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事の顛末は病室で知った。
香子が鋏で刺した箇所は致命傷を避けられたものの出血量が多く、龍俊は数ヶ月生死の境をさ迷った。意識を取り戻すことが出来たのは龍俊の若い体に備わった体力によるものだと医師が言っていたことをぼんやりと覚えている。
起き上がることができるようになった龍俊の元に聴取に訪れた警察官から聞かされたのは、実際に起こった出来事の半分程度なのではないかと思われた。なにが起こったのか、というのは龍俊の側で喉を切り裂いて死んでいた香子しか知らない。龍俊が聞かされたのは捜査の上での推測だ。
家の主人である神原龍彦と、その愛人である女と、一人息子を刺したと思われる凶器からは香子の指紋しか検出されなかった。応接間で死んでいたのが神原親子のみであれば無理心中を図ったという推測も生まれたのだろうが、神原一家と愛人の女を発見したのは神原龍彦が外に作った息子だった。母の帰宅が遅いのを心配してやって来たというその息子の行方は、少なくとも龍俊は知らない。母親を亡くした自分と同じ年齢の腹違いの弟が存在するという事実は凡そ実感はなく、やがて記憶の彼方へと消えていった。
議員の、それも代々続く家柄の元に生まれ育った男が痴情の縺れの末ーー恐らくは夫の不倫に激昂した妻に殺されたというニュースは、香子が最も忌避したスキャンダルとなりしばらくの間世間を賑わせたものの、龍俊がその影響を受けなかったのは療養という建前を借りて病院から出ずにいた為だ。親類の計らいによって匿われていた形になる龍俊は、両親を失った実感も、外の喧騒も知らないままで悪戯に月日を重ねることとなる。
そして、退院した龍俊を待っていたのは、お抱えの弁護士を懐柔し終えた親類一同だった。
ありとあらゆる筋の親戚達が龍俊の退院を手ぐすね引いて待っている理由はすぐに判明した。いかにも狡猾そうな弁護士が親戚一同の考えをまとめて持ってきた時にはしばらく何を言われたのかわからなかった。
父 神原龍彦が残した莫大な遺産や株、土地の類、そして屋敷は全て生き残った龍俊のものとなった。
殺人事件が起きた家などは売り払うしかないだろうと親類の誰かが嘆かわしく呟いていたが、売り飛ばしてしまえばその金や、仮に家を取り壊したとしても土地もまた龍俊の物となる。都内の中心にある土地や屋敷が生み出す財産もまた莫大なものになると推測された。
神原龍俊は未成年である。よって、少なくとも大学を卒業するまでは、親類の何処かの家に養子に入ることが望ましいーー。
龍俊の元にはありとあらゆる、面識も薄いような親戚が入れ代わり立ち代わりやって来るようになった。
時に退院祝いと称して金品を持参し、寂しいだろうと猫なで声を出す。そんな彼らは必ず最後には甘い声音で同じ事を言う。
遠慮することはない。家の子になれば良い。
「なあ龍俊。お前、この家で1人で暮らせる訳じゃあないだろう。そもそも嫌な記憶が残った家だ。綺麗に掃除した所でお前も嫌なことを思い出すだろう。それは決して良くはない。だから、家に来なさい。遠慮はしなくて良いんだよ」
そんな数々の甘言と、両親を亡くした龍俊に向けての同情や哀れみで包まれた言葉の裏にはありありと本来の目的が透けて見えている。龍俊はもう時期二十歳になる。二十歳になれば立派な大人だ。龍彦の残した財産を自分の手で動かせるようになる年齢になるまでには、この青年を家に取り込まなければならない。時間の猶予の無い親戚達は次第に焦りを覚え始めるも、龍俊は誰にも首を縦には振らなかった。
ーー龍俊には、あの事件の記憶はほとんどない。覚えているのは、血に染まった応接間と、そこに佇んでいた母親の小さな背中だけだ。
それ故になのか、事件の事よりも何十倍も色濃く残る母親との思い出が家中に染み付いている。龍俊はずっと、この家とこの家で暮らす母親に護られてきた。そしてなにより龍俊を守ってくれたこの家で、自分は母が望んだ将来へと歩み続けなければならない。
数々の説得を受けつつ龍俊は、1人でも父母や、それ以前の代々が遺してくれた家に住み続けようと思っていた。
●●●
龍俊は、周囲の便宜や、龍俊自身の体の事を考慮して大学への入学を1年遅らせることになった。左の腹の傷は残ったものの、若い体は既に元の調子に回復している。しかし家の外にはスキャンダルの残滓を啜ろうとするマスコミの類がちらちらと影を見せていた為に外出するような機会は少ない。家に籠るしかない龍俊は、それでも自ずと来春の大学生活に向け、体と頭とが鈍ってしまわぬように読書をしたり自主的に勉強をする日々を重ねていた。
