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生まれて初めて降り立った北の地で、龍俊はまず経験したことの無い寒さに身を震わせた。空港から出る最終電車は札幌行きで、迷うこと無く乗り込んだ。出来る限り家からーーあの親戚から離れた方がいい。そして出来る限り、人に紛れた方がいい。若干19歳の青年は本能に告げられるままに都会へと向かう。
日付が変わって既に数時間が経過してから到着した札幌駅の構内は既に閑散としていたが、外に出ると真っ直ぐに伸びるメインストリートにはぽつぽつと人影があった。大きなトランクはあたかも自分が観光客だと主張させてくれるだろうかと願いながら、冷たい風に肩を竦めつつ広い通りを歩いていく。行く宛ては無い。ただひたすら、ネオンの光が続く方へと足を進めた。
歓楽街はおろか、深夜の街に足を踏み入れた経験など無かった。龍俊は、中高共に道を外れるなどということはおよそ考えてもいないーー考える余地もない学友達に囲まれていた。路面電車の線路が敷かれた通りのその向こうは、深夜だというのに煌びやかなネオンが一面に瞬いている歓楽街だ。その時はまだ、小さな粒の雪が舞う中、きらきらと輝く灯り達に見入る余裕が残されていた。
未成年者が身分の証明するものを無くして宿を取ることは想像以上に困難だった。札幌に到着したその日に辿り着いたビジネスホテルの規約は比較的緩かったようで観光客を装うことでなんとか泊まらせてくれたが、翌日以降はとにかく宿探しに難儀した。龍俊が名を知っているような観光客向けのシティホテルはトラブルを避けてか身元があやふやな未成年の人間に良い顔はしない。龍俊の場合、身形だけは整っていることが逆にホテルマンを訝しがらせる事もあった。時には無人の受付を備えるラブホテルを見つけ出してそこで1泊することもあった。
同じように、大都市である札幌に掃いて捨てるほどある不動産屋もまた、身元が怪しい未成年者には簡単に部屋を貸してくれない。泊まった宿をチェックアウトすると、その足で駅のコインロッカーに荷物を押し込み、目に付く不動産屋に片っ端から駆け込んだものの、金があるというだけでは物事は進まないのだということをつくづく痛感させられた。始めは龍俊の身なりに愛想良く対応していた不動産屋は、最後には必ず部屋を借りるには身元の保証人が必要だと口にする。
食や、冬物のコートや衣類を買う金には困らない。宿を取る事も苦労はするがなんとかなる。幸か不幸か、龍俊の捜索願いは出ていないのか、それとも出ているとしてもこの札幌の地にまでは行き渡っていないのか、神原龍俊の身分を知る者には出会わない。自分は上手くススキノに紛れ込むことが出来ているのだろう。
だが、住む場所が無いことは次第に龍俊を疲弊させていく。怪しい青年を気前よく泊まらせてくれるような良いホテルがあったとしても、1箇所を定宿にすることで何処から親戚への足が着くかわからない。観光客の人間が何週間も同じホテルに泊まることは不自然だ。だが、毎晩異なる部屋やベッドで体を休めることは、存外心身を消耗させることだということを初めて知った。そして住む場所がなければ仕事を探すこともままならないだろうということくらいは温室育ちの龍俊にもわかっている。春から通うはずだった大学の道を家ごと放り出したことは、すなわち議員になる道も絶ったということだ。生きている限りは、ずっとこうしてその日暮らしをしながら遺産を食い潰すわけにはいかないだろう。根本にある真面目さと、身に染み込むような北国の寒さは、日増しに龍俊の中の焦りを募らせていった。
