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夕飯の片付けをしている間、ソファーに腰を下ろして煙草をくゆらせる龍俊の後ろ姿を将未は半ば惚けたような眼差しで見つめている。
腹が膨れ、体の力が抜けたような無防備な背中を眺めているだけで抱き着いてしまいたい衝動にすら駆られる。時折暇を持て余した龍俊が将未の横に立ち、のんびりと世間話しをしたり、指先でちょっかいを出してくることもあるが、将未は龍俊の背の静かな佇まいが好きだった。
今日もまた、食後の一服を付けつつ龍俊はスマートフォンを触っている。先程食事の最中に着信があったようだが、食事を邪魔されるのは嫌だねと眉を潜めて携帯電話を遠ざけていたから、それを折り返しているのだろう。布巾で食器を拭く段階になり、片付けも終わろうかという頃、龍俊が携帯電話を片手に立ち上がって振り返り、将未に向かって眉を垂れた。
「あのね、…ごめん、仕事…行かなきゃになっちゃった、」
足取りも重く歩み寄って来た龍俊に顔を向ける。今夜も龍俊はこの部屋に泊まる予定だった。本来であれば、この後シャワーを浴びにどちらからともなく浴室に向かう筈だったが、将未は龍俊の言葉にごく浅く頷いた。手元の布巾をカウンターに置く動作を見遣りながら、龍俊が悲しげな目を向ける。
「…わかった、」
「ほんとごめん。…怒った?」
将未は怒った事が無い。元々感情の起伏は少ないが、それに加えて沸点が酷く低い可能性もある。その事は将未の中に多くある欠けている部分の1部であるものの、将未自身にその自覚は無く、少なくとも、記憶にある限りでは誰かに腹を立てたことが無い。予想のしていなかった言葉に将未は目を瞬かせた後にゆるゆると首を横に振った。
「…仕事、だから。…仕方ないと思う」
「……寂しい?」
それでも、一瞬胸に過ぎった寒々しい風を否定は出来ない。軽く額を垂れて呟いた将未の様子を観察するように眺めてた龍俊はまた歩みを寄せ、甘えるような目線で将未を見つめる。その瞳に胸を突かれ、言葉に詰まった事が答えであるような気がしたが、将未は小刻みに左右に首を振った。
「…大丈夫、」
そんな将未の様子をじっと見つめ、龍俊は肩を上下させながら息を抜く。溜め息の色が露になった音に将未は何か不快な思いをさせただろうかとほんの微かに肩を跳ねて顔を上げるも、その肩ごと龍俊の両腕に包み込まれた。
「龍俊さん、」
「…こういう時はね、…寂しいって言ってよ」
龍俊の肌触りの良いシャツが将未を覆う。淡い柑橘系の香りと苦い煙草の香りは龍俊の香りだ。今夜それを甘受することが出来ないのだと思うとまた胸が詰まる。深く呼吸をした。未だ遠慮がちな両腕を龍俊の胴に回し、緩く体を押し付けては胸に額を擦り寄せる。その仕草に応じるように、龍俊の指が将未の髪を梳く。
「……寂しい、」
ぽつ、とおちた声が龍俊のシャツを通って胸に吸い込まれる。
行かないでほしい。
昨夜約束したように、今夜もずっと一緒いてほしい。
たとえそれが龍俊の大切な仕事でも、他の誰かに逢わないでほしい。
この手を、目を、ずっと自分にだけ向けていてほしい。
なんて大それた事を思っているのだろうと自分を客観的に見ては慄然とする。つい最近まで、この環境や龍俊の愛情など自分には不相応だと思っていたというのに、自分はいつからこんなに我儘になってしまったのだろう。今まで誰にも行ったことのない我儘を、口にしてしまいそうで恐ろしくなる。
龍俊は、自分が求めて病まなかった愛情を注いでくれる。そんな龍俊の手の中で、将未は自分を律する事を忘れてしまったようにも思えた。
