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本当はいけないことだからこっそりやるんだよ。 パンツのポケットの中にある錠剤は、龍俊が用意してくれた小さな封筒に入っていた。指先で触れながら、将未は出掛けに龍俊が囁いた言葉を思い出す。申し訳なさそうに下がった眉を見上げつつ浅く、それでも明確に頷いた将未を見た龍俊は嬉しげに笑った。玄関先で緩く抱き締められた温もりはそのまま将未の勇気に変わり、日中はそれを大切に携えて過ごした。 こっそり、ということは人目は少ない方が良いのだろう。龍俊からは出来るだけ早い方が良いと言われている。事務所から人が減るのは夜だ。3、4人が割り当てられ、居残る夜番の日が今日であることは偶然ではあるが、幸運だと思った。 猛吹雪の夜ともなれば夜番の人間達も買い出しにすら出ることを渋っている。窓の外は轟轟と音が鳴り、その窓も頼り投なげに軋む音を立てているが、雄誠会自体には相変わらず有事は起こらない。だらだらと煙草を吹かしつつ、テレビの野球中継を眺めている1人の構成員を見付けた。 「ロクさん」 ロク、と呼ばれているその男はヒデよりも幾分か年上の男だった。年齢は上の方であるが組に入った年数は浅いらしく、年下の組員にも頭を下げる様を見て将未が組織は年齢ではなく所属した年数がものを言うのだと知るきっかけになった男だった。 ロクデナシのロク、と自らを名乗る男の本名を知る人間は少ないと聞いている。将未も当然のことながらこの男の本名を知らない。背後から遠慮がちに呼びかけると、ロクはソファー越しに振り返って将未を見上げた。顎の下にある傷を隠すような無精髭がいつもよりも伸びているように見えた。 「おう。どうした」 「…少し、良いですか」 物憂げな将未の眼差しと、肩を窄めるように佇む姿にロクが片眉を持ち上げた。残り2人の夜番はテレビの中、拮抗する野球中継に夢中になっている。音を立てずに立ち上がったロクが将未を促す形で廊下に出た。 「珍しいな」 将未がロクに声を掛けることはほとんど無い。用が無い、というよりもロクに関してはヒデからあの以前自分を犯した潮見達と同じく「あまり素行が良くない」人間として言い聞かされていた為だ。 それ故に将未はロクに声を掛けた。「こっそり」という龍俊の教えはすなわち露見した際にヒデに迷惑を掛ける可能性があると予感したたからだ。声を掛けるのなら出来るだけヒデから遠い人間が良い。決して器用に計算が出来る訳では無い将未が懸命に考えて出した結果だけが、ロクに声を掛けさせた。 「…あの、…これを…買って貰えませんか」 廊下の隅、人がいる部屋から洩れる明かりに背を 向ける形でポケットに手を入れた。紙の音を立てて封筒から覗かせた錠剤を見下ろしたロクが一瞬身を固くする気配があった。手の中にある赤色を注視している。小さな瞠目の理由は将未にはわからない。パッケージを見下ろしたロクは、ふうん、と鼻を鳴らしながら指先で無精髭を撫でた後、硬い表情で返答を待つ将未を見やった。 「…お前これ、何かわかってんのか?」 「…え…、…栄養剤…だと」 向けられた問いに今度は将未が目を瞬かせた。教えられた通りに答える将未にロクは再度同じように鼻から呼気を抜いたかと思うと上機嫌そうに目を細めた。片腕で将未の肩を抱き、煙草の臭いが移りそうな程に顔が寄せられる。 「お前これ、誰かに売ってこいって言われたんだろ」 「……」 近い距離での囁きに将未が瞠目する。 当然だろう。一介の——部屋住みに毛が生えたような将未が突然組の中で何か商売を始めるなど不自然なことだ。将未でなくとも、他の誰もそんなことをやっていない。少なくとも将未は誰かが誰かに何かを売り付けているような場面に遭遇したことはない。 そもそも龍俊には、「こっそり」やるべきだと念を押されている。この行為は、違法なのではないか。 ようやく思い至った疑問符に僅かに顔色を変え、あからさまに顔に出して狼狽する将未の肩を掴む腕に力が籠る。逃がさない、と言うようにロクの額が寄せられた。 「いいぜ。買ってやるよ。幾らだ」 将未が龍俊に指示された額を口にする。5桁の、安くはない値段だがロクは口の端を緩めたまま表情を変えない。 「けどな、お前組でこんなもん売ってるなんてヒデやらボスやらにバレたらえらいことになるんだぞ?」 お前は知らねえだろうけど。ロクの声には愉悦が混ざっている。