街中にクリスマスの音が鳴る夜だった。札幌の中心部は猛吹雪に襲われ、ネオンの光があるにも関わらず酷く視界が悪い。いくら雪に慣れ始めたとはいえ、吹雪の経験は多くは無い。今日もまた実ならない不動産屋巡りを終え、疲れ果てながらも地下鉄のススキノ駅のロッカーから荷物を取り出した。くたびれた体でスーツケースを持ち上げつつ地上への階段を登り切るも、そこには相変わらず真っ白な世界が広がっていた。
不意に、強烈な疲労感に襲われた。
家を飛び出してから何週間が経っただろう。数える余裕もなく、夢中で家と職探しに日々を費やしてきたが蓄積する疲労と心労が龍俊の中に積み重なっていた。とぼとぼと今来た階段を降り、何気なく駅の構内の隅を見遣る。必要以上の多幸感に浮かれる人波の中、ロッカーの隣の空きスペースにはホームレスと思われる男が1人蹲り、雪を凌いでいるようだった。
そうか、ここでも寝られるのか。
今から今夜の宿を探す気力はもう残ってはいなかった。男と対角の位置になるようにスーツケースを引き摺り駅の中を行くと、壁に反ってずるずると座り込む。なんだか今日は疲れた。そう思ってしまうと、腰はもう上がらなくなった。疲労に加え寒さが心身を蝕んでいく。
失くなった筈の命が繋がれ、再び殺されるかもしれないという恐怖から逃げる為に家を飛び出した。だが、生きていく理由はさして見当たらない。母が熱望していた将来への道が途切れたのなら、自分にはもう何も残っていなかったように思える。傍らのスーツケースには莫大な財産がある。だが、龍俊自身は、今の自分には何も持たないように感じられた。
両親や、頑丈だった後ろ盾は無くなった。おまけに自分は自分の人生に執着はしていない。〈家〉を欠いた自分には、もう何も残っていない。
ーー何も無い人生だ。
ぼんやりと考える龍俊を次第に眠気が襲い始める。重たい腰は上がらない。今日はここで眠ってしまおうか。目を閉じようとした刹那、ふと視線の気配を感じた。気だるげに瞼を持ち上げると、2人のスーツ姿の男がこちらを見ていることに気が付いた。駅員や警察の類でなければ逃げたり申し開きをしたりする必要もないだろうか。それでもこの地に降り立ってから染み付いた、いつでも逃げられるようにと意識する習慣に促され、指先で瞼を擦る。そうしているうちに、男達が自分へと歩み寄ってくるのがわかった。硬い革靴の音が龍俊の目の前で止まった。
「ーー兄ちゃん。ここでは寝られねえぞ」
「……」
声音は平坦だが、見上げた目はどこか楽しげに弧を描いていた。両手をロングコートのポケットに押し込んだ男の寒波を思わせる瞳がまじまじと龍俊を見下ろし、思案げに軽く眉を寄せている。コートの中に纏うスーツは一目で上質なものとわかる代物ではあったが、明るい灰色に合わたワインレッドのワイシャツは品がないように見えた。
「終電の後に地下鉄も地下街も閉められっからな。追い出されちまう」
「…すみません、」
「ーー兄ちゃん。腹減ってそうだな。飯食うか」
雑な物言いで投げ掛けられた。目を瞬かせる龍俊の反応を観察すると、男は緩いオールバックの髪かき上げ直して背を向ける。着いて来いとも何とも言わなかった。だが、今しがた向けられたここには居られないという言葉が頭に残っている。立ち上がり、スーツケースを手に背を追う龍俊を男はちらりと振り返っただけで何も言わずに地上へと向かう。途中、先程見かけたホームレスが眠りこける様を見てどうして自分に声を掛けたのだろうと1人首を捻った。
連れて来られたのは深夜まで開いているという焼肉屋だった。龍俊に声を掛けた男と、それともう1人、男に比べて明らかに安っぽいスーツを着込んだ人間との指し向かいの席に座るように命じられた龍俊は見るからに萎縮しているが、その目の前にぽんとメニューが放られる。
「好きなもん適当に頼んで食え。若えんだろ。いくつだ」
「…19、です」
「未成年か。観光客が宿取りっぱぐれたって風でもねえな」
メニューを開かない龍俊に鼻を鳴らし、男は店員を呼ぶと適当に酒と肉を注文する。何処か怯えたような店員の態度を見てようやく、この男はヤクザではないだろうかと龍俊は気付き始めた。
