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昼過ぎから続いている猛吹雪から文字通り逃れるようにマンションのエントランスに駆け込んだ。振り返ると、事務所から将未を乗せてきてくれたヒデの車がテールランプを数回点灯させつつ建物を離れていくところだった。 久方ぶりに前もよく見えないような吹雪の中、帰宅の途に着こうとした将未を見かけたヒデに誘われる形で家まで送って貰った。極端に低い車高のヒデの車は随分古いようだったが、大切に乗っているらしく意外にも中も外も綺麗に保たれていた。 そのヒデが、去り際にすげえ所に住んでるな、と感嘆の声を上げたマンションの中、将未は腕の時計を見遣る。濃紺の文字盤に細い銀の針が時を刻む、銀色の金属ベルトのシンプルな時計は、クリスマスの時に何も要らないと言った将未に龍俊が選んだプレゼントだった。 傷1つ付けないように大切に扱っている時計の針はいつもの帰宅時間より少し早くを指している。今日は龍俊はいるだろうかとエレベーターに乗り込む将未の気持ちは既に踊っている。早く龍俊に逢いたい。機械から降りた将未の足は無意識に小走りになった。 「ただいま、」 ドアの鍵は開いていた。すっかり習慣として身に付いた挨拶を口にすると、将未の鼻腔が良い香りに擽られる。今日の夕飯はなんだろうと想像しつつ靴を脱いでる最中、足音が近付いてきた。 「おかえり。…今日、早いね?」 チノパンに厚手のセーターを着込んだ龍俊がいつものように将未を出迎える。室温と同じく温かな笑顔を向けられ、将未もまたほんの少し頬を緩めた。 「…ええと、…送って、貰ったから」 寄り道を知らない将未の帰宅時間は概ね大きくずれ込むことは無い。不思議そうな眼差しで首を傾げる龍俊に小さく答えると、龍俊の片眉が極僅かに揺れた。 「誰に?」 「ヒデさん…、」 ふうん、と漏らした龍俊がくるりと将未に背を向ける。中へ入るように促す背の空気に今まで感じたことの無い雰囲気を感じ取った将未は微かに戸惑いながら龍俊に続いてリビングへと歩む。室内には、スープの良い香りが満ちていた。 「…あの、…龍俊さん…?」 キッチンに立つ龍俊の横顔がどこか拗ねたように見える。少年のように唇を尖らせて手元に視線を落とす姿に将未は狼狽した。なにか気を悪くさせることを言っただろうかと眉を垂れるも心当たりが見当たらない。戸惑うままにぼんやりと立ち尽くす将未にちらりと視線を寄越してはまた逸らし、龍俊が口を開く。 「……そういえば、将未とドライブとかしたことなかったなって」 ぼそ、と落ちる声に将未は目を瞬かせる。年甲斐もなく拗ねた事態度を取ったことにバツが悪くなったのか、龍俊は軽く眉を寄せた。 「俺だって持ってるよ。車」 「……」 所有していない方がむしろ不自然だろう。思いもよらない龍俊の言葉に将未はその場に足を留めたまま言葉を探す。まだコートも脱いでいない将未を見やった龍俊がはっと我に返ったように手を止めたかと思うと、困ったように眉を下げて笑い、歩みを寄せた。 「だから、今度俺の車にも乗ってね、ってこと」 「……車…、」 誰かに嫉妬されるなどという感覚は知らない。だから将未も戸惑いのままに曖昧に頷く。反応を見届けた龍俊が将未の腰に緩く両腕を回して体を密着させた。 「大体さあ、簡単に人の車に乗っちゃダメだよ。車って2人きりだったんでしょ?将未はほいほい人を信用し過ぎなんだよ。なにかされたらどうするのさ」 僅かながらに含まれる詰問の口調に将未はまた困惑する。ヒデの車で送って貰ったことがーー確かに車内では2人きりではあったが、賞味10分程度の時間がそれほどいけないことだっただろうかと眉を垂れ、しょんぼりとした悲しげな目で龍俊を見上げる。ごめんなさい、と動こうとした唇がおもむろに、淡い口付けに塞がれた。 「…ね、もし、…俺がものすごく悪い奴だったらどうする?」 「ーー悪い、」 将未はぱち、と目を瞬かせた。 唐突な問いは、そんなことがあるわけないという着地点しかない。 何も無く、路頭に迷いかけた自分に衣食住を与え、優しい手や眼差し、そして愛情を与えてくれている龍俊が悪い人間である筈はない。悪い人間というのはおそらく、少年期に自分や施設にいた少年たちの身体を欲望のままに貪っていたあの住職や、そんな少年たちの身体を売らせて商売をしているような加賀のことを指すのだろうと将未は思っている。龍俊はそんな人間達とは違う。 自分は世間のことは何も知らない。ススキノの外のことも、外の人間のこともほとんど知らない。その上、自分は龍俊のことに関しても知らないことばかりだ。ーーそれでも、龍俊は悪い人間なんかではないだろう。