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目を覚ました時には、白い壁に囲まれた部屋で白いベッドの上に寝かされていた。
左腹から全身に伝わる鈍い痛みに顔を顰めつつも龍俊は霞んだ目を2、3度瞬かせる。ああ、生きてる、と酸素マスクの中で深い呼吸を吐き出した。視線を動かすと、体は細い線やチューブで繋がれているらしく身動きは取れない。微かに効く鼻で薬品の匂いを嗅ぎ取り、ここは病院だろうかと思い至る。体を繋いだ線の先にある大仰な機械が龍俊の目覚めを知らせたのか、部屋にバタバタと看護師を始めとする人間達が飛び込んできては、意識が戻ったと声を上げていた。
自分は死なずに済んだのか、と思う傍ら、まだ動きの鈍い思考が意識を失う直前の出来事を引っ張り出そうとする。
ふと、看護師や駆け付けた医師の壁の隙間に、見覚えのある男が立っている様子が見えた。あれは自分の叔父だ、と気が付き、改めて表情を見上げた龍俊は大きく瞠目した。
お前も死ねば良かったのに。
叔父は穏やかな人間だった。その叔父が落胆したような、人を憎むような目をしたのはほんの僅かの間の事で、驚いた表情を露にした龍俊に気が付いた叔父は、内に渦巻く心境をサッと隠したかと思うと次の瞬間にはあたかも安堵したように笑っていた。
その時の龍俊は、叔父のその表情の意味はわからなかった。だが龍俊はもう一度、自分が殺されずに済んだ事を確かめるように布団の中で緩く拳を握り締める。
叔父から目を逸らした先には嵌め殺しの窓がある。外には、雪の無い師走の暗い東京の空が広がっていた。
●●●
物心ついた時から、何一つ欠けるものの無い環境に生きてきた。
都内の中心にそびえるように建つ、代々に伝わる大きな一軒家に住み、数多くの部屋の中にはもちろん龍俊専用の広過ぎる子供部屋があり、言葉を喋るか否かの頃から英才教育の、更にその助走のための家庭教師が付いていた。神原家に生まれた長男として、あらゆる面において、人より劣らぬよう、人より秀でるようにと龍俊には良質な教育を惜しむことなく施された。小学校に上がってからは学習塾を始めとして当時の小学生が経験するような習い事は一通り通った。私立の学校に通い、放課後を習い事に費やすことは肉体的には辛いものがあったが、それでも耐えられたのは家に帰るといつも母親が笑顔で出迎えてくれたからに他ならない。
母親は龍俊に、財や時間を費やすことと同じように愛情を注いだ。
母親、神原香子は良家の次女だったという。生まれながらの環境も手伝い、ごくおっとりとした性格ではあったが、やはり良い育ちや教育の中で育った故なのか、聡明で芯は強い女性であった。
「龍俊くん」
龍俊は、幼い頃から多くの他人に囲まれて育った為か人懐っこく、外向的な性格だった。その龍俊は、幼い頃は母親の膝の上が1番好きだった。母親の膝の上は、長男であり、夫婦の一粒種であった龍俊だけの特等席だった。母親の柔らかな膝の上で読んでもらう本はどんな家庭教師が読み聞かせてくれる物語よりも楽しく、尊く耳に染み込んだ。香子もまた、幼い龍俊の体を力一杯抱き締めて春風のような呼気を逃して笑い、歌うように名を呼んでは戯れに頬を擦り寄せる。
「龍俊くん。お母さん龍俊くんが1番好きよ」
「ぼくもお母さんが1番に好きだよ」
「お母さん、龍俊くんがいればなにもいらないわ」
幼い胸を擽るような声で、香子は決まってそう言った。
ある日、龍俊の丸い目が香子を振り返り、可愛らしい仕草で軽く首を傾けた。
「お父さんは?」
「ーー…」
「お父さんは、何番に好きなの?」
その時母親が浮かべた表情を、龍俊は今でも覚えている。龍俊の純粋な瞳に映る母親の顔が、一瞬にして険しく変化した。
「お父さん、は、」
母親の、憤怒としか例えようのないその表情を目にしたのは、その1度きりだ。
父親である神原龍彦は、若くして議員の職に就いた男だった。
世襲制を断絶するべきだという世間の風潮などどこ吹く風で曾祖父の代から脈々と続くポストを継ぎ、忙しい毎日を送っていると聞いていた。ずいぶん歳が離れた若い妻を娶り、義務のように子供を作ったものの、滅多に家には帰っては来ない。龍俊の記憶の中での父親の印象は薄く、その背を目指して生きろと言われた所で、その時はただ戸惑うばかりだったことを強く覚えている。