ススキノではヤクザやチンピラの類が珍しくはない。始めは明らかに柄の悪い風体の男たちの姿に面食らったが、街に慣れていくうちに次第に一般人との見分けがつくようになり、目を合わせないよう、関わり合いにならないように過ごしていくことに決めていた。だが、その人種だと思われる男たちと自分は何故こうしているのか。ますます肩を縮める龍俊に軽薄な口調で寄越される声に答えずにいることもまた恐ろしく思えてきた。
「観光…ではないです」
「家出か。進学とかそういうので出て来るには時期がおかしいだろ」
春はまだ遠い。地上の吹雪は止んではいなかった。店員が運んできたジョッキを表情も変えずに受け取りつつ男が口にした言葉に心臓が跳ねた。視線を逸らさずにいる男から逃れられる気はしない。男は30代半ば位の年齢に見える。浅く頷く龍俊に、男はふうん、と息を抜いた。
「まず食え」
男の隣の舎弟と思しき男が運ばれてきた肉を焼き始める。焼き上がった側から取り皿にぽんぽんと肉を放られるものだから口にしないわけにはいかない。家を出て以降、1人だとどうしてもおざなりになる食生活を送ってきた。久方ぶりに口にする食事らしい食事は口内を始め、体中に旨味を広げ、少しだけ活力が戻るようだった。
男が肉と共に注文した大盛りの白飯の茶碗を左手で抱え、箸を使う龍俊の姿を男はじっと観察する。テーブルの上の肉が一通り無くなると、また店員を呼んで別の肉が注文される。紙ナプキンで口元を拭う龍俊を見つめていた男は、ジョッキのビールを飲み干してから再び目を細めた。
「兄ちゃん。ホストやんねえか」
「ーーえ?」
面白い玩具を見つけた子供のように目を輝かせた男が胸ポケットから喫煙具を取り出し、茶色のフィルターを唇に寄せる。隣の男がすかさずライターの火を差し出すと、その穂先を焦がす様が道に入っているように見えた。
「働く場所ねえんだろ。モテるぜ。ホスト」
「…あの、」
色恋沙汰とは縁が遠いのは、ずっと勉強ばかりしてきたからだ。母の期待に沿う為、父親と同じ場所に立つために、脇目も振らずに将来の為に必要だとされたものを身に付けてきた。龍俊の涼しい顔立ちは同じ学校に通う女生徒を騒がせなかった訳では無いが、本人にその気が無ければ発展はしない。ひたすら真面目に生きてきた。モテたいなどと、思ったことがない。
「兄ちゃんいいとこの坊ちゃんだろ。食い方にしても話し方にしても随分お上品そうだからな。その辺のチンピラかホストかわかんねえやつよりは毛色が違う。モテるぜ」
低音ながら、明るい声音で流暢に続ける男の姿に、なるほど食事を取らせたのは面接のようなものだったのだと気がつく。龍俊が食事を取る様や、顔立ちそのものを男はじっくりと観察していたらしい。戸惑う龍俊に男は双眸を細める。煙草を咥えたまま身を乗り出したものだから、龍俊の伸びた前髪を煙が撫でた。
「…お兄さん、経営者なんですか?」
「経営者っつうか、なんつうかな、ちょっと前に東京から移動になったんだけどな、試されてんのかなんなのか知らねえが諸場のホスト1軒任せられた。早いうちに1発花火上げてえと思ってんだけどこれがまあ揃いも揃ってクソみてえな顔したホストしかいねえんだよ。ススキノったってやっぱり田舎は田舎だな」
嘆かわしいと首を振る男の言わんとすることは理解出来た。だからお前が必要だ。だが、この男は明らかにヤクザである。それを口にはしないまま、男は再び龍俊と目を合わせた。
「それが上手く行きゃあ俺はめでたく幹部候補に格上げだ。なんぼ田舎の支部でも幹部は幹部だ。俺は一国一城の主になりてえ」
「……」
「手ぇ組もうぜ。それにな兄ちゃん。なんの後ろ盾も無くススキノで生きていけると思うなよ」
これはスカウトだろうか、と思う側から脅しがかった言葉が来た。