見付けた獲物を弄ぶような声音に将未が困ったように眉を下げた。商品はただの栄養剤だろう。なんであれ、何かを売買することは組の中では禁じられているということなのか。小遣いが足りなければ自分の食い扶持は自分で稼げ。以前誰かに言われたことを思い出した。この代金はそのまま手をつけることなく龍俊の元に行く。だが、図式としては将未がしている事は自分の稼ぎの為になるのではないのだろうか。 咎められてる、否、ロクの笑顔は将未が違法行為を働いていることを知ったが為の笑顔なのだろうか。弱みを握った人間の笑みに、将未はどうすることも出来ずに立ち尽くす。 「…あの、…出来れば、…誰にも言わないでください、…っ、」 懸命に考えるも、考えれば考える程に混乱を覚え始める。それでも脳裏に留まり続ける龍俊の表情に、考えを振り切った。お願いします。口に出そうとした将未が、下肢から伝わる感触に小さく呼気を詰めた。肩に回っていたロクの手が背を撫で、腰を這い、将未の小ぶりな双丘を鷲掴みにしていた。 「ロクさん、」 「誰にも言わねえよ。いっちょ前に稼ぎ上げようとしてんだろ?ちゃんとそれも買ってやるよ。…わかるよな?」 ロクの目線が階段を指す。最後に使用していた将未が出た後は部屋住み用の部屋は空いたままだ。同じ階に設けられた私室を使っている矢立もとうに帰宅している。夜番から2人が抜けたところで暇な夜は続くはずだ。他の2人はさして気にも留めないだろう。 意味を理解した将未は下唇を噛む。脳裏には龍俊の姿が浮かんでいる。 自分に対して半ば懇願するような目をしていた。 そしてその後に覗かせた諦めたような瞳を思い出す。 棄てられたくはない。 自分は、龍俊の為なら何だって出来る。 2つの意志が将未の足を支えている。ロクの吐息を頬に受けながら浅く頷いた。将未に身を擦り寄せるようにしたロクはいよいよ満面の笑みを浮かべ、戯れに双丘を撫で上げた。 小さく口笛を吹きつつ先に階段へと歩み出すロクの後に続く将未は、もう一度軽く下唇を噛み締めた。 〇●〇 吹雪が去り、白く晴れた早朝の空の下を将未は両腕で自分の身をかき抱くような姿勢で歩いている。まだ誰も踏んでいない路地裏の雪を踏む足だけを見下ろしながら低い気温の中で吐く息が地面に浮かんでは消えていった。 ロクとの行為の痕跡を流す為に浴びたシャワーの余韻は未だ将未の髪の毛先にあるが、それでもなお将未の身体には執拗に触れたロクの手の感触が残っている。必要以上に寒さを感じるのは気温のせいだけではないだろう。眉を寄せ、寒さの為だけではない身震いをしつつ、将未は足早に住処を目指して歩き続けた。 普段よりも長く感じる帰路を辿り、到着した部屋の玄関は暗かった。玄関のドアを閉じたところでようやく過ぎった僅かな安堵に顔を上げるとリビングから明かりが漏れている様が目に入る。冬の夜明けは遅い。外は明るくなってきてはいるが部屋の中はまだ薄暗いだろう。同時に、龍俊が待っていたのだと悟った将未は急くように靴を脱ぎ捨てて玄関に上がる。 「おかえり、」 廊下の途中、リビングから龍俊が顔を出した。少し眠たげな龍俊の表情を目にした瞬間、将未は唐突に泣き出したくなる。 自分はさっきまで、龍俊以外の男に触れられていた。 不貞を働くという概念は将未の中にはない。それは将未がこれまで操を立てるような相手がいなかっただけに過ぎない。ロクとの取引は龍俊の為に従ったのだが、龍俊以外の誰かと寝たなどとは言えないーー否、知られたくはない。いくら過去に数え切れない程の男の手に触れられていたとしてとも、今だけは龍俊だけの身体でありたかった。龍俊以外の誰かに、触れられたくは無かった。 誰かに対して、そんな感情を抱くことは初めてだった。 何事もなかったかのように振る舞いたい。少しでも何かを悟られてしまえば、堪えていた欲や感情が噴き出してしまいそうだと思った。 「…ただいま、…龍俊さん」 少し声が掠れている。ロクに貪られている最中、必死に声を殺した名残が喉の奥に詰まっているようだった。視線を合わせられない。消えてしまうような声しか出せなかった自分を龍俊は不審に思うだろうか。何かを問われたのなら何を返せばいいのか。その〈何か〉の中身を予測することも、その返答を考えるような余裕もない。 それでも無意識に、龍俊に向かって指は伸びる。 早く抱き締めて貰いたかった。 それだけを思い、将未は必死に帰路を辿ったのだ。 