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鞍瀬が矢立から折り入って話をしたいと連絡を受けたものの、互いに野暮用に追い立てられて結局2日が経過した。年末に向けて忙しくなるのはどこの業界も同じことである。何かと立て込んでいた中、ようやく時間が空いた上に支部の近くを通ることになった鞍瀬が所用のついでだと矢立に連絡を取ると、向こうも現在は駅前の近くに出ていると言う。タイミングの悪さに舌打ちしかけたものの、30分もしないうちに戻るとの事で、矢立が本部に顔を出すのを待たずに鞍瀬の方が支部に立ち寄ることにした。
運転手を付けない鞍瀬は愛車の四駆のハンドルを握りながら咥えタバコの煙を揺らす。矢立からの要件は豪能組のことで、とだけ告げられていたがもう少し詳しく話を聞いておくべきだったと感じている。元から常に葬式帰りのような顔をしている上に、愉快な声を出す男ではない矢立が電話口で一際暗い声を出していた為、朗報で無いことは予測している。やれやれと肩で息を吐き、電車通りから路地裏にハンドルを切った。
アポも入れずに訪れた支部に顔を出すと、事務所内で暇そうにたむろしていた男達が一斉に立ち上がった。会長補佐の突然の来訪に狼狽する男達に思わず苦笑しつつ玄関を抜けると、男が1人慌てて駆け寄ってきた。
「鞍瀬さん!ちょっと今…ボスは外に出てて」
「知ってる。ここで待っとくわ」
早口で告げる男に軽く返し、応接間に足を踏み入れた鞍瀬は軽く眉を持ち上げた。以前同じようにふらりと事務所に立ち寄った際には散らかり放題散らかっていた応接間が今日は綺麗に片付いている。その場にいた男達が鞍瀬の姿にぎょっとしながら慌てて各々の飲み物や食い物等を避けたものの、他は至って綺麗だ。本部の方は、仕切る鞍瀬が口煩く言っている為に普段から綺麗に整えられているがこの支部がすぐに来客を通せる程に片付いているのは稀だろう。
ふうん、と小さく息を逃しつつ、どかりとソファーに腰を下ろすなり新しい煙草を咥える。横からライターの火が差し出された。
「すんません。今茶ぁ出しますんで」
「ん、」
「おい!広瀬!茶ぁ!」
鷹揚に頷く様が鞍瀬には似合う。長い足を組みつつ顎を引くと、火を寄越した男が声を張り上げた。名を呼ばれ、奥から顔を出した男の姿が、この片付いた部屋に繋がる。鞍瀬の顔を見た広瀬が深く頭を下げてから駆け足で給湯室に引っ込んで行った。あの男は相変わらず茶くみと掃除ばかりしているらしい。頼りない背の残像は、今日もまたいつか見た男の背を思い起こさせる。
ーーヤクザ組織に入ってくるような人間の中で人に話せるような過去を持たない方が稀だ。誰も彼も、ほとんど余すことなく武勇伝や前科の類の過去がある。
間違わない人間などいない、というのが鞍瀬の持論だ。こんな組織にいる人間などは自分も含めて間違いだらけの人生の末に辿り着いた人間であるとすら思う。だが、唯一間違いを犯していない男を鞍瀬は知っている。
ーーそしてまた、広瀬将未もその類の人間であると感じていた。
その将未の背にまとわりつく空虚が微かに消えていると感じたのはたった今だ。目に見えないものを信じているつもりはないが、以前顔を合わせた時にあった陰りは今は無い。背負う憂いようなものが何らかの理由で突然、あるいは時間を掛けて消えていく場合は有り得る。その感覚をもまた、鞍瀬が知っているものだった。
「どうぞ、」
栓のないことをつらつらと考えていると将未が戻ってきた。きちんと盆に置いた茶托と湯のみから作法に則って鞍瀬に茶を出す。緊張している指先に視線を落としつつ体を持ち上げた。
