。 いつでも将未と一緒に居られる。 そうであるのなら、自分も龍俊の写真が欲しい。将未がそんな些細な要求も未だ口にすることを躊躇してしまうのは、断られてしまうことが怖いからだろう。 今ある幸せは、小さな拒絶1つで壊れてしまうかもしれない。将未の遠慮を見抜いてしまう龍俊であるからこそ、初めての拒絶を味わうことが怖い。 互いに、互いの深い場所まで踏み込んでいないことは将未にも理解が出来ている。将未は龍俊の、龍俊は将未のこれまでのことも現在の事も尋ねていない。将未は龍俊の表面の部分に触れ、龍俊は将未の奥にある暗がりに火を入れただけで、そこから先には踏み込まない。ーーそれ故に、何が龍俊の機微に触れるのかも将未にはまだわからない。 幸せとは、実態が無いからこそ大切にするべきものなのだろう。今は背を向けたままの龍俊の柔らかな眼差しを思い、将未は自分に言い聞かせるように1人小さく頷いた。 〇〇〇 初雪は降ったものの、11月はまだ、真冬を思わせるような低い気温の日は長くは続かない。先日ヒデに半ば無理矢理連れられて行ったいつもの百貨店で秋のジャケットを買い与えられた。合皮とはいえ、黒革のジャケットを着込んだ将未は真っ直ぐに帰路を歩いている。日はすっかり落ち、絶えず吹く冷たい風が避ける為にジャケットの襟を立て、その中に顔を埋めるようにして歩く。大通り公園を埋め尽くすような紅葉は先日の雪ですっかり落ちてしまったが、うつむき加減の視界に映る、地面を埋める色とりどりの枯れ葉がネオンや街灯に照らされる様は綺麗だと思った。 最近になって知ったマンションへの近道は表通りから1本だけ奥まった場所で、比較的小綺麗な飲食店が入る雑居ビルが建ち並ぶ通りだった。街灯は少なく薄暗いが、男が1人歩く分には問題はないだろうと将未は今日もその通りに足を踏み入れる。マンションまであと数メートルと行った地点で、不意に目の前に3人の男が現れた。 「雄誠会の広瀬だな」 「……?」 藪から棒に向けられた言葉は間違ってはいない。だが、唐突にそんな言葉を向けられる理由が咄嗟には思い当たらない。男達の風貌は、先程までいた雄誠会の事務所に屯していた組員達とそう変わりが無いように見える。だが、わざわざ自分を雄誠会の人間と伺うからにはこの男達は自分とは異なる組の人間なのだろうか。 何の用だろうかと首を傾げるよりも、不躾な足取りで歩み寄った男の1人がひゅ、と腕を振り被った。 「ーーッ…!?」 ぼんやりと足を止めたままの将未の顔に鈍痛が走った。殴られた、と意識するより先に将未の体が地面に伏せる。殴り飛ばされ、反転する景色に目を瞬かせる将未の手の甲が硬い靴底に踏み付けられた。 「痛…っ…!やめ、」 「悪く思うなよ下っ端。下っ端でもなんでも雄誠会にいるからには俺ら豪能組に目え付けられるって相場になってんだ」 ずいぶんと芝居がかった物言いで笑いながら男が口にする事は将未には理解出来ない。豪能組とは一体なんだろう、と思考を巡らせるよりも早く将未の腹に革靴が蹴り込まれた。先程まで、空腹を携えて歩いていた将未の口から胃液が噴き出した。 「やめ、やめてください、」 「情けねえな雄誠会。抵抗しろよ」 誰かに殴られる事には慣れているーー。将未はいつもそうしてきたように身を縮め、体を丸める。ヒデに買って貰ったジャケットが汚れてしまう。頭の隅で思いつつも、殴られる理由がわからないまま背を蹴られて歯を食い縛った。将未の中に染み付いた経験が、このままここで男達の気の済むまで殴られていることが得策だろうかと囁くも、目の前にある道路は龍俊が待つマンションに続いていることを思い出した。龍俊が待っているのならば自分は家に帰らなければいけない。 