滅多に顔を見ることが無い父親には、恐らく外に妻とは別の女がいる。その事に気が付いたのはいつの頃だったかも覚えていない。
香子がその事に気が付いたのはいつの事だったのか。
深窓の令嬢とも言える香子は、父の、この家から出ることを選ばなかった。香子の実家の方の事情はついぞ知らないままだ。香子は、龍俊ーー一人息子を、神原家の内外に恥じない男に、人間に育て上げることが生き甲斐であり、喜びであるとした。その一方で、それを成すには不可欠である父親の財力に縛られたまま、家庭を放り出した夫に対して完璧な妻であり、母であろうとすることで自我とプライドを保って生きている女だった。
「…お父さん、なんて、」
奥歯を噛み締めるように香子が呟く。異変に気付いた龍俊が、小さな掌で頬を撫でた。ハッと目を瞬かせる香子に再び軽く首を傾げると、軽く伸び上がり、いつも母親がしてくれるように柔らかく頭を撫でる。
「ぼくねえ、ずーっとお母さんが一番大好きだよ?」
「ーー…」
ぎゅ、と音が鳴るほどに龍俊の体が抱き締められる。うん、と頷く母の頭を撫で続ける龍俊は、間違いなく香子の生き甲斐であり、存在する理由であった。
●●●
龍俊は、着実に、そして堅実に将来を見据えた学歴を渡っていた。良い小学校に通い、良い中学校に上がり、良い高校の門を突破する。そこに雑念や疑問が入る余地も理由も無く、龍俊は1つも過ちのない人生を歩んでいる。そして長い受験勉強に心血を注ぐような高校生活を終え、春からは誰がその名を聞いても1度で理解し、感嘆の息を漏らすような大学へ通うことが決まっていた。
全ては父が来た道であり、母が沿って敷いたレールだった。だが龍俊に不満は無かった。幼少期から自分はそうあるべきだと言い聞かせられ、育てられた。十分過ぎる程の財を注がれ、固められたスケジュールや道程を歩んでいながらも龍俊が人間らしく、歪んだ性格に育たなかったのは一重に母親のお陰だろう。母親は龍俊が成長する中で変わらずににあらん限りの教育を施し、そして愛情を注いだ。父親の影は濃く、だが、相変わらず遠い。その父親を反面教師とするかに、母親は龍俊が人間らしい情の持つ男に成長を果たす為の気配りを忘れなかった。
母親はいつも龍俊の傍にあり、秘めたプライドを良妻賢母という殻で隠し、龍俊を包み込むように見守っていた。
高校の卒業式の夜の事だった。
3月にしては気温が下がったその日は珍しく父親も食卓に揃い、龍俊の卒業を祝う膳が設けられた。外は春の冷たい雨が降っていた。
夕食を終え、風呂に入る前に腹を休めようと龍俊は自室に引っ込んだ。父親もまたやり残した仕事があると書斎に入り、母親は久方ぶりの団欒を囲んだビングでそのままのんびりと茶を飲みながら過ごしていた。
夜の九時を回った頃、インターホンが鳴った。出入りの家政婦や父の秘書はとうに帰してしまっている。インターホンから最も近くにいた香子が、こんな時分に誰だろうと思いつつ応対した。古い家にはまだ玄関先が映るようなパネルは設置していない。防犯カメラは備えているが、香子は操作の仕方もわからない。はいはい、と玄関のドアのこちらから声をかけると、雨の音に混ざって女の声が返ってきた。
人が尋ねてくる宛はない筈だ。こんな時間に誰なのかしらと訝しがりつつもドアを開けると、そこには香子よりも幾分か若い女が傘を差して立っていた。
「どちら様でしょうか」
雨の降る中、女は傘を閉じて艶然と微笑んで見せた。女が纏った和服の濃い紫色の着物の色が灯りに照らされて浮かび上がっているが、その着こなしの様はいかにも水商売といった姿である。裾が雨に濡れていたが、気に留めることなく敷居を跨いだ女は挑みかかるような目をして香子を見据えた。
「こちら、神原先生のお宅でしょうか」
よく通る声だった。セリフを用意してきたのか、淀みが見られない。はあそうですが、と間の抜けた声を発する香子に、女は仰々しく頭を下げて見せる。アップに纏めた髪の、後れ毛が女である香子の目にも艶めかしいものとして映った。
