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豪能組 安樂から受けた指令を遂行し終えることなく龍俊は年を越してしまった。
手を付け、真っ只中にある仕事を抱えたまま年を跨ぐのは性分ではない。だが、なんとなく気が向かない、という曖昧な理由を抱えた龍俊は大きく動くことを避けている。その龍俊の方から連絡を寄越さなかったせいなのか、安樂からも連絡は無い。安樂もまた、雄誠会の件はおそらく年を越すだろうと踏んだのだろう。クリスマスを過ぎてしまうと師走の日付は一足飛びに流れ、そのうち休戦期間に入ってしまった。
イブの夜の後、龍俊は仕事が立て込んでいるといつ言い訳の元に、一時ほどは将未のマンション入り浸るようなことはしていない。将未の方も年末年始は組の人間に連れ回されているのか、食事や飲み会が入ったと連絡を寄越す日が重なった。
ーー将未の顔を見ずに済むことに安堵している自分に気付いては舌打ちするような日々もまた、龍俊の歩みを鈍くさせている事に龍俊自身が自覚していない節がある。
それでもあまり会わないのも不自然だと連絡の無い日に時折マンションに足を運んでみると、将未は変わらない様子で嬉しげに龍俊に寄ってきた。
将未の龍俊への想いは盲信だ。あたかも主人と再開を果たした犬のように、だが控えめに尻尾を振っている将未を無碍にはし切れない自分に苛立ちを覚える。安樂からの指令を遂行する為にはこの男に餌を与え続けなければならない。将未を利用し終えてしまうまでは自分は将未に冷たくは出来ないのだ。ーーそう言い聞かせる一方で、将未の眼差しが決して嫌ではないと思う自分にまた苛立ちが募る。
仕事を言い訳にすることが出来ない晦日と元日、いかにも恋人同士が行いそうな、将未が喜びそうな蕎麦だのお節だのを〈演出〉してやっている最中の自分の心中を振り返っては眉を寄せる。
年末と年始。ひたすらに穏やかな時間だけが流れているような、あたかも恋人同士が行うようなーーむしろ、既に〈家族〉である者同士が作り上げるような空気がいつものリビングに満ちていた。嬉しげに箸を動かす将未を眺め、龍俊は柔らかく微笑む。見つめられていたことに気が付いた将未が照れ臭そうに目を伏せてしまう様に、思わず頬を緩めた。
将未と過ごす部屋、流れる暖かな空気は時折実家にいた頃を思い起こさせる。イブの夜に見た悪夢はあれから時々繰り返すようになっていたが、それはいつも将未が隣にいる夜で、音を立てずに起き上がる龍俊の隣で呑気に眠る将未を見る度にどこか安堵している自分がいた。
将未と同じ空気の中に居ることは嫌ではない。苦ではない。むしろ、
一抹の感情にハッと我に返っては、ぞわりと鳥肌を立たせる。そんな感情を抱く自分は果たして本当に自分なのかと疑ってはまたその場に立ち尽くす。
このままでは腑抜けになる。訳もなく思っては舌打ちを繰り返す最中、松が取れた翌日に安樂から連絡が入った。
「お年玉、」
事務所を訪れた龍俊が招かれた応接室に安樂は咥えタバコで現れた。表情は普段と変わらない。悠長にしている自分の尻を叩く為に呼んだのだろうと多少なりとも身構えている龍俊の目の前のローテーブルに、安樂が薄い書類を放った。安樂がやって来る前、応接室に飾られた剥製の趣味の悪さに辟易していた龍俊は、更に眉を寄せて書類を指で手繰る。ご丁寧に角をホチキスで留められた2枚の書類はどちらも余白の多さが目に付いた。
「お前が珍しく時間掛けてるからよ。訳ありだったらおもしれえなと思って調べたけど別に面白くなかったな」
雄誠会の件については咎められない。そもそも札幌の他の組との仲も連携もほとんど存在しない豪能組だ。安樂の方が長期戦の構えになるだろうと踏んでいるのかもしれない。軽く眉を潜めたまま覗き込んだ書類の冒頭に、明朝体の文字で〈広瀬将未についての調査報告〉という文言が打ち込まれていた。
「ーー…」
将未の過去について知りたいと思ったことはない。否、龍俊が騙したり、利用したりする人間について今まで誰一人興味を持ったことはない。いずれも目的を果たす為に、使い捨てる為に近付いた人間だ。対峙する相手の過去にも背景にも関係がない。操作するのは現在だけだと思っている。その時目の前にいる人間をたらしこみ、深みに引き寄せ、引き摺り降ろす。ただそれだけのことだ。
だが、龍俊の指は書類の上から離れない。白い紙面の上では将未が雄誠会に加入したと思われる日付と、そのすぐ下に記された〈以上〉という文字が妙に目立っていた。あとは数行だけだ。書類の中に唐突に現れた、見たことの無いカタカナの単語が妙に浮いている印象を受けた。勤務、退社、とあるからには何らかの店名だろう。
「この店は?」
カタカナに指を置き、ごく抑えた声で単語を口にする。安樂は龍俊の反応を興味深そうに眺めながら煙を吐き出した。
「風俗。そこも調べたらオーナーの趣味と実益兼ねたみてえな店だった。10代のガキ…、野郎ばっか連れてきてカラダ売らせてる」
「違法だろ」
「違法だよ」
だからなんだと言いたげに安樂が眉を顰める。この男が住む世界では、違法か合法かなどとは些細なことなのだろう。
