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雄誠会支部に来客が訪れたのは1月の20日頃だった。運転手が開けた車のドアから降り立った男の顔を確かめるなり出迎えた組員たちは一斉に深々と頭を下げたが、末席にいる将未が驚いたのは支部のトップである矢立までもが低く頭を下ろしていたことだった。矢立が頭を下げる人間はーー矢立の性分を別にし、地位のみだけを見るとーーそう多くはない。
男は人に頭を下げられる事に慣れている様子で恐縮するわけでもない。60代前半頃だろうか、年相応の皺を刻んだ顔は涼しげである。手には何やら紙袋を下げ、ほんの微かに右足を引き摺りつつ人の列を分けて建物の中へ入っていく。染めていない髪は美しい灰色で、それを無造作に後ろに撫で付けていた。晴れた空に反射した雪が眩しく、コートの中に着込んだスリーピースの仕立ての良さを一層際立たせるようであった。
「すまないが。茶を、」
男のすぐ後に続く矢立が将未の姿を目で探し、小さく言い残して行った。将未はぞろぞろと後に続く組員たちの最後に屋根の下に入り、足早に給湯室に直行する。いつか鞍瀬に教わった手順通りに丁寧に入れた茶を置いた盆を手に、矢立が入っていった応接室へと向かった。
「失礼します」
ノックの後にドアを開け、先程玄関の前でしたように深く頭を下げる。室内は既に煙草の香りが漂い始め、同時にどこかで知ったような食べ物の香りが混ざっていることに気が付いた。香りは来客が持ってきた紙袋の中から昇っているらしい。
テーブルに茶を運んできた将未の姿を、男は興味深げな視線を隠しもせずにまじまじと見つめる。勝気で好奇心が勝るような、どこか少年を彷彿とさせる男の瞳に将未はつい伏し目がちになる。男はそんな部屋住みをからかうように目を細めつつ、置かれた茶碗をすぐに持ち上げた。
「…あ、」
矢立が小さく口を開く。不味いですよ、言いかけるも将未の存在を思い出したのか咄嗟に口を噤んだものの、客は1口茶を飲んで緩く目を瞬いた。
「お前、茶ぁ入れんの上手いなあ」
「ーー」
男の目尻にますます皺が寄った。そんな男の言葉に驚いたのは、将未だけではない。矢立もまた小さく目を見開いたまま茶を口に運ぶ。1口啜り、将未を見上げた。
「……美味く、なったんだな、」
「あの、…鞍瀬さんが…教えてくれました」
矢立と、それから明らかに矢立よりも格上に見える男に立て続けに褒められた将未は恐縮して肩を縮める。誰かに褒められる経験が少ない将未は相変わらずどう反応すべきかがわからない。ただ、事実だけを小さく口にした。鞍瀬に茶の入れ方を教えて貰った将未は、以降忠実にやり方を守っている。最近は茶の味で怒鳴られることはほとんど無くなった。
それを聞いた来客はますます機嫌が良さそうに口元で笑い、矢立の方はますます驚きを露わにする。その後に、苦笑するように眉を下げて茶碗の中に呟いた。
「…鞍瀬さんは、…面倒見が良いから」
「世話焼きなんだろ。アイツ。…放っておけねえんだろうよ。こういうタイプ」
男は快活に言い、もう一度将未を見やる。矢立と将未とを見比べるようにして視線を配り、この話は終わったと茶碗をテーブルに戻した。代わりに灰皿に預けていた白筒を持ち上げる動作をきっかけに矢立が将未にアイコンタクトを送ろうとすも、それより先に将未はまた頭を下げて自ら静かに部屋を出ていった。
「…足の方は、痛みますか。幡野さん」
2人きりになった部屋で矢立が来客に顔を向ける。幡野と呼ばれた男は矢立の案ずる眼差しに一瞬苦い笑みを浮かべるも、皺のある口元に弧を描いて自分の右足の太腿を軽く叩いた。
「まあこんなもんだ。やっぱり寒いと少しはな」
この男ーー鳳勝会会長、幡野には三十代の頃に先代の組長が率いてた豪能組と揉めた時の古傷が脚に残っている。銃弾を受けた傷は幸い大きな後遺症は生まなかったものの、やはり年齢には抗えないということなのだろう。幡野自身は決して人前で痛いとは口にはしないが否定もしない。年齢を重ねていくことを自分を真っ直ぐに受け入れ、上手く付き合っているという印象がある。