何気なく覗き込んだ湯のみの中の液体の色に嫌な予感が過ぎる。それでも手にある温度に引かれるように器に唇を寄せた鞍瀬は茶を1口含むなり、瞬時に頭に血が上った勢いのままに立ち上がった。
「広瀬ぇ!」
「ーーはい!!」
発せられた大声にその場の誰もがびくりと肩を跳ね上げた。給湯室に帰っていこうとする将未に鞍瀬が大股で歩み寄る。
「お前…、」
口に入れた茶は酷く薄かった。お前はいつになったら成長するんだ。説教の1つでも喰らわせようとするも、鞍瀬に睨まれ瞬時に萎縮し、怯える将未の目を見て更に頭が沸騰する。お前は一体何が出来るんだ。言いかけ、口を噤む。手を伸ばし、将未の手首を掴んだ。
「ちょっと来い!」
そのまま引き摺るようにして給湯室に将未を連れ去った鞍瀬を止められるような男は、この場には存在しない。
「見とけ!」
ーーどうしてこうなったのだろう。
狭い給湯室の真ん中に陣取った大柄な鞍瀬の傍に将未は肩を窄めて立っている。鞍瀬の大きな掌が、さっき鞍瀬の茶を入れたばかりの急須を掴んで蓋を開け、中の茶葉を流しに捨てる。勿体ない、と止める術など持っているわけがない。鞍瀬は茶筒の蓋を開け、中身を将未に示すように傾けて蓋の中に茶葉を出していく。
「毎回毎回薄かったり濃かったりどうなってんだお前は…。茶っ葉は人数分。一人分がこんくらい」
蓋の中に入れた茶葉を急須に開ける。ポットの湯の温度を確かめた鞍瀬が指先でボタンを触った後に雑な動作で水道水を注ぐと、設定温度を下げたポットが湯を沸かし始めた。
「おまけに熱過ぎんだ。あんな熱くなくて良いんだよ緑茶なんて。新しい湯のみ出せ」
ぶつぶつと言いつつ横目で将未を見やる。未だに何が起こっているのだろうと立ち尽くす将未が慌てて食器棚から湯のみを1つ取り出した。湯が沸くのを待つ間、腰に手を当てた鞍瀬が将未を見ることもなく独り言のように口を開く。
「…できねえ事とかわかんねえ事は人に聞け。聞かなけりゃコイツはわかってんだと思われてその後間違ってても誰も教えてくれねえぞ。わかんねえままでいいのかよ。お前」
将未が答えを探し当てるよりも先に湯が沸いた。ポットから直に急須に湯を注ぎ、蓋をした後に思案げに視線を上向かせる。再び腰に手を当てた鞍瀬が鼻から長く息を抜いた。
「俺も茶の入れ方なんてわかんなかった。誰かになんか聞くのも、誰かにわかんねえって言うのも恥ずかしかった。けどな、いつまで経っても出来なかったり知らねえ方が恥ずかしいと思うぜ。俺は」
これくらいか、と1分程度の時間を置いてから茶を注ぐ手つきは驚く程丁寧だった。鞍瀬のような、男の中の男のような人間が茶を入れてる様は似合わない。だが、鞍瀬の姿には一片の恥じらいも感じられない。長年身に付いている所作のように流暢な動作で入れられた茶を将未はどこか尊敬を含む眼差しで見下ろしている。
「飲んでみろ」
鞍瀬さんに茶を入れて頂くなんて、遠慮しようとする将未をようやく見やる鞍瀬の目は怒気を孕んでいる。俺の入れた茶が飲めねえのか。無言の圧に押され、将未は湯のみに口を付けた。
「美味いだろ」
「…美味しい、です」
鞍瀬に問われるまでもなく、茶は美味かった。適温の、それでもしっかり味の付いた茶が緊張している将未の口内を潤す。まともな味がする茶を飲んだのは初めてかもしれない。こくりと頷く将未の横顔に、鞍瀬が当然だと鼻を鳴らした。
「伊達にオヤジの茶ぁ毎日入れてねえよ。次お前。やってみろ。一人分な」