夜のススキノの真ん中で、初めて出会った将未が口にした言葉を思い出す。夜の店。将未はここでまさか下働きのみをしていた訳ではないだろう。店の内情はわからなくとも、それくらいの想像は容易だった。
テーブルに置いたままの書類を捲る。下のページには妙に達筆な手書きの文字で将未の年齢と身長が記されていた。隅には申し訳程度の大きさに縮小された写真が添えられていて、そこでようやく龍俊が紙を手に取る。生徒手帳に貼られているような写真の中、中学生の頃と思しき将未がどこか自信が無さそうにこちらを向いている。今より更に頼りない、全ての人間の顔色を伺うような目をしているように写る少年の制服は学ランだった。
「…これだけですか」
「これだけだよ。つまんねえだろ」
広瀬将未 15歳 今春中学卒業予定ーー。
履歴書でももう少し書くことはあるだろう。この紙には生年月日すら書いていない。将未のあの、どこか掴みどころのない、というよりも実態すら怪しくなるような雰囲気の原因を垣間見た気がして、不意に龍俊の背が慄然と震えた。将未には、人が人として歩んで来る過程に築かれる背景や過去が見られない。少なくとも、この書類の上からは将未の道程が覗けない。
特筆すべき過去が無い。そんな人間は、存在するのか。
誤魔化すように喫煙具を取り出しながら顔を上げる。安樂は未だ龍俊の反応を眺めているようではあったが、平静を装うことに努めた。
「どうやって調べたんです」
これだけで、と指で書類をつつく。龍俊の反応が意外だったのか、安樂がひょいと片眉を持ち上げた。
「別に。お前から広瀬の名前と雄誠会の部屋住みだって報告だけは上がってたからな。雄誠会の下のに当たって口割らせたらその店にいた事しか知らねえって言うから今度はそこに書いてある店に顔出してみだけだよ。広瀬って奴の書類見せろっつったらもう要らねえってその紙1枚寄越して来た。店に来る前にいた施設に提出させた経歴だってよ」
龍俊が狙いを定めた人間がカタギであるのならともかく、他所の所属の人間を使う際には面倒が起こらないようにしておけ、とだけは安樂に言われている。将未について告げたのは龍俊にとっての申し送り事項にしか過ぎない。
問わず語りに安樂が続けるには、店の賀川というオーナーに将未の名を出した時の反応は薄いもので、アイツどこかで生きてんのかとすら呟いていたという。将未の所属が判明した当初は、その風俗店が雄誠会の管轄であることが判明した為にそこからの繋がりで雄誠会に移籍した男であったと睨んでいたがそこはハズレた、と安樂は悔しがる素振りを見せた。
「オーナーが言うにはあの店はホゴ施設だかヨウゴ施設だかから斡旋、っつうか売り飛ばされて来たガキ使ってるらしいからな。広瀬将未もそんなとこだろ」
「ーー…」
以前将未が口にしていた年齢を思い出す。
15の時にススキノに売られてきて、それ以前は施設で育った。たったそれだけの経歴だ。だが龍俊の中で、何がが腑に落ちた。
世間を知らない将未。
世間を知らないのではない。世間の汚れた部分しか知らないのかもしれない。
更に遡り、施設に入ることになった経緯を知る人間はいるのだろうかと思うも、それは将未自身が知っているのかどうかも怪しい事柄に思える。
将未は何も知らない。
何も知らず、何も持たないまま、違法風俗店という澱んだ空気の中に生きてきたにも関わらず、相反する無垢さをさらけ出しながらススキノという狭い世界に生きている。
ススキノで生きるにも、仮にススキノを飛び出すにも、将未はあまりに何も持っていない人間だ。
じくりと胸が痛む気配がする。
それは悪夢を見てうなされたあの夜、将未に抱き締められた時の感覚に近い。
世間の汚れた部分しか知らない将未。
ーー自分は19まで、きっと世間の綺麗な部分しか知らなかった。
家を飛び出し、ススキノに降り立った夜から、自分はある意味世間から隔離されて生きてきたのだと知った。人を信用することを始めとした何もかもを放り出し、それと引き換えにするようにススキノであらゆる世間を知りながら龍俊は再生した。
将未もある意味では隔離されて生きてきた。だが、自分とは見る景色がまるで違ったはずだ。人間などとうに嫌いになっていてもおかしくは無い。人を信用すること等知らない可能性すらあるだろう。
それなのにどうしてーーあんなに無垢に人を信用し続けているのか。
馬鹿じゃないのか、と内心で悪態をついた。人を信用することは簡単だろう。だが、自分をその境遇に至らしめた人間を恨みながら生きていくともまた、簡単なことだというのに。
「…安樂さん、」
無性に腹が立つ。苛立ちが収まらない。何に対しての苛立ちなのか。純粋そうな将未の眼差しが脳裏から離れない。あの目に苛立つ理由は。
書類を指で弾いた。安樂の視線を受けながらも、目を合わせることはしない。
「…この店、…潰せますか」
「ーー出来ねえことなんてねえよ」
どうしてお前は誰も憎まない。龍俊にとってはまるで意味の無い憤りが渦巻き、収まらない。口をついて出た言葉に、安樂が声を潜めるも語尾は楽しげに上がっている。
「…お前が俺に頼み事すんの初めてだな」
「…頼み事なんかじゃねえよ」
任せとけよ。忌々しげに呟く龍俊に対して、安樂の目には喜色が滲んでいた。
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