温室育ちの自分とは正反対の生き方をしてきた女だ。香子の中の警鐘がほんの微かに鳴り始めた。
「あたくし、神原先生に昔からーー大層お世話になっているものです」
その物言いに、流石の母親も何事が起きたかとぴんと来るものがあった。この時間にわざわざ尋ねてくる人間が普通の、香子の中での常識の範囲内での用件で訪れるわけはない。香子は無意識にブラウスの中の背筋を伸ばし、細い指で客の女を招いた。
「…玄関先では。…どうぞ、中へ」
広く、豪奢な応接間へと招かれた女は終始キョロキョロと部屋を見渡し、置いてある調度や飾り棚に並ぶ食器、絵画など余すことなく視線を配り、ふうん、と鼻を鳴らした。1度台所へと姿を消した母は自ら、数年ぶりに自らの手で茶を入れて応接間へと戻ってくる。品の良い、小ぶりな瀬戸物の湯呑みで出した茶に、ソファーに腰を降ろした女は手を付けることなく再び母親を見据えた。
「…どういった御用でございますか」
「灰皿はございます?」
香子は、最早不快感を隠すことを忘れている。美しい形の眉を潜めながら傍にあった頑丈なガラス製の灰皿を差し出すと、女は小さな鞄から喫煙具を1式取り出した。細い煙草を1本抜き、慣れた手付きで火を灯しては道に入った仕草で天井に向かって煙を吐き出すと、濃い赤に彩った爪の先で灰皿の上で白筒の淵を叩いた。毛足の長い絨毯の上に置かれた白い足袋が雨の雫で濡れている。
「あたくし、銀座でバーをやっております。神原先生には若い時分からご贔屓にして頂いて」
「……」
「若い時はただの雇われホステスだったんですがねえ…、神原先生には本当に感謝しきれませんよ」
女が一言なにかを言う毎に香子の周りの空気が張り詰める。女が含んだ物言いに、普段通りの仕草で大腿の上に重ねて置いた指先が震え始めるのを感じた。
「奥様の話もよくお聞きしているんですよ。アタシとあまり変わらないお年だとか。そうそう。神原先生には一人息子さんがいらっしゃるんでしょう?確か今年、大学に上がるとか」
歌うような声が応接間に響いている。母親は、息を殺すように女の姿をじっと見つめている。
「アタシにも一人息子がいるんですよ。歳はね、…ええ、お宅の息子さんとちょうど同じだけど学年は1つ下、」
「…ご要件は、」
ざわざわと香子の胸にはひたすら嫌な予感が迫り来る。吐き気すら催しそうな感覚と、煙草の煙の不快さに引き絞るように声を発した。女の方は客商売らしく淀みのない口振りで語り続ける。
「来年にはうちの息子も大学に上げようと思うんですよ。アタシに似ずに賢い子でね、いい大学に行けると学校の先生にも言われました。ただねえ、奥様、」
明後日の方を向いていた女がまた香子を見やった。丁寧に施した化粧、目元に引いた紅い色が鮮明に香子の目に映る。女は、その目をすっと細くした。
「…私生児じゃあ、大学への印象は良くはないと思いません?」
「……なにが、仰りたいのです」
女は蛇のような目付きに変わってくる。ふう、とまた1つ煙を吐き出すと、まだ長い煙草を綺麗な灰皿に押し付けた。
「いえね。アタシも今更世間体もなにも気にする訳じゃあないんですよ。所詮水商売の女の子供ですから。でもねえ、息子が可愛いのは奥様と同じだと思うんですよ」
女の言葉遣いは次第にぞんざいになっていく。世間話のようにつらつらと言っては笑い、卑下する言葉とは裏腹に見下ろすような視線で香子を見遣る。要件を、と再度促す香子の目に、女は口角を持ち上げた。
「神原先生に、息子の認知を頂きに伺いました」
「ーー…」
女がこの家に訪れた理由を、心の隅で予想はしていた。だが、いざとなれば香子は絶句するしかない。目を見開き、両手をきちんと膝の上に畳んだまま言葉を失う香子を見遣る女の目が、勝った、と笑っていた。
「…嘘よ」
「嘘じゃあございませんよ奥様。十八年前、アタシの腹に入った子の種は神原先生のものです。書面やら戸籍上の手続きやらはともかく、神原先生もお認めになってくださって…。そうですねえ…ここの家の坊ちゃんよりかは劣ると思いますけど、これまでも十分なご支援を。お陰様で立派に育って」
「嘘よ」