会長の茶を入れるのは自分の仕事であり、専売特許だ。誇りには思うが普段は口にすることの無い事を独り言のように呟きながら鞍瀬は1度しか入れていない茶葉を再び流しに捨ててしまう。今度こそ、勿体ない、と言いかけた将未は命じられた事項に目を瞬かせるも、またも鞍瀬の圧に押されて茶筒を手に取る。
先程の鞍瀬がしたように、見様見真似で茶葉の量を測り、急須に湯を注ぐ。側で将未の手元を覗いていた鞍瀬が時計を見やる。シルバーの頑丈そうな時計に視線を落としたまま、先程と同じくらいの時間を測ってよし、と声を掛けた。
「大体1分くらいな。慣れねえうちは時計でもタイマーでも置いとけ」
鞍瀬は時間が体に染み付いているのだろう。素直に頷き急須から湯呑みに茶を注ぐ。出来上がったそれに鞍瀬の指が伸びた。再び緊張の面持ちを見せる将未の隣で1口飲んだ鞍瀬が満足げに目を細めた。この上司の笑顔を初めて目にした将未が緩く目を瞬かせる。鞍瀬が笑うと、年齢や、纏う威厳よりも幼く見える。
「ん。ちゃんとうめえよ。お前、丁寧に入れられるしな、」
「……」
「丁寧に入れられんなら時間と茶っ葉の量さえちゃんとすりゃ出来る。やって出来ねえことなんてねえんだよ。つうか出来ねえとか思い込んでんだろ。お前」
お見通しだとばかりに目を覗き込む鞍瀬に言葉に詰まった。確かに将未はその節がある。自分は何をやらせても上手くはいかない。何をしても人並み以下で、褒められることを知らない人生を送ってきたことは確かだ。だが、それよりも鞍瀬の言葉に軽く胸が詰まる思いがした。
雑な言葉遣いの中、自分は確かに今褒められた。
誰かに褒められるのはいつの事以来だろうと思うも、将未はここに来た初日、ヒデにモップがけが上手いと言われたことを思い出す。鞍瀬やヒデは、自然に人を褒められる習慣が身に付いているのだろうか。
どんなに些細なことでも、褒められるという経験の薄い将未はそれだけで胸がいっぱいになり、どうすれば良いのかわからなくなる。
鞍瀬やヒデは、将未にとって足りない部分ーー人として成る為の箇所を補っている。
何かをしていても、誰かに認められてこそ初めて自分はこれが出来るのだという自覚が生まれる事がある。誰かに褒められもせず、認められもせずにいるままでは潜在的に自分は何も出来ないのだという意識が根付いてしまう。
将未にその自覚は無くとも、誰かに認められるということは人間にとって、特に将未のような人間にとっては必要なことに違いない。
龍俊によって揺さぶられた感情の栓が緩くなっている将未は不意に込み上げるものを感じてはぐっと唾液を飲み込んだ。それでも、泣き出しそうな顔をしたまま物言わず立っている将未を不審に思った鞍瀬が視線を向け、小さく目を見開いた。
「なんで泣きそうになってんだ。俺が泣かせたみてえじゃねえか」
「…すみません、」
軽く鼻を啜る将未に、困ったように鞍瀬が短い髪を掻く。今にもべそをかきそうな男に泣くな、と怒鳴ろうとする事もはばかられ、躊躇している鞍瀬の耳に、外から「おかえりなさいませ」の厳つい合唱が届いた。
「お。帰ってきたな。ここ片付けとけよ」
「…はい、」
どうやら矢立が戻ったらしい。玄関の方に顔を向け、手にしたままの湯のみの中身を一気に飲み干し、鞍瀬が給湯室を出ていった。危うく泣き出してしまいそうになった将未はもう一度鼻を啜ってからこくりと頷く。部屋を出ていこうとした鞍瀬が去り際、犬か猫を撫でるような手つきで将未の頭をくしゃりと撫でていった。
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