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ススキノのあちこちに、普段の雑多な色をしたネオンに重ねるようにクリスマスの装飾が施されている。雪の積もる中、隙間なく並ぶ雑居ビルやシティホテルからはクリスマスソングがうっすらと漏れ聞こえ、低い気温の中にも耐える事のない雑踏はどこか忙しなく、そして浮き足立っているように見えた。 ススキノは懐の広い街だと矢立煇は思っている。自分のような社会に適合しない、というよりも社会に反することを生業として生きているヤクザを始め、ありとあらゆる人種を受け入れ、どういう形であれ包み込み、または飲み込む。札幌で生まれ育った矢立は札幌の外のことはあまり知らない。だが、あらゆる人間をある意味では一手に引き受けているようなススキノにはずっと居心地の良さを感じていた。 イブの夜に恋人と約束した待ち合わせ場所はスタンダードなもので、ススキノのメインストリートに目立つ大看板の向かいにある百貨店のエントランスの前だった。周囲には矢立の他にも大勢の人間が立っていて、各々携帯電話や腕時計に視線を落としている。その合間を縫うように客引きの黒服が闊歩しているが、待ち合わせの人間が大半だと思われるこの場所ではほとんど成果は上がらないだろう。イブの夜でも寒空の下で働く青年の姿を矢立は同情するような眼差しで見やった後、周りの人々と同じように腕時計に目を向けてから軽く肩で息を抜いた。待ち合わせの時間にはまだ数分残っている。 1度視線を向けた腕時計から顔を上げると、ふと見知った男が目に入った。人混みの中、矢立と同じように身長が頭1つ抜けている為によく目立つ。斜め後ろから見る相貌は人待ち顔ではあるが、周囲のように浮かれた色はなく、どこか戸惑っているようにも見えた。自分とよく似た横顔を見つめて確かめる。広瀬将未だ。 「……、」 種は違えど、矢立と同じようにススキノで生きてきた割には街に溶け込んでいない。ともすれば初な雰囲気すら漂っているような男に、広瀬、と声を掛けようとしたものの、留まった。あの姿はおそらく自分と同じく誰かを待っている姿だろうと思い至る。自分と似たような髪型の、少し伸びた襟足を眺める矢立の中につい先日ヒデが口にしていた言葉が蘇る。 なんかアイツ、人間らしくなってきたんすよね。 ヒデは矢立よりも広瀬と接する時間が長い。面倒見の良いヒデは相変わらずマメに世話を焼いているらしいが、広瀬の方には特に成長は無いのだと苦笑していた。 広瀬が雄誠会に来てから変化したことといえば、一見では見た目だけだとと思われるが、広瀬は時たま笑うようになったという。もちろん声を上げたり、満面の笑みを浮かべるわけではない。だが、時々ほんの少しーー照れたように、困ったようにはにかむ時があるという。元々何を考えているのかわからない男ではあるが、誰しも無表情では腹のうちはわからない。そして何より、いつもしょぼくれた顔をしているよりは全然良いとヒデは喜んでいた。 人間らしくなってきた、というのは表情の有無もあるだろうが、意志の有無も含んでいる気がする。広瀬将未には自分の意志というものが明確には見られない。そんな広瀬に変化を与えたのは、きっと雄誠会ではないのだろうと矢立は思う。あのむさ苦しい事務所で下っ端として扱われているうちはただ必死に生きるだけだ。矢立の方も広瀬を気にかけてはいるが、してやれる事はせいぜい金銭的なものしか浮かばない。その小遣いも、他の人間の目もある為にそうそう多くはやれない。矢立の中には、「広瀬が贔屓されている」ことで引き起こされた事件がまだ払拭されていない。 広瀬が変化する理由があるとするのなら、それは広瀬が言うところの「同居人」の存在だろうか。プライベートには立ち入るまいという意識の元、同居人については詳しくは聞いていないが、おそらく男だろうと推測している。相手が女であればまた別の変化があるのではないかとヒデは言っていた。 広瀬が誰かと待ち合わせをしているのだとしたら、矢立にはその同居人くらいしか心当たりがない。雑踏の中、所在なく立っている広瀬の横顔が不意に小さく輝いた。 「ーー…」 歩み寄ってきた男が広瀬に話しかけている。夜の街に明るい茶色い髪の、上背の高い男だった。見るからに整った身なりの男が穏やかな顔付きに困ったような表情を浮かべる様は広瀬に遅刻を詫びているのだろうかと推測されるが、矢立はその場に立ち尽くす。広瀬の待ち合わせの相手を、自分は見た事がある。否、関わったことのある男だと言っても過言ではない。