将未の中に根を張った思いが龍俊の問いへの答えを明確にする。龍俊はきっと、自分を拾ったあの矢立と同じくらい悪い人間ではない筈だ。 じっと覗き込む瞳を見つめ返す。何故そんなことを言うのだろうと悲しげに眉を寄せてからそっと口を開いた。 「龍俊さんは、…悪い奴なんかじゃ、ないと思う」 「……、」 どうしてそんなことを言うのだろう。思えば思う程に悲しさが募った。この瞬間の温かさが偽りだとは思えない。 それでも、もし偽りだとしても。 将未が顔を上げる。下から覗き込むように、龍俊の反応を窺うように視線を重ねた。 「…もし、…龍俊さんが悪い人でも、…俺は、龍俊さんといたいと思う、…と思う」 確かめるように落ちた言葉に、龍俊が小さく目を見張る。憂いながらもはっきりと呟いた将未を見下ろし、何かを考えるように視線を泳がせた龍俊は苦い笑みと共に将未の体から両腕を離す。 「龍俊さん?」 答えは間違っていただろうか。不安に襲われる将未は龍俊に背を向けられた。触れようとした指を伸ばしかけては躊躇う。片手を腰に当てた龍俊が右手を持ち上げ、くしゃ、と髪をかき上げた。 「…ほんと…、…ばかな奴だなあ、お前、」 「……?」 口の中で呟いた言葉は将未には届かなかった。それ故に、その声音に微かに混ざる温もりの色と、再びキッチンに向かう為に後ろ姿を晒した龍俊の目元の笑みには将未が気が付くことは無かった。 〇〇〇 外はまだ猛吹雪が続いているらしい。 肩に載せたままの雪を払ったのか、矢立の私室に戻ってきたヒデの手が濡れていた。駐車場から事務所のドアまでの僅かな距離の間も容赦なく吹き付ける雪に顔を顰めつつ後ろ手にドアを閉め、姿勢を正す。待っていた矢立の表情はいつもに増して陰鬱だった。 「広瀬のヤサは駅前通りのススキノ寄り、大通りから1本入ったとこっすね」 建物の写真は撮ってきたものの、悪天候の中であるから辛うじて外観だけを収めてきたとヒデが眉を寄せた。矢立に近寄り、目の前にスマートフォンの画面を翳す。画面の中はヒデの言う通りに薄暗かったが、点々と灯りの点る窓が並ぶ、相当背の高いマンションだと思われる建物が写っていた。 「なんて言いましたっけ。今流行りの…タワー…タワマンでやつですか。玄関は多分オートロックっす。…正直広瀬みてえな奴が住めるような場所じゃないと思います」 吹雪にかこつけて愛車で送っていった建物の中に入っていく広瀬の後ろ姿は浮いていた。どこか遠慮がちに背を丸めていた広瀬は、それでもなんの淀みもなくエントランスのパネルに向かい、鍵を差し込んで自動ドアを開けた。足取りに微かな軽さがある様を確かめてからヒデは雪の中に愛車を駆り、建物を離れていった。 「…広瀬、なんかあったんすか」 広瀬の住んでいる場所を把握してくれ。 矢立の唐突な司令をヒデは早いうちに遂行した。それが自分の役割だと思っている。だが、当然疑問は抱く。ヒデは相変わらず広瀬の面倒をよく見ているらしい。年末年始などはあちこちに連れ歩いては酒を食らっていたと聞く。大人しい広瀬は組の中では未だに異質だ。ヒデにとっては守るべき弟分のような立場なのかもしれない。 そのヒデが躊躇した後に投げた問いに、矢立が細く鼻から息を抜いた。 「……もう少ししたら、…話す、から」 広瀬の件ーー正確には、広瀬と神原の件は現時点では自分と鞍瀬しか知らない。事が起こる前に下に話してしまうことで不要な波風を立てることを避けたかった。 ヒデは何も言わずに浅く頷く。余計な口をきくなと睨まれてもおかしくは無い局面でもただ静かに返す矢立の性質をヒデは把握している。矢立が話すと言うからには、いつかは聞くことがあるだろう。 ありがとう、とデスクの上に茶封筒を滑らせた矢立にヒデが不服そうに片眉を上げた。小遣い欲しさに従った訳では無い。他でもない、慕い、従う矢立の命令だから行ったまでだ。だが、突き返すことで矢立が困ることもこの部下はよくわかっている。真面目な目をした上司に、仕方ないと鼻から息を抜いたヒデはどこか照れ臭そうに封筒を手にしてから頭を下げ、お疲れ様です、と残して部屋を出ていった。 矢立もまた、ヒデの背を見送った後にヒデよりも数段深い溜め息を逃しながら椅子の背にもたれかかった。 ーー昨年の夏、雄誠会の本部に転がり込んできた若い部屋住みが絡んだ小さな騒動があった。 支部ではなく直接本部に入れてくれと押し掛けてきた男の1件は結果的には組の体制には影響しない些細なものではあったが、その件の全ての始末を付けたのは他でもない鞍瀬だ。 若い部屋住みは鞍瀬に惚れ込み、懐いていた。部屋住みが絡む、と聞いた鞍瀬の脳裏に浮かぶのは恐らくその件だったのだろう。まだ年若かった青年への処分を下した鞍瀬の胸中は矢立には計れない。 