もう一度歯を食い縛ったものの、男達が繰り出す蹴りは止むことが無い。どうしたものだろうかと他人事のように途方に暮れようとしたその時、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。 「何してるんだ!!」 「……やべ、」 軽い足音が自分へと近付いてくる。男達が動作を止めた事に気が付き、抱えた両腕を解いて顔を上げた将未は目を見張る。龍俊が、長いコートの裾を閃かせながら自分へと駆け寄ってきた。 「警察呼ぶぞ!」 掲げるように取り出したスマートフォンの影に男達が舌打ちする。3人の男達は一斉に、ばたばたと足音を立てて将未の側から離れていった。 「将未。将未、」 「…龍俊、さん、」 男達とは対照的に、将未に駆け寄った龍俊がしゃがみ込んで将未の体を起こそうとする。全身が軋むものの、どうやら骨は折れていないらしい。痛みを堪えて体を起こす将未の顔を覗き込んだ。 「大丈夫?立てる?」 「立て…る…」 マンションまではあと少しの距離だ。頷き、立ち上がろうとする将未の体を支えるように龍俊がさっと寄り添う。1歩目こそはよろめいたが、反射的に掴んだ龍俊のコートの裾によって再び地面に手をつく事は避けられた。龍俊はそんな将未の手を取って大切そうに握り締める。 「龍俊さん、…手、汚れるから」 「なんでそんなこと気にするの?ほら。帰ろう?…びっくりしたよ。将未、ちょっと遅いなと思って出てきたら将未っぽい人が蹴られててさあ。…迎えに来てみて良かったよ」 遠慮して退こうとする指をしっかりと掴んだ龍俊がいかにも不快そうに眉を寄せて続ける。大事に至る前で良かったと呟く龍俊の手に引かれ、肩を借りる形で歩き出した将未はやがてゆっくりとした足取りでマンションのエントランスを潜り抜けた。 夕飯より先に治療をしなければといつに無い窘めるような強い口調の龍俊に促されてソファーの上で衣服を脱ぐと、下腹部に大きな青アザが出来ていた。確かめた龍俊が言うには背にも数箇所痣があるという。あとは始めに殴られた左頬も少し大きな痣になってしまうだろうと龍俊が嘆く。 「酷いなあ…将未の顔が台無し」 将未本人よりも痛々しそうに顔を歪めた龍俊の指が唇に触れる。親指の腹で下唇を撫で、見せて、と柔らかく告げられるままに口を開ける。小さな痛みはあったが、口内に傷は無いようだった。 「歯も折れてないね。良かった」 殴られる事には慣れている。そんな事を龍俊に言うのは何故かはばかられた。 幼い頃からありとあらゆる人間に暴力を受けてきたが、そんな将未の人生と龍俊とは真逆の世界にいるように感じている。将未が漂ってきた暗い場所も、ススキノの毒々しいネオンの色も、明るい場所に立って笑う龍俊からはきっと無縁だろう。将未が知る龍俊は、2度目に出会った時と同じような眩しい太陽の光が似合う。今も尚、さっき目の前で起こっていたことについて何も聞かない龍俊に自分の中の暗い場所やこれまでの事を話すことは躊躇われた。 「…あの人たちは、」 「ん?」 どうして自分を襲ったのだろう。幾度も「雄誠会」の名を口にしたように思えるが、自分が雄誠会にいる事が重要だっだのだろうか。だがーー。 口の中を覗き込んだ龍俊が、唇の端に淡い口付けを落とす。反射的に目を細めた将未の頬を労るように撫でながら、案ずるような眼差しで瞳を覗き込んだ。 「…今日は…やめておこうか、」 体に障るといけない。囁く龍俊の眼差しが悲しげで、将未の胸が痛む。そんな目をしないで欲しい。言葉にする代わりに、頬に触れる龍俊の手をそっと握り込んだ。 「将未?」 「……したい、」 ふる、と小さく首を振り、目を伏せて消え入りそうな声で呟く。