「今日は、」
「別に。正月ゆっくり顔見られなかったしな」
組にいても暇だしな。大きく口を開けて笑い、煙草を吹かす。ゆったりとソファーに腰掛ける姿が様になっていた。
幡野の年齢は矢立の父親よりも幾分か上である。それ故に、この男には矢立も矢立の父親も昔から公私共に世話になっていて決して頭は上がらない。
雄誠会と同規模の組織とはいえ、どちらかといえば穏健派の矢立親子とは違い気性の荒い人間が多い鳳勝会の若頭に成ったのが三十代、そこから組のトップに立って構成員を束ね、組を維持し続けている幡野を矢立の父親は尊敬して慕い、現在でも仲が良い。その縁が雄誠会と鳳勝会に事実上の同盟関係を結ばせている。
矢立自身も幼い頃から可愛がって貰った記憶がある。幡野には今も昔も、悪童のような少年のような空気があり、その中に年相応の貫禄が混ざりあっている印象があった。
「お前の親父の代わりに顔見に来ただけだよ」
そんな裏表の無いこの男がそういうのならそれは言葉通りのことなのだろうと安堵しかけたのも束の間、次の言葉に矢立は指先で軽く額を掻くことになる。
「しっかしお前の親父も相変らす過保護だよな」
「……」
悪びれる色は全くない口振りだったが、正月云々は口実だろう。今日の来訪の目的は、おそらく父親に頼まれたのだと矢立は察する。目を逸らし、再び茶を唇に寄せた。
「自分で見に来りゃあ雄誠会の親父は過保護だの三代目は親離れ出来てねえだの言われるのが目に見えてるから俺に頼みに来たんだろうけどな、人目がありゃ同じことだろ」
互いに若い頃から知り合う幡野との付き合いの長さを考えた時に、矢立の親子関係を、そして矢立の性分を幡野が知るのは必然だった。
「…アイツの欠点は、自分のガキ可愛さに自分のガキの性格が見えていねえことだけだな」
黙ったまま肩を窄めるようにして佇む矢立に幡野が鼻から息を抜いた。顔を上げると、苦笑気味の笑みが目に入る。誤魔化すように啜る茶はもう半分が無くなっていた。
「ヤクザとしちゃあ立派なもんだ。若い頃からこのご時世に組潰しもしねえで上手く回してる。…その組を継ぐのは血じゃねえってことは俺が身をもって教えてやったつもりだったんだけどな」
幡野に子供はいない。会長の血を繋げるという意味では直系の人間が存在する事はないと早くから知っていた幡野は数年前に自分の後継者を指名し、鳳勝会を存続させることを決めている。後は隠居の身だと口では言うものの、この男は未だに頻繁に組に出入りし、昨年の豪能組の件でも誰よりも息巻いていたと聞くから穏やかに身を引く日はまだ遠いだろうと矢立の父親が笑っていた。
バブルの頃から組を回し、人を使い、磐石な地位を築いてきた幡野の言葉は、いつだって重たい。
「お前がどう思ってるかは知らねえよ。けどな、なんぼ血が繋がってた所でそいつに素質が着いてこなけりゃ組は潰れる」
呼吸を置くためにフィルターを唇に寄せ、音を立てて煙を吐き出す。軽く眉を顰め、嫌な話だけどな、と前置きした。
「実の…、血が繋がってる家族って奴でも親殺したり殺したりガキ捨てたりする世の中だ。血の繋がりなんて大した宛になんねえと俺は思ってる。…例えが極端か。血が繋がっててもお前ら親子みてえにあんまり似てねえ親子もいるし、」
幡野の視線がちらりと矢立を見遣る。黙る、というよりも茶碗をテーブルに戻し、姿勢を正してじっと話に耳を傾けている若者の几帳面な性分に、幡野の方が気恥しさに包まれて軽く髪をかいては続ける。
「血が繋がっていなくても一緒にいりゃ気味が悪いくらい似てくる人間もいる。それを上手いこと使ってるのが俺らみてえな人間なんだろ」
