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鞍瀬が訪れる日はいつも気が重い。 矢立は鞍瀬が嫌いではない。気性も生き方も異なるあの男のことは苦手でもない。自分と正反対の性質を持つ鞍瀬が組にいる事が頼もしく思う時もあるし、個人的にも信頼している。だが、鞍瀬自身が自分に対して悪意、というよりも嫌悪感を抱いていることは多少なりとも感じている。その原因も自覚している。それ故に鞍瀬と会う時はいつも気は乗らないのだが、今日は事の他気が重い。 支部で起こった件は支部で話すのが筋だと思い支部に来てもらうように鞍瀬に連絡を入れたが、要件を本部に聞かせたくはないというのも矢立の本音にある。相変わらずの及び腰だ。 私室にて、昼食を取った後にもう数回目の溜息を吐いた矢立の耳にノックの音が飛び込んできた。鞍瀬が約束の時間に正確であるのは相手に弱味を握らせない為だろうと矢立は推測している。はい、と呟くような返事すら待たずにドアが開き、鞍瀬が想像通りの仏頂面で現れた。 「ススキノの件か、」 挨拶も無しに口を開く。年始の挨拶などは三が日のうちに済ませていたとはいえ、矢立としては少しで構わないから話題を遅らせる余地を与えて欲しいと反射的に眉根が下がる。 だが今日はそうはいかないのだと眉を垂れたまま頷くと、鞍瀬は定位置のソファーの背に臀を下ろした。鼻から溜め息を吐き出すついでに、咥えていた煙草を唇から離した。 「大体電話で聞いた通りなんだろ。わざわざなんかあんのかよ」 不機嫌さを顕にしているのは呼びつけられた所為だけではあるまい。昨日の矢立の電話口の声に嫌な予感を察知したからだろう。鞍瀬には野生の勘のようなものが備わっているに違いないと矢立は思っている。 賀川という男がオーナーを勤めていた店が警察の出入りを受けたのは年が明けて7日も経っていない週末の夜だった。 未成年である少年達に身体を売らせているという通報を受けた賀川は、そのまま至極真っ当な理由で逮捕され、店から諸場代を取っていたーー店を管轄していた雄誠会の支部にも形ばかりの捜索が入った。別段初めてのことでは無い為に警察が押し入って来たところでさほど動揺はしない。警察の方もススキノの違法風俗店の摘発は慣れたもので、若頭である矢立が直々に顔を出し、店に関する書類を全て素直に提出すると、物々しくやって来た捜査員はものの数分で帰って行った。 警察に尋ねたところによると、その夜店にいた〈従業員〉は保護され、店舗は閉鎖されているという。空き店舗になったその場所に絡む物理的、そして行政的な片付けといった雑務は残り、それらの始末の所在を自分達と警察とが押し付け合うという仕事が残っているものの、ともあれ雄誠会は諸場を1つ無くした。それだけの、話だった。 「正直渡りに船だったろ。違法の店管轄に置くような危ない橋なんてお前1番嫌いじゃねえか」 「…ええ、」 「あれだろ。広瀬の奴がいた店だろ?」 鞍瀬が良いのは勘だけではない。記憶力も良い。何気なく口から零れた名前に矢立が一瞬肩を揺らした。指に留めていた煙草を咥えつつも、鞍瀬はそれを見逃さない。 「まあ今更な感はあるけどな。ガキ使って商売してんだ。むしろ長く続いた方だろ。サツに垂れ込んだの広瀬じゃねえだろうな」 鞍瀬の声には冗談の色が混じっている。 広瀬将未が、雄誠会の威を借りて事を起こすような性質ではないことを矢立も鞍瀬もわかっている。 かつて自分が所属していた店で矢立と顔を合わせたことを広瀬は覚えているだろうか。店が雄誠会の管轄であることを知っていて、それを覚えていたとしても、そもそも広瀬は過去に頓着していない。あの店やオーナーである賀川を恨んだり憎んだりするようなエネルギーは広瀬には備わっていない。憎しみは時に生きる原動力になるというが、広瀬は怒りという感情から遠い男だ。 