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ふわふわと雪が降っている。 普段雪が降らない地域に1年に1度程度、気まぐれに降ってくるみぞれのような雪ではない。絵本やテレビなどで目にしては憧れていた、幼い龍俊が見てみたいと頭に描いていた丸い輪郭が感じられるような、綿毛のような雪が音もなく窓の外に舞っている。 寒さは微塵も感じられない子供部屋で目を覚ました龍俊は、母の悪戯っぽい眼差しに促されて窓の方を見遣る。灰色の雲から落ちる白いそれに、龍俊はパジャマのままで窓に駆け寄り歓声を上げた。 「お母さん!ほら!お庭も真っ白だよ!」 自分や、母が住む東京が雪に染まる様を初めて目にした。 龍俊はいても立っても居られずにパジャマの上にコートを羽織っただけの体で外に出る。不思議と寒さは感じない。大きな屋敷に相応しい広い庭に降っては積もる雪に、もう一度、わあ、と声を上げた龍俊は庭に降りる。大きな瞳をくるくると動かしながら子犬のようにはしゃぎ回っては母親を振り返った。 「お母さんも遊ぼうよ!」 低い龍俊の目線の先に、不意に、ぽた、と赤い色をした雫が落ちた。白い雪の上に小さな異物が広がる。 「お母さん?」 染みのような赤色を足元に立つのは確かに母親の足だ。庭先に居る母親の元に駆け出そうとした龍俊は、異様な空気を感じては足を止める。冷えた空間に、異様な空気が漂っていた。 「そうね。龍俊くん、」 母親は、笑っている。綺麗なワンピースを纏い、龍俊が大好きな笑顔を浮かべた母親の手には、大きな鋏が握られている。握った鋏の先からは赤い色が滴り落ちている。母親のワンピースと、手、雪を汚す、赤は白い景色の中の、異物に見えた。 「…でもね、…お母さん、龍俊くんとはもう遊べないの」 血に染った鋏を手にした母親が龍俊へと歩み寄る。龍俊の口から、叫び声が飛び出した。 「ーーっ…!!」 何かを叫んだ刹那、龍俊は現に戻された。 音を立てて身を起こし、はあはあと呼吸を繋ぐ。その音が酷く耳障りなことと、素肌のままベッドに潜り込んだ素肌に伝う汗が不快にこれ以上ない程に不快に感じる。喉を上下させてはまた深く呼吸を吐き出し、ようやく辺りを見回した。 カーテンも閉めずに眠った部屋の景色は薄明るい空の色を借りてぼんやりと浮かび上がっている。あの空の色は雪が降っている色だ。窓の縁をなぞるように覗く景色は深夜の眠りに就いた街の景色である。見慣れない景色を怪訝に眺めた間を置いてから、この部屋は自宅でも将未に貸したマンションでもなく、クリスマスイブの夜に宿泊したスイートルームの寝室だということを思い出した。 酷い悪夢を見た。 そこでようやく、自分は魘されて飛び起きたのだと気が付く。 元々眠りは浅い方だ。実家を飛び出し、札幌に降り立った頃から身に付いてしまった癖の様なもので夢を見る程に深く眠ることの方が稀だ。熟睡していたのか、という驚きと共に、夢に魘されるなどという久しい感覚に眉根を寄せた。 夢の中で見た景色を思い出す。あれは記憶の中には無い景色だ。あの鋏を持った母親はあの家の応接間に立っていたし、龍俊は庭に降り積もる雪など見た記憶が無い。眠りの中で見る夢というものが、過去や現在、現や現実が混在するものだということも龍俊は久方振りに思い出す。 普段眠らない場所が見させた夢だろうか。それとも、ホテルで泊まるという行為が札幌に訪れた頃の事を喚起させたのだろうか。ーー否、安樂の元に身を寄せた後にも、自宅以外のベッドで眠る機会が無かったわけではない。あらゆる種のホテルにも宿泊した経験はあるが、先程のような夢を見たのは初めてだった。 何故、と落ち着き始めた呼吸の中で考える。ベッドサイドの上に置いた喫煙具に無意識に指を伸ばすも、不意に自分以外の人の影が目に入った。隣で眠る男がいる。今夜、自分のベッドではない場所に眠る理由を作った男の影が静かに上下している。ああ、将未がいたのだったと意識した瞬間、妙な具合に背筋に嫌なものが走った。 ーーこの男が。 やはり無意識に目を逸らそうとするも、将未の方がゆっくりと目開けた。何かを言うより先に2、3度目を瞬かせてから身を起こし、半分惚けた眼差しで龍俊を見つめる。 「…起こしちゃった?ごめんね、」 咄嗟に拾った言葉はいつもと同じように繕う事が出来た。だが、語尾はほんの微かに震えた。弱みをみせまいとしたか、必要以上に取り繕うとしたのかはわからない。将未は不思議そうな目をしたまま緩く首を傾けた後、瞳を案ずるような色に変えた。 「…怖い夢を…見たのか?」 そっと、差し出すような声音だった。