もっと近くに、と伸ばそうとする指すら躊躇に彷徨わせる将未に、龍俊は口元を持ち上げるように笑った。 〇〇〇 初雪が積もって以降、札幌に積雪がある日は未だ無い。雪は積もらないが、冬が深くなるごとに気温は下がり続けていく。この季節は天気が良い時程気温が低く、身の締まるような朝の空気の中、白くなった息を吐き出しながら将未は雄誠会の事務所に向かって歩いていた。 首には先日龍俊から貰ったマフラーを巻いている。買い物に尻込みする将未に対し、せめてもの、とプレゼントされた真新しいマフラーは渋い紺と臙脂、茶色の細いストライプ柄で、将未がこれまで触れたことの無い手触りをしている。今朝も龍俊がふわりと巻いてくれたそれに顎先を埋めるも、頬に貼られた絆創膏の表面の繊維が引っ掛かる感触に顔を顰めた。 龍俊は今日くらい仕事を休んだらどうかと勧めてきたが、昨日強かに殴られたり蹴られたりした割にはそれ程体に支障は無い。心身共にダメージを受けていないのなら休む理由も無いだろうと思っていつもの時間に出てきたものの、絆創膏の言い訳を考えてはいなかった。 朝ではあるが、龍俊にもうあの道は歩かないようにと忠告された近道を避けつつ思考を巡らせる。 昨晩自分を襲った男達は始めに自分の名前を口にした。自分のーー広瀬将未という人間の存在を知る人間はそうそう多くは無い筈だ。施設にいたのはもう遠い昔のことで、ススキノの風俗店では下の「マサミ」だけを使っていた。あの店の店長である賀川や、その下の畑山に関わる人間だろうかとも思ったが今更である感は強い。 何より、あの男達は名前の前に「雄誠会」と口にした。それこそ雄誠会に所属していそうな男達の風貌を思い出す。雄誠会の人間以外に、自分を雄誠会の所属だと知っている人間や、知る理由が見当たらない。それに、豪能組とはなんの事だろう。ぼんやりと聞き覚えがある気がするのは、以前誰かが組で話していた為だろうか。ーー1晩考えても、将未は自分が襲われる理由が見当たらなかった。 知り合いが少ないのも考えものだと相変わらず他人事のように思っては鼻から息を抜く。朝になり、人気の無くなったことで閑散として見えるススキノの中心を行き、裏通りに入る。事務所の前で立つ見張りにぺこりと頭を下げてからドアを開くと、足は習慣的に給湯室へ向かう。まずはポットで湯を沸かすことから将未の一日は始まる。 静かな通りとは対照的に、朝の雑然とした事務所の中、会う人間1人ずつに頭を下げながら給湯室に足を踏み入れるとそこにヒデが立っていた。昨夜は夜番だったらしいヒデは冷蔵庫の中を覗き込んでいる。食べる物を物色しているらしいが、今日は冷蔵庫の中にはほとんど何も入っていない筈だ。 「…おはよう…ございます」 「あ。はよ。……おい、」 背の低い冷蔵庫に向かって屈み、突き出す形になった尻に向かって声をかけるとヒデが顔を上げる。普段通り愛想の良い笑顔を向けられたも一瞬のことで、将未の顔を目にしたヒデがすぐに眉を寄せた。 「なした。そこ、」 自分の頬を指さす表情は険しい。結局絆創膏の言い訳は思い浮かばず、あえて外さずにいたマフラーに半分顔を埋めてみるも、逃がさないと言わんばかりのヒデの視線に眉を垂れる。やはりどう考えても隠しきれるものでは無いかと観念し、そっと マフラーを外した。 「……転びました」 「下手くそか。ちょっと来い」 嘘が下手だとニコリともせずに、むしろ被せ気味に返したヒデが将未の手首を掴んで引く。給湯室から出て応接間の出入口の脇を抜け、2階へと続く階段の下に引っ張られた。 「喧嘩か?」 「…喧嘩では…ないです」 人気のない場所に立ったまま声を潜めるヒデに合わせるように将未は小さく答える。だよな、と平坦に呟くヒデはまた眉を寄せて将未を睨み上げた。 