過去を振り返らない、というよりも、広瀬将未という男は出会ってから今までずっと、今を生きることで手一杯という印象がある。 「…いえ。…広瀬ではない、そうです」 「言いたいことははっきり言え」 片眉を持ち上げる鞍瀬の声が尖った。長く吐き出された煙が立ち上がる向こうで鞍瀬の目が矢立を凝視している気配がある。視線を泳がせた矢立が顔を上げ、鞍瀬と目を合わせた。視線の色に億劫そうにソファーから降りた鞍瀬が矢立の机に歩み寄って耳を傾ける仕草を見せる。今日は予め人払いをしてある。鞍瀬の他に誰も訪れることはないが、矢立は声を潜めた。 「……警察からタレコミ入れた相手を聞き出したところ、…豪能組から、と、」 「……おい、」 音を立てるように鞍瀬の顔色が変わった。話が変わってくるぞ。口の中で呟き、灰皿を指で引き寄せる。気が付くとフィルターの際まで吸っていた煙草の先の火を乱暴にもみ消した。 「広瀬からの方がまだマシだろ。豪能だとしてもなんの為にだよ」 雄誠会の諸場とはいえ、ススキノの違法風俗店1件潰したところでなんの得にもならないだろう。ススキノは諸場の取り合いだ。 豪能組との火種はあったとはいえ、過激派の安樂にしては時間を掛けすぎているという印象は確かにあった。豪能組の動きの鈍さに、正直なところ鞍瀬自身も火種は消えたものだと思いかけていた。頭の隅にはあったものの、矢立の口から出た単語はあまりに唐突だった。 「ーー…昨年のクリスマスイブの日に、」 渋々、と言った声音で続ける矢立の様にみるみるうちに鞍瀬の眉間に皺が寄る。話を逸らすな、と遮られるより前に、矢立がじっと鞍瀬を見上げた。 「広瀬が、…透乃ーー神原龍俊と一緒にいるところを、見ました」 1拍の間が開いた。鞍瀬が大きく瞠目した次の瞬間にはもう矢立のネクタイの根元に指が伸びていた。どん、と音を立てて片膝を机の上に乗り上げ、ほんの微かに緩めたネクタイを握り締める形で矢立の首元を締め上げる。顎が上げられた矢立は悲鳴こそ上げないが、苦しげに表情を歪めた。 「ーーおい煇。…てめえには学習能力ってやつがねえのか」 階下から物音はしない。矢立の命令は絶対であるから、多少の物音では人は来ないだろう。ヒデ辺りはドアの向こうで耳をそばだてている可能性はあるだろうか。明後日の方向に意識を向けつつ、矢立は目を逸らす。概ね予想していた通りの反応だ。むしろ殴られないだけまだマシだ。今日の案件で鞍瀬が怒らない筈は無いし、手が出ない筈は無いと矢立は始めから覚悟を決めていた。 「透乃でも神原でも知ったこっちゃねえけどな。…あの類はどうしようもねえクズだぞ」 「ーー…」 額に青筋を浮かせた鞍瀬が矢立の首元を締め上げる。多少の加減はしているらしいが、指先に籠る力は緩まない。物言わぬ矢立に益々苛立ちを募らせたのか、舌打ちした後、鞍瀬が突き放すようにシャツから指を離した。 ーー一昨年の夏の終わり、1人の組員が薬物の所持と使用の罪で逮捕された。 逮捕されたのは甲野という若い組員だったが、構成員となった当初からヤマっ気が強く、勝気な性分や喧嘩の腕だけで成り上がってやろうという気概を隠すことのない男だった。ただの平の組員ではあったが、ともすれば幹部にも成りえた男であったと矢立は振り返る。 しかしそもそも雄誠会は薬物の所持や使用を一切禁止している。初代の組長ーー矢立の祖父にあたる男が戦後に手にしたヒロポンを晩年まで引き摺り、それが死因となった為に息子、つまりは二代目が教訓として組に薬物を入れることを良しとしなかった。周囲の組織には薬物を扱わない腰抜けの組として嘲笑の対象になることも少なくは無かったが、それでも禁止は禁止である。当然その事は札幌市内の刑事課にも知られている。 有事が起きた際になんでもいいから組の人間を逮捕したいと思った時に薬物の所持は手っ取り早い。