ーー龍俊は、たった1人の息子だ。
龍俊の次の子供は宿さなかった。だからこそ、香子は手塩に掛けて龍俊を育てた。家の外に出しても恥ずかしくないよう。誰の目から見ても立派な議員に成るよう、神原龍彦の息子ーーたった1人の息子として、立派な人間になるように。
龍俊を育て上げることだけが香子の全てだった。
それだが香子のプライドであり、誇りだった。深層の令嬢と呼ばれて温室で育てられた自分に出来ることはそれくらいなのだ。良い妻であることは外面だけでも構わない。良い母であることは、香子の存在する理由であった。唯一の息子。夫が財を投じるのは龍俊のみである筈だ。その財があるから自分はこの家を離れられない。全ては龍俊の為だ。自分が金に縛られることも、唯一である龍俊がいるから耐えられるーー。
その全てが、今呆気なく打ち砕かれた。神原龍彦の息子は龍俊1人だ。例えこの女の言う通り、この女の息子が全てにおいて龍俊よりも劣ったとしても、神原の血を引く人間は、この世に1人しかあってはならない。神原の血を引く人間を育てるのは、自分1人でしかあってはならない。
そうでなくては、自分が存在する理由も見当たらなくなってしまうではないか。
ぷつ、と糸が着れるような音がした。そうね、口の中でごく小さく呟く。
香子は静かに立ち上がった。背を向けられた女は龍彦を呼びに行こうとしたのかと思ったかもしれない。いかにも勝ち誇ったような眼差しで、細い背を悠然と眺める女の視界の中、香子は部屋に作り付けのサイドテーブルを開けている。ゆっくりと振り返ったその手には、大振りの鋏があった。外国製の、女の手には余る大きさの、鋭い刃を持った刃だった。
「ーー要らないわ」
「奥様…?」
2人も要らない。完璧な息子は1人でいい。
自分が育て上げた龍俊だけだ。そしてその息子を育て上げたのは、自分だけで良い。
呟く声は女には聞こえない。口元を緩く持ち上げた香子が、鋏を手に女へと歩み寄っていく。明らかに、空気と目の色が変化した香子の様子に女は思わず立ち上がった。足がテーブルに当たった拍子に茶托の上で湯呑みが転がる。香子は、ものも言わずに女の胸元、誤った目測で右胸に鋏の切っ先を突き立てた。
「ーー!!」
声にならない声が女の口から飛び出した。勢いのままに鋏を抜くと、一瞬の間を置いて紫の上に血が滲み出した。女は苦しげに喘いで咄嗟に右胸を抑えるも、その動作を目にした香子が脳の隅で〈足りなかった〉のだと判断する。ソファーの上に崩れた女の体の上に馬乗りになった香子は、女が纏う紫色の絹の上、辛色の帯を避ける形であらん限りの力を持って3度、4度と鋏の先で胸を突き、最後にはとうとう女の白い喉に刃を突き立てた。
喉から噴き出した血が香子の白いブラウスを濡らす。美しい顔もまた、血ですっかり汚れてしまった。息を乱し、般若のような形相のまま女を見下ろしていると、応接間のドアが開いた。
「お前。どうしたんだ。こんな時間に誰がーー」
2階から降りてきたのは龍彦だった。血に塗れた香子の、その中にある血走った瞳にぎょっとして立ち尽くす。部屋中に充満し始めた血の臭いに鼻腔を突かれても、事態を把握出来ずにその場で足を止めた夫に、香子はあたかも少女のように首を傾けてみせた。
「ーー貴方。…だってこの人がおかしなことを言うんだもの。こんな時間にお家にいらして…、この人が貴方の子供が外にいるって言うのよ?おかしな人、」
「ーー…っ、」
妻は何を言っているのだろう。ようやく視線だけを動かした龍彦が、ソファーの上で瞠目したまま動かない女の姿に気が付いた。真っ赤な血に塗れ、裾を乱して両脚を投げ出した形で動かない女よりも更に大きく目を見開く龍彦の全身が震え始める。ゆらりと立ち上がる香子を目にしてもなお、足は竦んで動かない。
「お前、」
「ねえ。嘘よね。外にあなたの子供がいるなんて嘘よ。あなた」
鋏を手に、じりじりと歩みを寄せる香子の目は正気ではない。龍彦を見据えてはいるが、焦点は合っていないように見えた。美しい顔や、指が血で汚れている。龍彦は、射すくめられたように動けない。
「あなたの息子は龍俊だけでしょう?私には龍俊だけなのに。ーー酷いわ」