「喧嘩じゃねえならもっと悪いんだよ。言え」 「……昨晩、」 将未は嘘をつけない。昨夜あったこと全てを話した将未にヒデは難しい顔をしたまま眉間の皺を掻く。腰に手を当てて深く溜息を吐き出す姿にびくりと肩を跳ねる将未を、ヒデは鼻から息を逃して見上げた。 「一応ボスに報告すっからな」 「…それは…」 矢立に迷惑がかからないだろうか。咄嗟に頭を過ぎったものの、ヒデの物言いには断定的なものがある。自分に決定権は無いと察した将未は叱られた子供のような動作で渋々ながらも頷いた。 〇〇〇 朝礼中、いつものように組員の顔を順に眺めていた矢立は大きな絆創膏を貼った将未の姿には当然気が付いていた。 朝礼を終え、1度は私室に戻ったものの、声を掛けるべきか否かを逡巡しているうちにヒデの方が先にやって来た。問わず語りの報告を聞いているうちに矢立の顔は次第に苦いものへと変わる。聞いたことをそのまま話しているらしいヒデの話を整理し、本人を呼ぶか否かを迷う矢立の頭の中、あまりに引っかかることが多い。 「豪能のヤツら、またなんか動いてるんですかね」 豪能組の件については以前からヒデを始めとする構成員にはそれとなく、大事にはしないように注意を払って伝えてある。先日の鞍瀬からの報告にしても、不穏な物を感じてはいたがそれにしても腑に落ちない。座ったままの矢立が伏せていた顔を上げ、まっすぐにヒデを見上げた。 「…豪能が、広瀬を襲う理由はあるか…?」 将未を襲った暴漢達はご丁寧に自ら所属を名乗ったという。そして、広瀬の名の前に雄誠会の人間であることを断定して告げてきた。 ーーだが、広瀬将未と豪能組とは、どうしても結び付かないのだ。 表情を変えない矢立に、ヒデが目を瞬かせ、素っ頓狂な声で応じる。 「へ?…そりゃあ…ウチに所属してる…から?」 「…豪能が、…うちの部屋住みを襲う理由は、…なんだろう、」 雄誠会と一括りにし、その中の誰でも良かったというのならばさほど問題は無い。部屋住みなどは下っ端も下っ端であるから、襲撃と名の付ける程でもないだろう。だが、広瀬将未の場合は訳が違う。ーーまだ、日が浅過ぎる。 「ーー広瀬が、うちにいる事を知っている人間が、…思い浮かぶか、」 「ーー…」 広瀬が雄誠会に所属して1年足らずだ。その間の仕事は専ら茶くみと事務所内の掃除であり、抗争はおろか、シノギの先の集金にすら出していない。将未が事務所に出入りする所を豪能組の誰かが目にしていたというのなら話は別だ。だが〈広瀬将未が雄誠会の部屋住みである〉という事実を知っている人間は、この雄誠会に所属する人間以外にあとどれ程の人数がいるだろうかーー。 可能性を丁寧に潰す。雄誠会は将未を部屋住みに入れて以降は人の動きは無い。既存の組員がコソコソと豪能と繋がっている可能性も無くは無いが、そういう人間は往々にして動きが不審になる為に必ずどこかで足が付く。 そもそも広瀬将未自体に知り合いが極端に少ないのだ。親類はおろか、親しい友人の1人もいないことを将未の普段の言動から矢立もヒデも感じ取っている。あれはおそらく天涯孤独の人間だろう。それが起因となっているのか、将未の存在自体が酷く希薄なものであるようにすら感じる時がある。その将未を襲う理由はーー見当たらない。 突っ立ったまま言葉を失うヒデから視線を逸らした矢立が淡く息を抜いてデスクの上に置いた携帯電話に触れる。自分が拾った物は自分で責任を持てと言っただろう。電話帳から呼び出した名前がディスプレイに大写しになると、件の人物が口にしそうな小言が頭を過ぎり、零れそうな溜め息を飲み下した。

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