だが雄誠会に関してはその線からの逮捕には繋げられないというのが道警内での不文律であったが、雄誠会にとってはそれが仇になった。 甲野が逮捕された後、全くのノーマークだった雄誠会からの薬物が出たということで、手柄を上げたい刑事の一部が色めき立った。支部と本部の両方に執拗な家宅捜索が入り、組員達全員が薬物検査の対象とされた。結果としては薬物を使っていた人間は甲野の他にはおらず、雄誠会は痛くもない腹を探られた形になる。そしてその際、組の中にある他の細かな、鞍瀬に言わせるとつまらない違法行為を細々とつつかれた上に、そちらに矢立や鞍瀬といった上層部の人手を取られている隙を狙って襲撃を掛けてきた豪能組との小競り合いが頻発した。 ーー一連の騒動のきっかけとなった甲野が、何故薬物に手を出したのかは今となってはわからない。収監された時には既に立派な中毒者で、身柄は今は札幌にはない筈だ。 その男に薬物を握らせたのが、当時雄誠会に籍を置いていた神原龍俊だった。 前科がある、とやってきた神原は透乃と名乗り、組に入れてほしいと頭を下げた。矢立は基本的には誰の過去にも触れることはない。ただ、務めを終えて出所してきたわりには随分毛色が良いなとは感じていた。ホストをしていたと言うから小綺麗なのはその為だろうと感じた。もっと言うのなら、神原の印象はそれくらいだ。目立たず、いつも誰かの後ろにくっついて歩いている。その誰かがやがて甲野一人になり、気が付いた時には2人は親しげにつるむ仲となっていた。 雄誠会ーー甲野が薬物に絡んでいるというリークを警察にもたらしたのは透野なのではないか。その推測が生まれたのは、透野の本名を割り出した後だった。 「ヒトに付け込んで懐入り込んで引きずりこむのが常套手段か。クソが。」 鞍瀬にはヤクザらしく手段を選ばない節と、この男なりの正義感がある。何よりも曲がったことの嫌う鞍瀬は生来の口の悪さに歯止めがかかっていない。 「てめえもてめぇだ煇。大事な情報てめえ1人の腹に収めて解決しようとしていっぺんしくじってんのもう忘れてんのか。ーーで?……出来てんのか、もう」 別の箇所から鳩尾をつかれたような感覚に陥り、黙ったままの矢立に痺れを切らす形で鞍瀬が口を開く。意味もなく舌打ちし、忙しない動作で煙草を抜いた。収まらない憤りを逃す為に話を逸らしたような感覚があった。 矢立が特段色恋の機微に敏感なわけではない。だが、同性を性欲の対象とはしない自分よりは詳しいのだろうと鞍瀬は勝手に決めつけている節がある。煇の脳裏にイブの夜の街に消えた背が蘇る。近過ぎる程に寄り添った腕は、止める手立ても無く人の波に消えていった。 「…おそらく、出来ているかと」 「ワンパターンなんだよ」 憎々しげに吐き捨てた唇に自ら白筒を咥えさせた。フィルターを噛む横顔を矢立は困り果てた表情で見上げている。 薬だ警察だのというのは、ただの目眩しだったのだろう。 それが神原の件がようやく片付いた後の鞍瀬の見解だった。 雄誠会を弱体化させる為に、あるいは崩壊させる為に豪能組は神原を仕向けた。やり口はどうでもいいから雄誠会をつつけ、とでも言われていたのではないかと矢立と鞍瀬は推測した。 豪能組の子飼いの神原が雄誠会に潜り込み、中にいた取り入り安い組員に目を付け、ただならぬ仲を結び、薬を持たせた。その薬でおびき寄せた警察が雄誠会をざわつかせ、内部がごたついている間を狙って豪能組が攻めてトドメを刺す。筋書きの陳腐さが気に食わないと鞍瀬は悪態をついていたが、実際の所は危うく大規模な抗争にもつれ込み掛けた。 抗争は小さな火種が重なる方がタチが悪い。あちこちで点火した火は積み重なっては大きな火となり、やがて大規模な爆発に繋がる可能性を孕む。そうなる前に、そして世間の風当たりを考慮するという体を取った雄誠会の会長が安樂と直接会って手打ちとし、ようやく事態は収束した。