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ぐっと気温が下がった夕方の街にはちらちらと小雪が舞っていた。マンションのエントランスの暖気に包まれた将未は、鼻先までマフラーの中に埋めていた顔をようやく覗かせてからエレベーターに乗り込む。冷えてしまったコートの中の更に奥、胸の中には昼間矢立と幡野に褒められた余韻がまだ残っていた。1つ誰かに褒められた事を抱えては胸の中に大切にしまい込むような経験は、将未にとっては未だ新鮮な経験という立ち位置にあった。
玄関のドアを開く。顔を上げた時に不意に生じた違和感は、いつもは出迎えてくれる龍俊が現れなかったせいだろう。玄関やリビングに続く照明は点っているから不在ではないと知る。首を捻りつつも小さくただいま、と声を掛けてから玄関に上がり、クロゼットのある自室よりも先にリビングへと向かった。
「…龍俊、さん?」
リビングにもまた煌々と明かりが点っている。視線を巡らせると、ソファーの上に腰掛けた龍俊が見えたが今朝はどこか空気が違う。背を丸め、軽く俯いているような姿勢に将未は無意識に小走りで歩み寄った。
「龍俊さん、」
「ーーああ…、…ごめんね。気付かなかった。おかえり、将未」
体調でも悪いのだろうかと半ば不躾に顔を覗き込もうとした刹那、龍俊が驚いたように頭を上げた。コートを着込んだままの将未の姿に数回目を瞬かせた後に眉を下げて力なく笑う龍俊の様子は明らかにいつもと違っている。電灯の下の顔色もあまり良くないように見えた。
それでも、様子がおかしい同居人ーー恋人に対してどのような言葉をかけることが適切なのかがわからない将未が戸惑い、小さく口を開いたまま立ち尽くす様をじっと見つめた龍俊は、不意に真面目な瞳で何事か浅く頷いた。
「…ね、…ここ、座って?」
将未の首から垂れたマフラーの端を軽く引き、甘えるような声音で呟いた。
室温は十分に保たれている。一旦自室に駆け込み、大急ぎでコートと上着を脱いだ将未はスラックスとシャツのみの姿でリビングへと戻った。龍俊は今日も品の良いセーターを着ている。鮮やかなブルーが眩しかったが、対照的に龍俊の表情は浮かないままだった。
龍俊の視線に招かれるまま、従順な面持ちでソファーに腰を降ろした将未を龍俊はどこか安堵したような眼差しで見遣る。その龍俊が再び視線を落とした先、ローテーブルの上には複数の錠剤のような物が綺麗に並べられていることに将未は今気が付いた。
「…あのね、…これ、」
タブレット状の錠剤は薬局やテレビの中で見る薬のように綺麗にパッキングこそされているものの、将未が知る錠剤とは雰囲気が違っている。シートの上に均一に並んだ錠剤の見た目は鮮やかな青や赤や緑色で、どこか現実離れした物体にすら見えた。龍俊の指が錠剤に触れる。かさ、という音が小さく鳴った。
「これ、…将未の職場で売ったり出来ないかな…?」
「…え…?」
口篭るような龍俊の声は静かな室内でしっかりと将未の耳に届く。物珍しげな眼差しで錠剤を眺めていた将未が短く反応する様に龍俊の視線が注がれていた。
「これは…」
「栄養剤みたいなものかな。…俺の仕事はね、これを作ってる会社から委託されてあちこちに売る仕事なんだ」
今まで言ったことなかったね、と龍俊は苦笑気味に眉を下げる。将未の方はそういった物を売る人間がいることくらいは知っているが、形態の種類や稼ぎ、龍俊の言う〈委託〉している会社等詳細を考える知識はない。龍俊のような仕事をしている人間もいるだろうと認識し、相槌の代わりに浅く頷いた。
「それがこの1月の成績があんまり良くなくて…。1月ってほら、どうしても年末年始の支度だとかデパートの初売りだとが終わると皆財布の紐固くなっちゃうんだよね。昨年もそんな感じだったんだけど…やっぱり不況なのかな。今年は昨年以上にやばくてさ」
予め用意していたのか、龍俊の説明は流暢だった。だが、僅かな苛立ちや悔しさの類は生じているのか、龍俊は自分の柔らかい髪を無造作にかいては改めて将未を見遣る。
「それでさ、…将未の職場で、これ、売って貰いたいなって。…思い付きなんだけど、少しでも利益にならないかなって」
「…組、で、」
ぽろりとこぼれ落ちた言葉に将未は慌てて口を噤む。相変わらず龍俊には雄誠会という組織で働いているということは伝えていなかった。
聞き慣れない筈の単語であったが聞こえなかったのか龍俊は特に反応を示さない。伝えられた事を咀嚼するのに時間がかかる将未の答えをじっと息を潜めるようにして待っている。
