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今年は積雪が少ないと油断している市民を嗤うように、2月に入った途端に降雪量がぐんと増えた。昨夜も雪は一晩中降続き、そのお陰で、今朝の雄誠会は組員総出での雪かきとなった。まずは本部の前の雪が除けられ、一息付いたところで雄誠会の会長は今日は1日自宅で過ごす旨が補佐の鞍瀬を通じて伝わったものだから、昼食もそこそこにむさ苦しい男たちが会長宅へと赴き、門から玄関の前に広がる庭の雪を除けた。どうせやるのなら通り道を作るだけではなく、庭全体を綺麗にした方が良いだろうと思うと、鞍瀬は下の人間だけには任せておけない。そもそも鞍瀬自身が雪かきが苦にならない。体は動かさなければ鈍ってしまう一方であるし、陣頭指揮を執るのは得意とする所である。雪が降り続く中で行う賽の河原の石積みのような雪かきは雪国に住む人間の宿命だ。自らもスコップを手に汗を流す鞍瀬を横にした組員達もサボる訳にもいかず、小一時間も経つと庭や、ついでに屋根の上の雪までもを綺麗に片付け終えた。 その日はそのまま会長宅での雑務を済ませ、夕方頃になってようやく顔だけ出しておくかと本部に赴いた鞍瀬は、建物の玄関前の雪だけを除けた形になる中途半端な雪かきに眉を寄せ、こちらでもスコップを握り締め、鞍瀬は夕暮れの中で本日2度目の雪かきに精を出すこととなった。 ススキノの一角にある事務所の前の雪をすっかり除けてしまい、どここ満足気な顔で室内に入る鞍瀬を組員が迎える。広間の隅にある古い形のストーブの前に陣取ってコートを脱ぎ、渡された肌触りの良いタオルでやれやれと顔を拭ってから喫煙具を取り出そうとした刹那、ポケットの中で携帯電話が鳴った。 取り出し、ディスプレイを見た鞍瀬から、思わず「げ、」と苦々しい音声が漏れる。あまり得意ではない、というよりも積極的に話をしたくはない相手からの着信に顔を顰めつつも、スワイプの指は素早く動く。 「ーーはい、」 「よお。元気か」 スマートフォンからは快活な声が大き過ぎる音量で届く。声の張りだけを聞くと、通話の相手は六十を過ぎた男だとは思わないだろう。電話を寄越してきた相手である鳳勝会会長の幡野は今日も息災らしい。 「…それなりですが」 鞍瀬の返事はつれない。 鞍瀬は、この幡野が苦手である。 幡野と、鞍瀬が仕える雄誠会会長との付き合いは古い。それは鞍瀬が雄誠会に入る以前からのもので、即ちそれは鞍瀬が雄誠会に所属して間も無い頃ーーススキノの隅でやりたい放題に幅を利かせていたチンピラに毛が生えた程度の部屋住みだった頃の自分を幡野は知っているということになる。 若気の至りを恥じているわけではない。そもそも若気の至りだとは思っていない。だが、幡野が何かと鞍瀬の若い頃の話を持ち出しては揶揄うのは、親類に自分が小さな頃の話を持ち出されては揶揄される感覚に似ているだろうか。会長は鞍瀬と幡野の気性は近いという。その事は幡野もわかっているのだろう。何かと鞍瀬を気にかける、というよりも鞍瀬を構って遊びたがる節がある。会長が頭の上がらない幡野に鞍瀬の頭が持ち上がる道理がない。それ故に、鞍瀬は専ら幡野の玩具のような立ち位置だった。 「つれねえな。ま、いいや。…お前今1人か」 「ーーいえ、…少し、待って貰えますか」 声のトーンが変わった。声音と、伺う色に鞍瀬の空気がサッと変わる。張り付いていた暖房器具の前から即座に立ち上がった鞍瀬を周りの組員が見上げたが、脇に控えていた組員が手にしている空の灰皿に無言で指を向けた。手渡されたプラスチックの灰皿をぶら下げ、何事も無かったかのように広間を出る。人気のない部屋を探し、奥の和室に身を隠す。畳の上に直に灰皿を置き、その前に胡座をかいた。 「どうぞ、」 「お前んとこ、クスリ解禁したのかよ」 「ーー…」 鞍瀬の顔色が、1人になったことも合わせて今度こそ明らかに変わった。雄誠会が薬物を禁止していることは幡野は当然知っている。 短い言葉の中で伝わるのは、雄誠会に薬物を所持している人間がいるということである。だが、それをどうして鳳勝会の会長が知っているのか。 「だよなあ」 声の無い反応を読み取ったのか、やれやれ、と溜め息混じりの声が直に耳に届く。