戸惑いを覚え、これではいけないと引こうと身じろぐ将未の体を抱く龍俊の手に力が籠る。将未の中に湧き上がる感情を許し、受け止めるような腕に抗うことなど出来るはずも無く、将未はこの時間と龍俊を名残惜しむようにまた身を擦り寄せる。耳元に直接呼気が吹き入れられた。
「明日は、一緒に寝ようね」
「…うん。龍俊さん」
恋をするということは、人を好きになるということは、きっと寂しい時間も堪えて乗り越えるということだ。
誰かがいなくて寂しいなどという感情も、今まで知ることが無かった。そして、誰かに傍にいて欲しいなどーー誰かを独占したいなどという感情もまた、将未は知らずに生きてきた。
龍俊が水を与える将未の胸の中の器は満たされ、次々に新しい感情の芽を吹かせていく。
切なく、それでいて甘い感情をどこに置けば良いのかわからない。ただ、今夜は手に入らなくなった龍俊の体温や香りを自分の中に染み込ませるように、将未はもう一度深い呼吸に背を上下させた。
●〇●
待ち合わせは、大通り沿いに建つマンションから車で十数分ほど走らせた所、裏参道より更に奥まった場所のバーを指定した。龍俊が到着すると、薄暗いバーの隅にある背の高いスツールに既に男達が腰掛けている。他に客は無いが、龍俊が顔を出した事に気がついた店主が話の内容を聞かぬ振りをするためにBGMの音量を僅かに上げた。決して安酒を飲ますような店ではない内装や店主の雰囲気は、待ち合わせ相手のような明らかに柄の悪い男達には不釣り合いだが、それぞれの手元にあるグラスは既に半分以上が空になっている。
近くの駐車場からこの店までの僅かな距離の間に、将未との抱擁の名残は綺麗に掻き消された。夜の寒風を縫うように現れた龍俊に男達が下品な目を向ける。龍俊が指定した時間よりも遅れたことを罵りもせず、空いたスツールを差し出して寄越した。
「適当に分けろ」
その椅子に腰掛けもせず、龍俊は厚手のコートの内ポケットから封筒を取り出す。音を立てて放ったテーブルの上、薄暗い照明の下にある茶封筒の厚みを確かめた男は淀みなく手を伸ばし、さっさと自分のジャンパーのポケットにしまい込んだ。
「良いのかよ。あんなボロい仕事で」
計画の上で、豪能組の連中を使うのが最もわかりやすく筋が通っているだろうと若頭である安樂に人を見繕うように伝えた。男達は確かに期待通り、というよりも指示した通りの働きはしたが、こうして絡まれ、無駄口を叩かれる事を思えば報酬は先払いにしておくべきだったと内心で舌打ちする。
「…誰に向かって口きいてんだ」
「いえ?いい小遣い稼ぎになりましたよ?」
数日前、帰宅途中の将未を襲撃させた張本人に睨め付けられた男がひゅう、と悪戯に口笛を鳴らした。男達とは正反対と言っても過言ではないような小綺麗な成りの龍俊に対しての揶揄なのか、相変わらずニヤニヤと目を細めている。これだから輩を雇うことは嫌なんだと不機嫌を露わにして眉間に皺を寄せるも、その雇い主の表情を見てもなお男達は顔色を変えない。
「うちの若頭が言ってましたよ。神原と正式に盃交わしてえって」
無表情のまま煙草を抜く神原龍俊は、顔色1つ変えない。脳裏には豪能組の若頭、安樂の顔があったが特段反応を示すことはしなかった。
豪能組は旧い組織だ。未だに盃だの家族だの兄弟だのという言葉を喜んで使いたがる。龍俊はそんな古臭い組織にも、あって無いような繋がりにも、興味が無い。
「…にしても、随分色気のある奴でしたね。あの広瀬ってのは」
男はスマートフォンを取り出し、1枚の画像を呼び出した。顔を明るく照らす画面には、以前龍俊が撮影した将未の顔が大写しになっている。龍俊の携帯電話に保存した画像を人相書きよろしく男に送信したものだった。