野心と、龍俊が覗いたことの無い世界が男の中に見え隠れしている。龍俊の中で道を外れることと、今を生きていくこととの天秤がかけられ始めた。逡巡を露わにする龍俊をまた男は舐めるように見つめ、ふー、と長く煙を吐き出した。
「俺に着いてくんなら、住む場所くれえは貸してやるよ。兄ちゃん賢そうだしな。先行投資ってやつだ」
「ーー」
その一言が、天秤の片方に重く乗った。とにかく住む場所を探さなければ。札幌に着いてからずっと頭の中にある焦燥から逃れられる。決まった部屋の同じベッドで眠り、まだ数ヶ月は続くであろう寒さから逃れられる。唾を、飲み込んだ。
「……行きます」
「……」
「お兄さんに、着いて行きます」
顔を上げた。煙草の煙の幕の向こう、男は満足げに口元を持ち上げる。上機嫌を隠さない顔で箸を取ると、その先で龍俊を指した。
「拾いもんには、ツキがある、ってな」
俺ぁ安樂ってんだ。呟くように足された名に、自分もまた、名前も聞かれていないことに気が付いた。
●●●
そんな諺があっただろうかと思ったものの、その時は考える余裕は無かった。あれは残り物に福の間違いではないだろうかと思い至ったのは随分後になってからで、その時にはもう細かい事などはどうでも良くなっていた。いずれにせよ龍俊が飛び込んだ世界は、安樂という男が白だと言えば白になる世界だった上に、拾い物、というのは安樂の口癖のようなものだった。
飯でも食おうぜと呼び出されたのは将未が夜番の日を見計らったように思えたが、ただの偶然だろう。場所はススキノの中心にある焼肉屋の個室だった。安樂が初めて龍俊を連れて訪れた店よりも格段に良い店を選んでいるが、店員の案内を受け、個室のドアを叩いた龍俊は既に上座に座っている安樂にあからさまに眉を寄せて見せた。
「相変わらず焼肉ですか」
「若え奴には肉食わせるって相場が決まってんだろ。座れよ」
若いと言っても龍俊は既に三十路を超えている。安樂は五十に手が届いた筈だ。出会ってから十五年が経っているが、安樂という男はブレない。札幌にやってきたという年から着々と地盤を固めたこの男は今や豪能組札幌支部の若頭の地位に収まっている。そのポストと年季が醸し出す風格は見るからに堂々たるもので、地に着けた足元が揺らぐなどとは微塵も思っていない。
鼻から息を抜きつつ椅子を引いて腰を下ろす。喫煙具を取り出す指先を眺めていた安樂が店員に酒と肉を注文した。
「大体お前が進捗の1つも寄越さねえからだろうが。年越すつもりじゃねえだろうな。モタモタしてると休戦期間に入るぞ」
「…段取りが大事だって教えたのはアンタでしょうが。順調ですよ」
安樂が今のポストに伸し上がるその裏に、神原龍俊の姿があったことを知る人間はごく限られている。
龍俊は安樂に仕事と寝る場所を与えられた。その直後に龍俊が関東を地盤とした某議員ーー殺人沙汰のあった議員の息子だと知られたのは、安樂が何らかの手を使って調査した結果だろう。だが、安樂は龍俊の後ろにある財を頼りはしなかった。龍俊の方は生きる為の財が残ればそれで良かったのだが、そんなものを使うのは不名誉だとばかりに何も聞かず、龍俊を側に置いた。龍俊は手持ちの金を安樂が出す命令を遂行する為に使うことで、安樂への上納金代わりすることにした。
今になって若い時に盃を交わしておけばよかったと口癖のように言うが、それも本心では無いことを龍俊は知っている。〈それ〉に縛られ、龍俊の行動が制限されるのであれば意味が無い。何よりも、龍俊は極道にありがちな、たとえそれが擬似的なものであっても、〈家族〉という形を無意識に避けている。安樂は、狡猾なその眼差しで若い龍俊の中心を見抜いていた。
「それなら良いけどよ。…どうだ。拾いもんは」
運ばれてきた牛タンを自ら網の上に載せながら安樂が目で問う。咥えようとしたフィルターを唇から離す龍俊の脳裏に将未の顔が浮かんだ。