ーーなんとなく、引っ掛かりを感じた。
その理由は掴みきれない。
まず、いつも余裕があり、笑顔しか覗かせない、
満たされた暮らしに身を置く龍俊が困っている事に違和感がある。龍俊が口にした年明けのことを思い出す。龍俊や自分の暮らしぶりにこれといって変わったことはなかった。
そもそも龍俊が扱う商品を自分が代わりに売ってくるということは正しいことなのだろうか。龍俊に委託をしている会社に知られてしまっては良くはないのではないだろうか。
この〈栄養剤〉を雄誠会の誰かに売ることは、果たして正しいことなのだろうか。
形容しがたい違和感が胸や喉に大きな塊として引っかかっている感覚がある。ぐるぐると思い巡らせる将未の横顔を眺めいた龍俊が、深い溜息を吐き出した。その音にびくりと肩を跳ね上げた将未が咄嗟に龍俊に顔を向ける。
「やっぱり…ダメだよね。そういうの」
「……」
「こんなこと、誰にも頼んだことなかったんだよ。自分でも情けない。…でもね、…将未になら…頼んで良いかなって思ったんだ」
龍俊の目を覗き返す。諦めたような色が、悲しげに笑っている様に将未は小さく息を詰めた。こんな顔をする龍俊は見たことがない。
「将未なら信用出来るし、俺のダメな所も見せられると思った。でもダメなら仕方ないよね」
嘆くようにゆるゆると振った頭を片手で抱えた。溜め息の音に将未の鼓動が速くなる。
ーーダメだ。
ここで断ったのなら、自分は。
脳裏にいつか見た瞳が蘇るも、それが誰のものなのかはわからない。いずれにせよ、あれは自分を棄てた、
慄然として佇む将未を龍俊が見遣る。明確な答えを寄越さない将未にもう一度緩く首を振り、目を逸らした。
「…ごめんね。変なこと言って。忘れて良いよ。…残念、だけど」
「…っ、出来る…っ、」
ーーここで断ったのなら、自分はまた棄てられる。
今の龍俊と同じ目をしてたのは誰だったのか。自分はこの目を幾度となく見てきた。
あれは誰の目だったか。成長した自分を見下ろす住職の目か、それとももう自分からは稼ぎは得られないと踏んだ賀川の目だったか。いずれにせよーーこの目を向けられたその後のことを自分はよく知っている。
渦巻く想像と予感に鼓動が速くなる。呼吸すら苦しくなる。嫌だ、と叫び出したくなる衝動を抑えるように咄嗟に指を伸ばした。
龍俊に棄てられる。
迫る恐怖が、龍俊のセーターに指を縋らせた。
「出来る、から。龍俊さん、」
棄てないでくれ。
気が付くと龍俊のセーターの胸元を握り締めていた。声を震わせ、必死な眼差しで龍俊を見上げる将未に、龍俊は1度驚いたように大きく瞠目したが、すぐにふ、と目元を緩め、安堵したように笑った。
「これ、売ってくる。出来るから。だから、」
棄てないでくれ。動こうとした唇がごく柔らかく塞がれる。開いたままの瞳に目を伏せた龍俊が映る。腰に回る掌の感触を感じつつ、また唇が啄まれた。
「…将未は可愛いね」
「……」
唇が重なり、その端から甘い声が囁きかけてくる。
「いい子だね。将未、」
額に触れる龍俊の前髪や、胸に重なるセーターから香る煙草の香りに、久方ぶりにあの酩酊するような感覚を覚えた。身を寄せる龍俊に将未自らも胸板を寄せる。
この家に住むことになった時、自分は龍俊に何かを返さなければと思ったことを思い出した。
今がその時なのだろう。
困った龍俊を助けられるのであれば、それは自分の願いが叶うことだ。
龍俊の近くで役に立てるのならば。
龍俊が喜ぶのなら。
この暮らしを続けられるのなら。
龍俊の傍にいられるのなら。
龍俊にーー棄てられない為ならば。
自分はなんでも出来る筈だ。
「好きだよ。将未、」
耳元に直接吹き入れられる言葉は暗示や呪文の類のように将未の中に染みていく。柔らかいソファーに身を倒された将未の首元に龍俊の額が埋まる。
唐突に、ススキノの端、どこにも続かない暗い道端を思い出した。あれは遠い夜のことだ。
雪の舞う中、自分に差し出された掌を思い出す。
あれは。
あの手は、龍俊のものではーー。
首元に触れる龍俊の表情は伺えない。確かに身体を重ねている筈なのに、先程から打ち続けている胸の早鐘は止む気配がない。この鼓動を龍俊に悟られてはいけないような気がして、意識ごと逸らすようにして将未はきつく瞼を閉ざした。
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