ーー矢立は、その部屋住みが絡んだ騒動の原因を先に掴んでいた。しかし、その時の矢立は情に絆される形で自分の腹の中に収めた。だが、それが結果的に鞍瀬がその部屋住みを破門する結末に至ったのだ。 その一件は、あの何処にも陰りのないような一本気な鞍瀬の中にほんの僅かな憂いを遺していると矢立は見ている。 組織に新しい人間を入れると、どうしても違う風が吹き込み、その人間の過去やトラブル、人間関係などが起因となる騒動が往々にして起こりがちになる。ヤクザになりたい人間など間違って来ていない奴などいない、というのも鞍瀬の言だ。 かといって人数やシノギが揃わないことで組が先細りになることは避けたい。昨今の風潮や時流もあり、どうしても来るものは拒まないという形になる。雄誠会のように他所とのトラブルも少なく、安定した組織でさえここ数年は人員と資金が十分にあるとはいえない状況にある。 1度組に入ると、古株の構成員ほど組に迷惑をかけまいと言う意識が働く為に余計な事は起こさない。危ないのは、入って日が浅い部屋住みや、末端の人間だ。 そういった意味では、あの広瀬将未はその点での心配は無用だと感じていた。 広瀬は、鞍瀬の言うような内偵の類ではないだろう。 約1年の間、広瀬の姿を見てきたがあの男はそんな器用な真似は出来ない。自分に似ているからそう感じるという面も否定は出来ない。それ以前に広瀬は、何もかもーー生きる様さえ不器用そうで、そのくせ誰でも人を信用するような歪みがある。時折人の顔色は伺っているが、それはスパイのような目はしていない。組の外で他の誰かと繋がりを持っているような気配も皆無だった。 なにより、矢立が拾ったあの夜の広瀬は間違いなく何も手にしていない男だったと思う。 鞍瀬の言葉を思い出す。 お前は広瀬が自分と同じだと思っている。 ーー雄誠会の跡継ぎとして生まれ、何もかも恵まれた環境に生きてきた。 そんなぬるま湯のような人生の中、何にも期待せず、何も持たず、生きるようになっていたのはいつの頃からだったか。 いつも何処かで空虚を抱え、埋めてくれる何かを探しもせずに現状を受け入れ、諦めていた。 胸の底を埋めてくれる誰かを探しながら生きてきた自覚すらなかった。 そんな風に生きていた矢立自身もまた、霙の降る冷たい夜に後に恋人となる男に拾われた。凍えるような寒さの中、蹲る自分に向かって、未来の恋人である男はそっと手を差し出してくれたーー。 広瀬を目にした時、その夜のことを鮮明に思い出した。 独り街に捨てられた広瀬。 痛くて、寒くて、寂しい。膝を抱えるあの姿はーー自分と同じだと、思ったのだ。 「…同じだと、思ってたんだ、」 掌で顔を覆い、1人呟く。鞍瀬は広瀬と自分は同じではないと言った。曇りのない鞍瀬の目から見てそうであるのならそれは事実なのだろう。 同じだと思っていたから、拾った。 どこか深層の中で、自分が助けられたのだから、自分も誰かを助けたいとでも思っていたのならそれはとんでもない奢りだ。 1度神原という男に踏み込まれ、揺さぶられた雄誠会。矢立はまた同じ轍を踏まされかけている。 甲野と広瀬の共通点を探すとするのなら、それは恐らく純粋さだ。 甲野は野心に向かい、将来を信じて疑っていなかった。広瀬は人を疑うことを知らない。その色の異なる純粋さに、神原は付け込み懐に引きずり込んでいるーー。 甲野の目を思い出す。 逮捕される前、異様に増えていた個人的なシノギに気付きながらも何も言わなかった甘さを矢立は当然悔いている。シノギが潤うに越したことはないのだ。支部が潤えばそれは本部にも還元される。本部が潤えば、会長のーー自分の父親も安泰だ。 そして、自分は少しは腰抜けの若頭から脱却出来るだろかと、ほんの少しの邪心があったことは否定出来ない。 組同士の抗争を収めたのは互いの会長だったが、神原と甲野の始末を付けたのは他でもない鞍瀬だ。及び腰の若頭から引き継ぐ形で、双方の指を詰めて組を破門にした。 神原と共に歩んで行った広瀬の背を思い出す。 分岐点は多くはないが少なくもなかった筈だ。 神原と繋がっていることをどこかで気が付けたのなら良かった。 もし広瀬が初めから神原と繋がっていたとしてもそうでなくとも、早い段階で見抜けなかった自分の落ち度だ。 無意識に、また大きな溜め息が漏れた。この部屋で1人考え込んでいても埒が明かないとは思いつつそうせずにはいられない。固くなった眉間の皺を指先で揉んだ。 まだ事は起きていない。 だが、嫌な予感ばかりが胸を占める。 疲労を感じつつ見やった窓の外は、まだ強い雪が吹き荒んでいた。

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