己の状況を見透かされた事に龍俊は微かに動揺する。答えを探す間を埋めるように、龍俊の頭部に暖かいものが触れた。 「ーー…将未、」 何かの重力が掛けられたかと思うと、次の瞬間には目の前に将未の薄い胸板があった。前傾する体勢と、後頭部に遠慮がちに添えられた掌の感触に、自分は人に抱き寄せられたのだと気が付く。 離せ、と呟きかけては口を噤む。将未の〈龍俊さん〉はそんな言葉を使わない。それは将未の知る自分ではない。別の言葉を探すそのうちに、将未のもう一方の手が自分の背に回った。 「…大丈夫、」 「……、」 「怖く、ないから、龍俊さん」 静かな声が、まるで自分を護るように降ってくる。しんしんと降り積もる雪のような声はそれきりで、将未の手はひたすらーーそうすることしか知らないのか、ひたすら不器用な仕草で龍俊の背を撫で続けている。 「ーーっ、」 不意に、胸に熱い何かが込み上げた。せり上がってくる正体のわからない感情が鼻の奥に届き、頭や胸の中を熱くする気配に眉を寄せる。 この感情はなんだ。 覚えのない感情はたちまち龍俊を支配しようとする。湧き上がったものは遠い昔にどこかに置いてきたものだ。感情の理由を探り、思い至る形記憶に触れては、まさか、と手で押し遣る事を脳内で繰り返した。唇を噛む。思い当たる感情から目を逸らす。 ーー今ここで、泣きたくなるような理由が無い。 あの叔父に殺されかけた時も、凍えるような寒さのこの土地に立った時も、宿が見つからず途方に暮れた時も、龍俊は泣いたことは無い。 最後に泣いたのは、おそらく母親の死を知った時だ。 あの時以降、泣きたいと思ったことはない。泣いてどうにもなるものでは無い。泣いた所で生き延びてはいけない。どこかで気付き、思い続けてきた心理が根を張り、乾いた場所で芽吹いている。 それなのに、今自分を支配している感情は遠い日の感情とほとんど同じ色と形をしていた。 「ーー…、」 将未の体に両腕を回す。何かに引かれるように持ち上げた腕に僅かに力を込めると、将未の掌が1度静止し、またゆっくりと動き出す。強く眉根を寄せ、下唇を噛んだ姿は将未には見られまい。 自らの感情の動きに呆然としつつも、龍俊は出口を見つけようと必死に思考を働かせている。 ーーこの男が悪い。 出口に置かれた結論を引き寄せた。将未の腕はまだ解けない。 この男が、寝しなに幸せか否か等と問うからだ。 押し寄せる感情を乱暴に拭い去るように意識を他所へと向けた。 このぬるま湯に浸かり、他人にを信じることしか知らないような男が、なんの疑いもなく自分を受け入れ、傍に居続けるからだ。自分はこの男のぼんやりとした空気に感化されているだけなのだろう。そうでなければ、泣きたくなる理由などあるわけがない。 それでも、この男を腕に抱き、幸せかと問われた時に口から零れかけた言葉を覚えている。 先程、眠りに落ちる前のことだ。 将未を腕の中に抱き、同じベッドに潜り込み、あたかも恋人同士のような戯れに徹していた。その最中龍俊は、殻を被るその下で、その穏やかな時間を甘受していた自分に気が付いた。緩やかに、静かに流れる時間の中、人肌の心地良さに流されるように口にしかけた肯定を既の所で飲み込んだ。 その時自分は、果たしてきちんと善人の殻を纏うことが出来ていただろうか。 将未の手が龍俊の背を撫で続けている。 将未の問いが頭の中に留まり続けている。 幸せなど求めたことはない。 そんな不確かなものは裏切りを知ったあの冬の夜、自分の生家に置いてきた。 この街で、幸せか不幸せかを考えながら生きたことはない。 ただ生きるだけだ。何も持たなくても構わない。 自分の幸せは、この街にはどこにも無い筈だ。 それなのにどうして今自分は、どうしようもなく泣きそうな程に満たされているのか。 将未の腕の中で身動ぎする。髪に触れる手の柔らかさは変わらない。 この男を早く遠ざけなければいけない。 温もりの中で辛うじて思う。次の一手を打たなければ、自分は自分でなくなってしまう。生温さを知ってしまえばこの街では生きてはいけない。安樂は言っていた。時間がない。早く将未を自分から引き離さなれけばならない。早く使って、棄ててしまえば良い事だ。 深く息を吐き出す。その後は寝たふりを決め込んで何も言わず、呼吸の為に背を上下させることだけに動きを留めた。そんな龍俊の体を将未はずっと抱き締めている。 頼りない腕の中、それでも龍俊は、将未の体に回した両腕を離すことは出来ずに夜を明かした。

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