ーーあの顔は。 「ーー透乃…?」 透乃。組に入れてくれとやってきた男が名乗ったその名が偽名だったと判明したのは二年程前、豪能組が絡んだ一連の事が済んだ後だった。一歩間違えると雄誠会が潰されていたかと思われる事件が起きた後、スパイよろしく雄誠会に送り込んできた男の名を豪能組に吐かせた。矢立の中で、その名が以前、広瀬が何かの折に口にした名前と一致する。瞬間、ぞくりと悪寒が走り去った。 自分達は、間者であったその男が名乗る「透乃」と呼んでいた。だが、締め上げた豪能の構成員が吐いた名はそれとは違った。潜り込んだ男の名は。 ーー神原。 雑踏の向こうにある神原の顔を改めて注視する。矢立の視線には気付かないのか、神原はしきりに広瀬に話し掛けた後、やがて待ち合わせ相手を伴い歩き出した。2人の距離はコートの袖が重なり合う程に近い。矢立には見えない場所で、その手は握られているのかもしれない。 イロでも出来たか。 以前鞍瀬が口にした言葉が唐突に蘇る。 人間らしくなってきた。 ヒデの言っていたことに合点がいく。 恋人と言える人間が存在することで、変化が起きる人間がいるということは自分が最もよく知っている。 広瀬には恋人がいる。相手はーー。 「煇、」 ほとんど立ち尽くす形になった矢立は、傍らから名を呼ばれてようやく我に返った。よく慣れた先に視線を下ろすと、恋人である大多顕志が案ずる眼差しで自分を見上げていた。 「…顕志、」 「大丈夫?遅れてごめんね。顔真っ青だよ。寒かったよね?」 ごめんね、と詫びる顕志に慌てて首を振る。恋人は多忙な会社員ではあるが、待ち合わせには遅れていないだろう。大丈夫、と小さく落としてコートから取り出した手はほとんど無意識に顕志の手に伸びる。そっと、大切なものを手に取る手付きで取った手は酷く冷たかった。握った指をそのままコートのポケットに招くと、顕志が嬉しげに頬を緩め、布地の中で繋いだ手を緩め、指を絡めて握り返す。少し駆けて来たのか、鼻の頭が赤くなっていた。 顕志と知り合う以前は、自分は何も持たない人間だと思っていた。 家庭環境はーー例え世間の敵とされる存在であってもーー恵まれていた。父親にはひたすら将来を渇望され、子としての情も注がれ、金銭的、物理的にも何不自由なく育てられた。 だが、いつの頃からか胸の奥には常に空虚が蹲っていた。 サイズの合わない洋服を着せられ、居心地の良くない椅子に座らされている。矢立にとって雄誠会の若頭という位置はそういうものだと思っていたし、今も思っている。自分の気質はヤクザには向いていない。 それでも父親の期待に歯向かうことも逃げることもせず、目の前に用意された道をただ淡々と受け入れてきた。自分の性質と職、周囲の環境とはやがて矢立の中で歪みを起こし、いつしか行きずりの男に抱かれる事だけを発散の先として生きる人間になっていた。 見知らぬ男にどれ程抱かれても埋まることの無かった空虚を、顕志はそっと埋めてくれた。 自分の性質が変わった訳では無い。置かれた環境はもちろん変わらない。それでも、顕志に愛され、顕志を愛することで自分は無為に生きているという意識は無くなっている。 恋人が傍にいる。それは矢立の中の、膝を抱えて座っていた自分を立ち上がらせる理由となった。胸には常に暖かさが宿っている。多くは望まない。顕志が傍にいて、自分に触れてくれる。ただそれだけで十分だった。 はた、と広瀬の顔を思い出す。 さっき、雑踏の中で神原を見付けた時の表情や、神原に話し掛けられている時の広瀬の相貌は、恐らく今の自分と似ているだろう。 広瀬は、神原と。 「知り合いがいたの?」 待ち合わせた場所から歩き出そうとしながらも、意識はもう見えなくなった頭を探していた。泳いだ視線に気付いた顕志が煇を見上げる。知り合い、という単語に言葉に詰まった。広瀬は知り合いではない。組の部下だ。そして神原は。 「…いや…、」 苦い記憶が蘇る。広瀬と近い距離で去っていった神原の姿に既視感を覚える。脳裏にはまだ何か引っ掛かりが生じている。 だが、握った手の温かさに、今は考えることをやめた。 この手を持つ男を、自分達の諍いに巻き込みたくはない。 「……気の所為、だったと思う」 気の所為ではない。恋人は嘘が下手だと知っている顕志は、困ったように眉を垂れつつも何も言わずに静かに笑う。指を繋ぎ合うだけで感じる幸せを更に重ねるべく、矢立と顕志はクリスマスイブの人混みの中を歩み始めた。

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