この写真の男を、このセリフと共に襲うこと。ただし大きな怪我はさせないようーー。
筋書きは陳腐だったが、将未には十分に効いた。
将未はあの夜、ヒーローか何かが現れたような目をして自分を見つめていた。
将未の中の自分は、豪能組を名乗る男達から将未を救ったヒーローだ。自分と豪能組との繋がりを疑う理由は将未の中には無い筈だ。
あの単純で純粋な男の目を思い出す。全く良い拾い物をした。軽く双眸を細め、煙草の煙を吐き出した。
「神原さんのイロ…じゃないっすよね。元ホストかなんかっすか」
下卑た笑みを一層深くして男が龍俊を見遣る。イローー恋人だとしたら、それを利用し、怪我までさせるお前は俺たちと同類だ。そんな目をする男に、お前らと同類にするなと一瞬頭に血が昇りかけたが、男の手元にある携帯電話の画面の中にいる将未の呆けた顔に気が削がれた。
広瀬将未は、全くもってぼんやりした男だ。
持たせた携帯電話の位置情報を自分に握られていることすら気付いていない。
初めて会ったコンビニの、レジ打ちの店員に絡まれただ呆然としていた様を思い出す。気紛れと暇つぶしを兼ねて助け舟を出してやったその後、戸惑いながら頭を下げる姿が風貌に似合わないと感じた。
偶然に出会った2度目の時、あまりに無防備で裏の無さそうな様に、恩を着せて連絡先の1つでも聞き出し、そのうちなにかに使ってやるかという程度の思いで昼食を食わせた。話を聞くうちに、自分が現在抱えている仕事にもってこいだと気が付いた為、将未の事情に乗る形でそのまま懐に引っ張りこんだ。
将未は、雄誠会に所属していなければ、自分と交わることの無かった男だろう。
高価な衣食住に見るからに腰が引け、自分が口にする芝居のような言葉を信じ、面白いように操られては熱の篭った眼差しを寄越す。
呆気なく、ずるずると手の中に陥ちた将未。
あまりに純粋で、人を疑うことを知らない瞳に時折反吐が出そうになる。
使い用はいくらでもある。だが。
「ーーさあ、」
深く息を吸い込み、天井に向かって煙を吐き出す。照明の下、流れる煙が揺れて消えた。
「知らねえな」
将未の背景には微塵も興味が無い。過去や背景が在っても無くても一向に構わない。利用しようと決めた人間が自分に惚れ込み、意のままに動いてくれればそれで良い。罪悪感は無い。今の仕事が終われば、ただの他人だ。
龍俊は将未にも、他の人間にも興味が無い。ともすれば、自分にすら興味も頓着も無いのかもしれないと思う。
何も無い人生だ。
何も無いが、死にたくないから生きているだけだ。手に持つ数多の物達は、龍俊にとって全てさほど興味が無い物ばかりだった。
〇〇〇
気が付いた時には、身体は既にベッドの上に四つん這いにされていた。男の屹立が刺さった双丘を無骨な指で鷲掴みにされ、背後から力任せに腰を叩き付けられる。喉を反らせ、視線を上向かせると毒々しい色をした天井が目に入った。ここはあのススキノの風俗店だ。そうなると、背後にいるのは畑山だろうかとどこか冷静な頭で振り返ると、予想した通り畑山の薄汚れたような笑みがあった。懐かしさすら過ぎる愉悦に満ちた笑顔のままで数回将未の身体を揺さぶっては、内壁に熱を擦り付ける。
オーナーである賀川に聞こえてはならない。咄嗟に喘ぎを堪える将未の黒髪が捕まれ、目の前に男根が晒され、切っ先が頬に擦り寄せられる。将未はそうすることが当然というように顔を寄せ、亀頭を咥え込むも、こちらは醜悪な熱の持ち主が誰なのかがわからない。客が戯れに畑山を呼んだのだろうかと、やはり冷めた頭で想像しつつ顔を上げると、少年の頃、最後に住んでいた施設の奥の部屋で自分を待ち受け、貪っていた住職の顔があった。将未の口淫を恍惚と受けている住職に小さく瞠目するも、強く喉を突かれては立ち所に思考が停止する。