親類は相変わらず頻繁に家へとやって来たが、自分が置かれている状況を理解するに連れ、養子や両親が残した財産に関わる事柄は成人するまで引き延ばしてしまおうかという意識が芽生え始めている。財産が欲しいわけではなかった。ただ、この家や、自分の為に遺された物を蹂躙されてしまうような気がして龍俊の意思が次第に硬くなっていっただけの事だ。
そんな中、1人の叔父の存在だけが龍俊が唯一安堵出来る存在として傍らにいてくれた。
父の弟だというその叔父は政治の世界を嫌い、実業家を営んでいるという。権威と威厳を纏って生きていた父とは違い、叔父は柔らかく、人当たりの良い人間で、龍俊の事も小さな頃から可愛がってくれた記憶があった。親類からの要求に辟易したり、困惑したりするまだ若い龍俊の前に盾となり、両腕を広げて庇ってくれた叔父は当然のように龍俊を懐柔するようなことは言わなかった。
「お前も大変だなあ。金ってのはな、天下の回りものって言うんだ。そんなこと知るにはまだ早いのにな」
軽口を叩きながら、1人なった龍俊の体を案じて弁当やファストフードを手にやって来てくれる。どこか無邪気ささえ覚えるような叔父が、龍俊は好きだった。
師走の声を聴いた頃だった。今日も叔父が家に来ている。穏やかな性質の叔父はいつもそうするように、共に夕食を取った後に1時間ほどのんびりとコーヒーと煙草を楽しんでから帰宅することが習慣だった。広い屋敷の中、せめて龍俊が1人になる時間減らせるようにという配慮だったのだろう。
夕食後、自室で手にしていた文庫本を読み終え、龍俊は机の前で大きく伸び上がる。時計に目をやると、時刻は夜の7時半時頃を回っていた。叔父の気配はまだは家の中にある。声は掛かっていないから、きっと1階のリビングに座っているだろう。立ち上がり、2階の廊下に微かに昇ってきたコーヒーの香りに、自分も相伴にあずかろうかとゆっくりとした足取りで階下に降りた。
ふと、何かの物音が耳に入った。どこかの部屋の引き出しががたがたと開閉される音だと気付いた龍俊は、ほとんど無意識に足音を忍ばせる。両親が死んだ後、出入りの人間は全て暇を出されたか、自らこの家から去っていった。今この家には自分と叔父しかいない筈だ。その事を知らない間抜けな強盗でも入ってきたのかーー。訝しがりつつそっとリビングを覗く。背を向けた叔父が、無心に、壁に沿って置かれたサイドボードやテレビ台の下の棚を開けている様子が目に入った。
「ーー叔父さん、」
なにをしているの、口に出してみると、何故かそれは愚問である気がした。叔父は、はっとしたように振り返るもそこに浮かんでいるのはいつもの穏やかな笑い顔ではなかった。鬼気迫る、血走った目で龍俊を見下ろした。
「なに…してるの…?」
「…なあ龍俊。…いい加減に渡しなさい」
それだけを言うと、じり、と叔父は距離を詰めてくる。龍俊の脳裏には、あの夜の母の姿が浮かんだ。母もこんな風に、ゆっくりと龍俊に歩み寄ってきた。過ぎる記憶がたちまち龍俊の足を竦ませる。叔父の目が、逸らされることなく龍俊を見つめている。
「どこに隠してあるんだ?通帳も、証券も、株も、こんだけ探しても全然見つかりやしねえ。なあ龍俊。お前の部屋か?」
「…っ、」
叔父がリビングのテーブルの脇を通過する間際、そこに置かれている分厚いクリスタルで出来た灰皿を手に取った。輝く透明な淵を鷲掴みにし、ゆっくりとした足取りで龍俊へと歩み寄る。
叔父の目は、普通ではないーー。
ばらばらと落ちる灰を目にし、そこからまた叔父の形相に視線を転じた龍俊は息を飲んだ。あの目は見たことがある。あれは、人を殺そうとしている目だ。
声もなく背を向け、駆け出した。意識することなく猛然と階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込み鍵を掛け、その上更にドアに背を向けて決して開かぬように全身に力を込めた。
息が上がる。母と同じーーはっきりと殺意を持って自分を殺そうとしていた目を思い出すと全身に悪寒が走る。意識したことでがくがくと震え始めた体をなんとか制し、ドア越しに階下に耳をそばだてる。全神経を集中させたような耳に叔父の足音は聞こえて来ない。代わりに、階下で数分の間また引き出しを開ける物音が小さく届き、やがて玄関のドアが諦めたように開閉する音が聞こえた。
もう、ここにはいられない。
あの叔父は、とても優しかった。