虎の子である会長を引っ張り出してきた豪能組の態度もまた鞍瀬の逆鱗に触れた形になったのだった。 「…うちに来るより先に豪能と繋がってたと思うか、」 広瀬のことである。また目を伏せてしまった矢立を見下ろす形で鞍瀬は詰問する。矢立はデスクの上で組んだ自分の指をじっと見つめて考えた後、ようやく顔を上げて首を横に振った。 「……可能性は、低いと思います」 「で、どうすんだお前」 矢継ぎ早に問いが降ってくる。今度は明らかに言葉に詰まり、視線を泳がせる矢立の様子を眺めながら鞍瀬は煙の息を吐き出した。 「お前が拾って来たんだぞ。言ったよな。拾ったもんは最後まで責任持てって」 「……、まだ…事は起きて」 言い終える前に、デスクが激しい音を立てて揺れた。全身を跳ね上げた矢立の目には鞍瀬のよく磨かれた革靴の先がある。スーツに包まれた鞍瀬の長い足の先は、矢立の机の縁に載せられていた。 「…お前のその甘い判断が俺は死ぬほど嫌いなんだよ」 額には再び青筋が浮いている。低く抑えた声ではあるが、鞍瀬の沸点は最高潮に近い。机を蹴り上げた足を降ろし、煙草を咥え直しながら忌々しげに矢立を見下ろした。 「事が起きてから動くのか?で、どうしようもなくなってまたオヤジ引っ張り出すのか?ぶっ殺すぞてめえ」 「……」 反論が出来ない。だが、矢立の頭の中には広瀬の顔がちらついている。広瀬のあの、頼りのない、なんの後ろ盾も持たない眼差しに軽く眉を寄せた。 「……お前、…広瀬と自分が同じだと思ってんだろ」 「ーーー…」 矢立がごく微かに瞠目する。 ずっと、頭の中に在ることを口にされた。 矢立は、広瀬を拾ったあの夜のことを鮮明に覚えている。 凍えるような夜の街で、道端に蹲り、なんの躊躇もなく眠りに就こうとしていた。後にも先にも未練は無い。手にするものの無い代わりに、空虚だけを抱えてゆるゆると死んでいこうとするようなその姿が痛々しく寒々しくてーーーかつての自分と、重なった。 「言っておくけどな、お前は広瀬とは違う」 鞍瀬の眼光が容赦なく矢立を射抜く。有無を言わさない、矢立に向かって言い聞かせるような口調は意識して発しているように思えた。 「……」 「広瀬は野良だった。お前が野良だったことは1度もねえ。広瀬のことなんかわかんねえよ。けどお前が恵まれてんのはわかってんだろ。広瀬に同情してブレてんじゃねえよ」 正真正銘何も持っていない広瀬と、自分の意志とは他所に、全て恵まれた環境にある矢立。 例え胸にあるものや、纏う空気が似通っていたとしても、生きてきた経験が互いを分かつ。 広瀬は何も持っていない。 それが広瀬に対する矢立と鞍瀬の認識だった。 矢立は広瀬にシンパシーを感じで拾ったのだろう、ということは鞍瀬は始めから見抜いていた。初めて広瀬に会った時、似ている、と感じたのはその為だろう。矢立にその自覚はあったのかはわからない。 ただ、広瀬に同調し、引きずられてブレなければそれで良いと判断していた。1度拾ってきた犬を元の場所に返してこいと言う程鞍瀬は野暮ではない。 なにより、どれほど広瀬に共感し、同調したところで広瀬の思いは矢立には測りきれないだろう。それが鞍瀬の見立てだった。 言い当てられ、真理を突かれ、矢立は半ば呆然と佇んでいる。その姿に今日はお開きだとばかりに鞍瀬が短い髪を掻いた。咥えタバコのままポケットに手を突っ込み、矢立に背を向ける。 「捨て犬みてえな顔したって俺は助けねえからな。大事になるまえになんとか片付けろ。それとな、支部の揉め事本部に持ってきたらお前は本気でぶっ殺す」 「……はい、」 辛うじて発した声に、鞍瀬は盛大な溜め息を吐き出してから必要以上に乱暴に開閉したドアの向こうに姿を消した。

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