果たしてこれはなんだろう。
畑山と住職が、かつて身を置いていた風俗店のベッドで成人したーー現在の自分を蹂躙している。有り得ない状況ではない。矢立に拾われたことも、雄誠会に所属していることも、龍俊の元で過ごし、愛されたこともやはり全て夢だったのだろうか。長年を掛けて飼い慣らされた思考に絶望は生まれない。自分にはこれが相応しいのだと告げられているような錯覚に蝕まれ、その上抱き続けている胸の空虚が埋められていく感覚に陥る。自分の空虚は誰かの性欲を満たすことで満たされる。一時でも、満たされる時間があるだけ良いのだ。やはり懐かしい感情が胸を過ぎる。幸せなど、自分の手にも胸にも降っては来ない。諦めにも似た感覚を掴みそうになった刹那、不意に誰かの視線の気配を感じた。
誰かが自分達を眺めている。
ベッドの脇、椅子か何かに腰を下ろし、冷えた眼差しを送っている誰かがいる。住職の猛りをしゃぶりながら視線を巡らせた。簡素な椅子に腰掛ける男の顔を見上げる。
「…ーーっ、やめ、」
そこには、龍俊が腰掛けていた。悠然と足を組み、煙草をくゆらせながら頬杖をつき、さして興味も無さそうに将未の痴態を眺めている。
見られたくない。
咄嗟に過ぎった感情はいっそ新鮮なものだった。他の誰でもない。龍俊にだけは、こんな姿は見られたくはない。失った筈の羞恥が襲う。見ないでくれ。叫ぼうとするも、口は塞がれたままだ。龍俊はやがてつまらなそうに立ち上がっては、冷えた瞳のままで将未を一瞥して背を向けた。
龍俊が部屋を出ようとする。将未の目尻から涙が零れ落ちた。
「ーーっ…!」
見ないでくれ。行かないでくれ。
矛盾した感情に叫ぼうとした瞬間、目が覚めた。
横たわったままの体にぐっしょりと汗をかいている。荒い呼吸を吐き出しながら、2、3度瞼を上下させるうちに今見ていたものは夢だったのだと気が付く。包まる布団の温もりに、ここは龍俊に借りている部屋のベッドの上だと確信しては目を閉じ、深い息を吐き出した。
薄暗い夢を見た。有り得ない夢だった。夢の中、自分はあの店に戻っていることよりも、誰かに身体を貪られることよりも、他の誰かに触れられる自分の痴態を見つめる龍俊の目が、向けられた背が何よりも怖いと感じてたーー。
シーツに顔を伏せ、布団をかき寄せて身を丸める。急な仕事が入ったという龍俊は今夜は戻らないと言っていた。ただでさえ広過ぎるベッドが、今夜は必要以上に広く感じる。布団やシーツに乗る龍俊の残り香を感じては鼻腔を揺らして香りを胸まで吸い込む。まるで龍俊の腕の中にいるようだと錯覚した。
恐ろしい夢にうなされて飛び起きた今、龍俊に隣に眠っていて欲しかった。
恐ろしい夢を見た後にあの手に触れられ、髪を撫でられたのならどれ程安心するだろうか。きっとまた、すぐに穏やかな眠りに着くことが出来るだろう。また同じ夢を見たのなら、という恐怖に苛まれることなく再び深い眠りに落ちることが出来ただろうか。
だが今夜は龍俊はいない。
物理的な何かを強請ったことはない。だが、行かないでと口に出来たならと願ってしまう。
恋をするということは、幸せばかりではないのだろう。恋は、切なさや寂しさに耐えること、我慢することとの隣り合わせだ。
きつく瞼を閉ざす。明日は龍俊が隣に眠ってくれるだろうか。祈るように、両腕で胸を抱えるように背を丸めてもう一度深く息を吐き出した。
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