他の親戚のように欲など1つも覗かせず、ただただ自分に親切に、優しくしてくれた。龍俊は出席することが出来なかった両親の密葬を出したのもあの叔父だと聞いている。人が死んだ後の後の諸々の、凡そ龍俊の手に負えないような煩雑な手続きも全て親身になって手伝ってくれた。親戚一同がこぞって龍俊を懐に入れようと企む中、叔父だけは静かに龍俊の傍にいて励ましてくれた。父親からの愛情を数える程にしか受けていない龍俊にとって、この人ならば父の代わりになってくれるだろうかとすら思えた人間だった。
ーーだが、どうして気が付かなかったのだろうと今になって思う。
手続きをしてくれた叔父は、おそらく最も、相続の関係で世話になった弁護士に近い人間だーー。
もう誰も信用することは出来ない。
もうこの家にはいられない。
そっとドアの前から離れ、クロゼットから高校の修学旅行で使ったスーツケースを引っ張り出した。スーツケースの更にその奥から、相続した通帳や証券、株や土地の謄本等全ての財産を取り出し、余すことなくスーツケースに詰め込む。それを隠すように数枚の衣類を押し込んでスーツケースを閉じると、普段使っているリュックサックに身の回りの物を詰め、その2つだけを手にしてそのまま部屋を飛び出した。
夜の8時を回った住宅街、龍俊は家を振り返ることなく2つの荷物だけを手にコートの裾をはためかせて最寄りの駅まで全速力で駆けた。到着した駅で肩で息をしながらようやく振り返り、自分を追う人間がいないかを確かめた後、焦りで震える指を制しながら空港行きの切符を買う。混雑する平日の電車に大荷物を持って乗り込んできた青年に対する冷たい視線を浴びつつ電車を乗り継ぎ、夜の空港に辿り着いた。カウンターに走り、今からでも乗る事の出来る航空便を尋ねる。
残っていたのは、北海道に向かう最終の便だけだった。
●●●
あの優しかった叔父が経営していた会社が倒産したことを知ったのは、札幌の地を踏んで間もない事だっただろうか。
ぼんやりと思い出した記憶を潰すように火のついた煙草の先を灰皿に押し付けた。男2人が眠っても広いベッドの上、一服終えた龍俊がもそもそと布団の中に潜り込む。今日は随分冷える夜だと眉を寄せつつ将未を見やると、1度眠りに落ちていた男は龍俊の動く気配にか鈍く瞼を上下させていた。ここにいる、と伝えるように髪をといてやる。心地よさそうに細めた目が、ふと一点を見上げて止まった。
「…ん…?」
「…雪、が、」
将未の目はベッドの向こう、龍俊の顔の向こうにある窓に向けられている。閉じたカーテンの上に僅かにある隙間から空を見上げているのだろう。振り返ると、空の色は白とも灰色ともつかない、それでいて街中のネオンの光を受けた曇ったオレンジ色をしていた。こんな空の夜は間違いなく雪が降っている。明日の朝の積雪を予想しつつ、龍俊は将未の顔を覗き込んだ。
「降ってるね。寒くない?」
「…ん、」
もそ、と動いた将未が遠慮がちに龍俊に身を寄せてくる。素肌の暖を取るように、龍俊もまた将未の体を抱え込むように腰を抱き寄せた。脳裏に、雪の積もった師走の歓楽街の風景が浮かんだ。
「…週末、外に食べに行こうか」
「…え…?」
この街で迎える冬は何度目になるだろう。
寒さにも雪にも慣れた。12月の盛り場の人出は、身を隠すのにうってつけだということも知っている。ススキノは、狭くて、広い。
驚いた将未が、それでも何処か眠気に惚けた視線を寄越す。にこりと微笑みかけ、前髪を梳いた。
「デートしよ?クリスマスも近いし」
「…デート、」
将未の目元がほんのりと紅潮するのがわかる。この男は、ベッドの上で身体を繋げている時には想像がつかない程に初心な一面がある。セックスはおろか、手すら繋いだことの無いような顔を覗かせる将未は掴みどころがないが、操縦は容易かった。驚きと、喜びと、戸惑いが混ざった将未の眼差しに龍俊は双眸を細くして囁きかける。
「将未とデートしたいな。俺」
気が付いた時には、平気で嘘を口に出来る人間になっていた。
深く雪が積もる土地を知らないことと同じように、世間のことを何も知らなかった自分は、重ねた冬の向こうに遠ざかった。目を見て相手が望む言葉を探り、甘い声音と共に囁けば他人は呆気なく手中に落ちる。そんな術を身に付けたのはいつの頃だったのか。
腕の中で将未が浅く頷く。嬉しいな。囁きがこめかみの髪を揺らし、将未は擽ったげに身を捩る。
恋人を求めたことはない。セックスは欲の発散と、ただ漠然と生きている日々の中でこなす仕事を兼ねている。
家を出る時に抱えていた筈の、死にたくはないという執着もいつの間にかどこかに落としてきてしまった。母が渇望した将来などとっくの昔に星になって消えた。
自分が死ぬ事で誰かを喜ばせるのは口惜しい。ただそれだけの思いで、龍俊はもう何年も、北の街での長い冬を越していた。
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