「ツキはあるか?」
「…あるんじゃないですかね。俺には。…雄誠会の方にはありませんよ」
雄誠会は組織はなんの旨みがあってあの広瀬将未という男を組に置いているのか。あれは人を殴ったことも無ければ、世間の荒波にも揉まれたことの無い人種だろう。下働きをしてきたのか、幾分かは気が利くがいつも人の顔色を伺っているような節がある。どこか薄暗い影を背負っているようにも見えるが、それは本人が醸し出す陰気さのせいなのかもしれない。自分より幾分か年下だという将未にある妙な色気の正体は〈夜の店〉で働いていたということに由来するものだろうか。
相変わらず将未の背景には興味が無いから尋ねることも無い。自分と同じく、人に言えないような過去を持っていたとしても自分には関係がない。人に怯えているような様子は無い。ほんの少しの親切でふらふらと知らない人間にも着いてくる。ーー容易い、人間だ。
「あんな無防備に他人のこと信用する人間いんのかってくらい…、チョロい」
「信用、ねえ。お前人信用しねえからな」
普通であれば面と向かって言わないような事を安樂は簡単に口にする。図星をつかれ、些か憮然とした龍俊の表情を見ては楽しげに目を細めた。
「お前が信用してんの俺だけだろ。…たまたま拾って顔と身形が良いからホストに突っ込んだガキが一端に男騙して抗争にひと噛みしようってんだ。…つくづく良い拾いもんだった」
安樂のことは、信用しているというよりも、せざるを得なかっただけだと龍俊は思っている。あの地下鉄のコンコースで自分に声を掛けた安樂がいなければ自分はきっとこのススキノで心身を消耗
し続けていた。若い頃の衝動である、死ぬには悔しいという執着だけは僅かに残っている。安樂曰く毛色の良い野良犬は、ススキノの街で安樂の保護によって生き延びて今に至っている。
「ま。普段通りにやってくれりゃ良いや。事が終わって始末したくなりゃこっちに寄越せ」
何でも良いから雄誠会を弱体化させろ。酷く漠然とした司令ではあったが、安樂は常時そんな調子だった。札幌での豪能組の地位を上げ、引いては他の組を傘下に置いて勢力の拡大を測りたい。龍俊自身はヤクザ同士の抗争など微塵も興味がないが、ことある事に豪能組が他の組織を潰したがっていることは知っている。
安樂もまた、関東の本部からの司令を受けて動いてはいるものの、相変わらず野心はあるらしい。カリスマ性も備えているらしく、安樂に心酔する部下も多いと知っているが、龍俊はあくまで外部の人間として自由に泳がされ、利用されている形になっていた。
お前は良い拾いもんだったな。
そう言われたのはいつの頃だったか。
賢くて器用で世渡り上手。身形は良く、口を聞けば品は悪くない。確かにそんなヤクザは稀有だろう。そしてなにより龍俊は、人の顔色を読むのが上手い。
それは母親が、そして龍俊が無意識のうちに植え付けた蓄積だった。母親の情が圧であると感じたことはない。ただひたすらに浴びるだけで良かった愛情を、龍俊は胸の奥底にしまい込んでいる。
「ほら肉食え。焦げるぞ」
安樂が焼けた肉を龍俊の皿に放る。この男は別段情が深いわけではないが、下の人間には親切だ。
足場を失い、放浪の身に堕ちかけた自分を拾った安樂には恩がある。生きている理由はない。だが龍俊は、死にたくはなかった自分を生かそうとした恩義だけを物持ちよく持っている。
それだけが、自分の中に残った人間としての〈情〉であると感じていた。
「…焼肉とか、食ったことねえんじゃねえか。アイツ、」
安樂が載せた肉が鉄板の上で焼けていく様眺めつつ呟く。頭の中で、将未と約束を交わした〈週末のデート〉のプランを立て始めた。
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