返答がない。香子の眉が悲しげに垂れた。約二十年、ろくに家にも帰らなかった夫に尽くしてきた。だがそれは龍俊と、龍俊を育てる為の財力があったからだ。一粒種である龍俊を育て上げる為だ。唯一の息子。この男に龍俊の成長を見せ付ける為に生きてきた。この男が財を投じるのは、龍俊だけであるべきだ。そうでないのなら、この男といる意味はない。
振り被った鋏は、龍彦の上質なシャツの左肩を切り裂いた。少量の血が吹き出る。咄嗟に庇った右の手の甲を切っ先で裂き、痛みに口走る悲鳴の最中にも腕に蚯蚓脹れの傷を作る。龍彦の震える膝頭には力が入らない。お前、と静止の声を発しようとした口の下、首の付け根にほとんど直角に刃が立てられた。
断末魔とも言える悲鳴がこだました。耳にした事の無いおぞましい音にに香子は顔を顰める。ぐい、と力を込めると鋏は抜け、夫である男はその場に前のめりに伏し、ぴくぴくと指先だけを動かしている。
暖房の効いた部屋に血の臭いが満ちていた。足元に流れ、上質なストッキングを濡らす液体の感触に気付きながらも、どうしてこうなったのかしら、と他人事のようにぼんやりと思う香子の耳に足音が近付いてくる。香子の意識が半分だけ引き戻された。
ーー龍俊だ。
可愛い龍俊。小さい頃から愛らしく、聡明で、優しい子だった。香子の全てだった龍俊。大切な龍俊。その龍俊にこの様をなんと言えば良いのだろう。咄嗟に思ったものの、正気はまだ半分しか戻らない。とんとん、と軽い足音を立ててやってきた龍俊が、灯りのついている応接間をひょいと覗き込んだ。
「お母さん?今の声はーー、」
「龍俊」
手にした鋏をそのままに振り返った香子は、龍俊に向かってにこやかに微笑む。表情だけはいつもの香子だ。だが、その顔はすっかり血に汚れている。目の前の光景に愕然としたように立ち尽くす龍俊に、香子はまた首を傾けた。
今日は龍俊の高校の卒業式だった。立派な姿に香子は思わず涙してしまった。本当に立派に育ってくれた。龍俊は春からは大学に通うのよね。ーーでも、これじゃあ。
スキャンダル、という言葉がすとんと香子の頭の中に落ちてきた。スキャンダルには気を付けなければいけませんね。自分と同じような議員の夫を持つ妻達の仲間内で時々冗談めかして交わされる言葉だ。クリーンなイメージが重要なお仕事なのだから。
自分が起こした、今目の前にある光景は間違いなくスキャンダルになってしまう。世間に知れる前に隠さなればいけない。幸い出入りの人間は皆帰っている。
見られたのは龍俊にだけだ。
龍俊に。
龍俊は、この倒れた夫や、女や、私を、見たのだ。
「龍俊。…大丈夫よ」
龍俊はこのことを世間に言うだろうか。龍俊が言わなくても、いつかこの事は世の中に知れ渡ってしまうだろうか。そうなると、龍俊が生きていてもスキャンダルにまみれるだけだ。大学に上がっても、こんな母親がいては可哀想な目に遭うだけだ。龍俊にそんな可哀想な経験はさせられない。大切に育てて来たのだから。悲しい思いは出来る限りさせることはなく、寂しい思いも知らずにいられるよう、自分は何もかもから護ってきたのだから。
「お母さんがずーっと一緒にいますからね。龍俊は、なんの心配もしなくて良いの」
半分取り戻した筈の正気は、正常ではないもう半分の判断に引きずられた。だが、香子の中での理屈は整っている。ゆらりと龍俊に向かい合うと、幼少期に言い聞かせたような声音で呟く。立ち竦む龍俊の真正面に立った香子は、穏やかな微笑みのまま躊躇なく息子の左腹部に鋏を突き立てた。
「ーー…!!……お母さ、」
青年は、香子の足元にどさりと音を立てて倒れた。どうして、と見開いた目が母親を見上げる。血に染まった足に縋るべく指を伸ばそうとした龍俊が口にした声に、香子は正気を全て取り戻した。
「龍俊…?」
次の刹那、甲高い悲鳴が部屋に響き渡った。どうして、再び我を失い、精神が壊れた母親が発する涙混じりの狼狽の声を耳にし、腹から血が流れていく感触を覚えながら、龍俊はそのままゆっくりと意識を手放していった。
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