いつものように自分を出迎えてくれた龍俊に触れたい。触れられたい。今すぐに抱き締めてほしい。ロクに身体を暴かれている最中にずっと抱え、膨れ上がった欲求を満たして欲しい。早く、忘れさせてほしいーー。 顔を上げた将未に、龍俊が緩く首を傾けた。 「どうだった?売れた?」 「ーー…」 龍俊は、普段と変わらない瞳を向けていた。 平静を装っているとはいえ、普段に比べてやはり幾分かは様子がおかしいであろう自分を案ずるような気配はない。持ち上げた指が行き場を失って宙にある。平坦な声音に、将未は縛られたようにその場に立ち尽くした。 「将未?」 「…あ…、…売れ、た。…買ってくれる人が、いて」 再び俯き加減に視線を落とした将未の前髪にそう、と龍俊の呟きが落ちる。褒めて貰えるだろうか。咄嗟に上げた将未の目を龍俊の目が覗く。その抑揚の感じられない眼差しに、将未の背がぞくりと震えた。ポケットの中に丁寧に畳んだ札に指を触れさせたものの、身を強ばらせた将未はそれすらも取り出すことが出来ない。 「良かった。やっぱり将未に頼んで正解だった。…疲れたでしょ?今日は寝なよ」 「…あの、…龍俊さん、」 声が震える。 先日感じた妙な感覚が蘇る。自分にこれを売ってきてほしいと言った龍俊に感じた違和感の正体はなんなのか。 ただの嫌な予感で済ませても良いものなのだろうか。 張り付いたような笑顔の中、体温の薄い目が自分を見ては逸れていく。 ーー足元が、揺らぐような感覚があった。 龍俊が背を向ける。どうしようもなく心細い思いに駆られ、再び指を伸ばしかける。その気配を察したか、龍俊がくるりと振り返って見せた。 「ん?」 龍俊は笑ってはいない。少し青く見える相貌が自分を見つめている。まだ何か用があるのか。言いたげな眼差しに射すくめられるような心地に陥る。それでも将未は軽く唾液を飲み下し、口を開いた。 「…あれは、…なに…?」 「……」 ロクの反応を思い出す。あれは獲物を見付けた目をしていた。間違いようがない。自分はかつて幾度となく男たちからあの目を向けられてきた。自分よりも弱く、自分の意のままに操ることが出来る獲物を見つけ、捕獲し、手のひらの中に収めようとしている眼差しをしていた。 あれは。あの錠剤は、本当にーー。 「俺がロクさんに売ってきたあれは…本当に」 「ーー俺が信じられない?」 ぞわ、と背が粟立った。龍俊の冷ややかな眼差しが肩越しに将未を射抜いている。熱の下がった瞳に見据えられた将未は呆気なく言葉を失くした。龍俊がごく軽く首を傾けて見せる。 「将未は、俺が信じられないの?」 「…っ、そんなこと、」 そんなことはない。 慌てて強く首を振る。背に嫌な汗が伝っているのがわかる。 龍俊以外の誰を信じれば良いのだろうとすら思う。 信じている。 龍俊を信じている。 そしてそれよりも、龍俊に棄てられたくはない。 将未に錠剤を見せた時、将未が龍俊の頼みを断りかけた時に覗かせた目の色を思い出す。諦めたような瞳のその先を自分は知っている。 棄てられたくない。 「そんなこと、…ない」 絞り出すように呟くと、途端に体が脱力する。将未の反応の全てを見逃すまいとするかに注がれていた双眸が細くなったかと思うと、労るような手付きでするりと頬を撫でられた。 「……今日はもう眠りなよ。疲れてるでしょ?」 乾く口の中を潤そうと試みるも、体から抜けた力とは裏腹に、胸の中の強い緊張は解けることがない。廊下の真ん中で足を止めたままの将未に龍俊が再び背を向け、両腕を上げつつ伸びあがった。小さな欠伸の声が耳に届く。 「俺も少し寝てから仕事に行くから。おやすみ。将未」 「…うん、」 早朝の空の下、人気のない街を歩きながら抱え続けていた思いは知らぬ間に消え去ってしまった。 龍俊に褒められたい。慰められたい。 龍俊に、抱き締めてもらいたい。 ただそれだけを抱え、望みとして帰宅したという思いも龍俊の眼差しひとつにかき消されてしまった。 背を追おうとした指を躊躇い、下ろす。 龍俊の為ならばなんだって出来る。 自分に言い聞かせるように思い起こす。 その一方で、龍俊が初めて自分に向けた冷ややかな眼差しが脳裏に染み付いて離れない。 自分は知らぬ間に分岐点に立たされているのではないかという予感がようやく将未の中に降り、胸の中腹に留まった。

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