ヤクザは〈家族〉のような言葉を好む節がある。それは所詮擬似的なものではあるが、幡野の言う通りに実の親子よりも強い関係性で結びつくことが少なくはない。雄誠会も鳳勝会も時代に沿う形で盃を交わすような古臭い真似はしなくなって久しいが、どちらも入って来る人間は家族同然に大切にする組だ。1度足を踏み入れたのなら、部屋住みであろうと若頭であろうとその人間は親子であり、兄弟ねあるとして扱い、見る。そうして組は結束力を煽り、高めていく。
だからこそーー矢立の父親は矢立をより大切に思い、幡野は躊躇することなく血の繋がらない人間を後継に指名することが出来たといえた。どちらもそれぞれの〈家族〉の形だ。
「無理矢理世襲にしても良いことねえだろ。…跡継ぎだとかそういう事にこそ俺らみてえな〈家族〉の真似事を上手く使えば良いんだけどな」
ほとんど無口と言っても過言ではない矢立に比べ、幡野はいつも饒舌だ。言葉を尽くす、という事の意味を重ねてきた年月の中で獲得してきた男なのだろうと矢立はぼんやりと思いを馳せる。
「ーーってことをいつかちゃんと話してやらなきゃいけねえんだろうな、」
そうでなければお前が気の毒だ。幡野は呟くように言っては天井を仰ぐ。噴いた煙草の煙がその場に留まり消えていった。
「…さっきの、アイツ」
矢立に顎を向けたまま話を転がす。この男にしては珍しく言い淀む、というよりも言葉を探してから姿勢を直して矢立を見やった。
「茶ぁ運んできたやつ。向いてねえぞ。アイツも」
語尾に含みがある。その含みに、矢立の胸が軋む気配がした。表情こそ変えていないつもりではあったが、揺れた気配に幡野が再び眉を下げた。
「わかってんだろ。自分から入って来たのか誰かが拾ってきたのか知らねえけど、親子揃って向いてねえ人間この世界で長生きさせるような轍踏もうとしてんじゃねえよ。本気でヤクザやりてぇならいつまでも茶ぁ入れてばっかりはいられねえんだ。お前も長ならとっとと次の道見つけてやれ」
「……」
反論の余地はない。どこが向いていないのか、と聞くことは自分への諸刃であることもわかっている。
広瀬はヤクザには向いていない。その事実は、広瀬が自分と似ていると感じた時から解っていた筈なのだ。
眉を垂れる矢立にやれやれ、と浅い息を逃して苦笑しながら指先の煙草を灰皿に押し付けた。茶碗の中に残っていた茶を飲み干し、立ち上がろうとする幡野の動作はスムーズである。本当に世間話、もとい自分の顔を見に来ただけらしい。矢立は合わせて腰を浮かせる。
「おう。それ食えよ。うちの店から持ってきた」
テーブルの上に置かれたままの紙袋を指さす。中にはプラスチックの容器に詰められた煮込みハンバーグと思われる料理が入っている。きちんと付け合せも添えられたまだほんのり暖かそうなそれは幡野が所有する店のものだろう。若い頃はバブルの景気も手伝って土地だの店だのを幾つも所有し、それを丸ごと組の運営の資金や自分の導楽に突っ込んでいたと聞く幡野も、今は古くて小さな洋食屋を1軒持っているだけだ。
「ありがとうございます」
「また来るわ。お前も店に顔出せよ。…あ、」
両手をポケットに突っ込む幡野の脇から矢立が腕を伸ばしてドアノブに触れる。扉が開こうとした刹那、幡野がふと思い出したように矢立に目を向けた。
「豪能。接触してきたか」
「ーー…」
言葉に詰まった。
厳密に言えば接触はあるだろう。脳裏に広瀬と神原の背が浮かぶ。矢立より数センチ背の低い幡野はその反応をじっと見つめた後、ふ、と目元を緩めて横顔を向ける。ばん、と音がする程に背を叩かれた。
「なんか困ったことがあったら言えよ」
実の親には言えないことでも、この幡野には言えるだろうかと矢立は思う。先日の鞍瀬の言葉が同時に頭を過ぎった。
オヤジを引っ張り出すのか。
全て自分の腹に収めるのか。
そのどちらも避けるべきなのだろう。
ひらひらと手を振り去っていこうとする幡野の背を追う。廊下の先にヒデが立っていた。丁重に見送られる幡野がもう一度振り返り、矢立の目を見てはどこか憐れむような眼差しを細くした。
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