胸元の煙草のパッケージを指で探り、そこから直に白筒を抜いた。スマートフォンから遠ざけてライターに火をつけ、穂先を焦がす。 「ウチの若えのが妙なもん…つうか見たことねえもん持ってるから問い詰めて吐かせたんだけどな」 空気は小さな機械を通して伝わったのか、幡野の方にも鞍瀬と似たような間があった。ふー、と煙を吐き出す音に、幡野の精悍な顔が煙草を咥えている顔が脳裏に浮かぶ。ざわつく胸を隠し、鞍瀬は小さく相槌を打つ。 「豪能の雑魚から買った内地もんだっつうから、ネタは多いに越したことがねえと思って今度は売った豪能の人間捕まえて話聞いた」 鳳勝会は薬物に関しては禁止はしていない。ヤクザのシノギとしては最も手っ取り早いシノギだ。自分で使うな、カタギには売るな、それとパクられるような真似だけはするなという触れがある程度だと聞く。禁止はしていない分、雄誠会の人間よりはその方面に詳しく、札幌市内に出回る違法薬物に関してはある程度把握しているという。その鳳勝会が見たことの無いものを持っているとなれば、話の流れはきな臭いものに変わってくる。 「そうしたらよ、クスリ自体はやっぱり内地で出回り始めた新しいもんだって話なんだが、豪能の中でも持ってる奴は限られてるって言い出しやがった」 「誰が…」 「安樂」 幡野は豪能を嫌っている。それは大昔の私怨が絡む上に、遺恨を抱いている相手は先代であって安樂ではない。しかし幡野は相手が豪能となると例え代替わりをしていようが容赦はしない上に、俄然張り切る男である。どんな手を使ったのかは知らないが、薬物を手にしていた雑魚を脇に避け、一足飛びで安樂に話をぶつけたのだろう。鞍瀬は頭の中で組み立てつつフィルターを噛む。嫌な予感は去らない。鳳勝会と豪能組の薬物のやり取りであれば雄誠会は関わりがない。ついでに言えば、薬物を絶対に禁じる会長には行かず、自分に、連絡が来ることはない。 「お前んとこ、神原って奴飼ってるか」 「ーー」 飛んだ話に、いよいよ鞍瀬が絶句した。突如幡野の口から出てきた名前に頭を過ぎったのは神原ではない。矢立と、広瀬。 「安樂が言うにはその内地もん持たせたのは神原って奴だけだとよ。けど雑魚が買ったのは神原からじゃねえって言うんだ。なんだそりゃって話だろ」 外枠が見えてくるにつれ、鼓動が早鐘を打ち始める。次に出てくるのは広瀬の名前に違いない、と予測して舌打ちしようとしたものの、幡野の発した声に目を瞬かせた。 「豪能の雑魚に薬売りつけたのは雄誠会のロクって奴だっていう。で、ついでにロクもとっ捕まえて吐かせた」 安樂から神原に手渡された薬物は回り回って1度豪能に返った後に鳳勝会に辿り着いたというのか。 ロクは果たして神原が透野と名乗って雄誠会に在籍した当時に組に居ただろうか。神原と面識があったとすれば、神原か破門されたことくらいは知っている筈だ。その神原と関わるような真似はするだろうか。ーーロクに薬を売ったのは。 「アイツほんとどうしようもねえな。なんであんなの飼ってんだ」 「ロクにクスリ売ったのは誰なんです」 早口になったのは無意識だ。支部に詰めているロクの下卑た顔が目に浮かぶ。あれは幡野の言う通りにどうしようも無い男だが所詮小物だ。ロクに薬を売ったのは。神原が薬を握らせたのは。 「…広瀬、」 躊躇う間があったのは、おそらく幡野が広瀬を知っているからだと感じた。遠くで予測していた終着点には見事に辿り着いた。鞍瀬は大仰に天を仰ぐ。溜め息と苛立ちを飲み込んだ。 「ウチの若えのはその内地もん更にどっかに売り飛ばす予定だったらしいけどな、聞けば豪能の雑魚もそのアガり目当てでウチの若えのにふっかけて売ったって話だ。どっちも馬鹿だけどな、おそらくロクって奴も小遣い稼ぎだろ」 どいつもこいつも、と半ば呆れる幡野はおそらく苦笑している。シノギに困っているのはこの時世どこの組みも大して変わりはない。シノギであろうと個人的な小遣い稼ぎであろと、好きにすれば良いと思っている。 ロクはロクで、せいぜい回らない頭を使ったのか、雄誠会と距離が近い鳳勝会の人間に薬物を売り付けることで話が露見することを避けたつもりだったのだろう。豪能に売った薬がまさか鳳勝に行くとは思っていなかったのだろうが、それはさして問題ではない。問題は。 「何にせよ、雄誠会にクスリが入ってるのは間違いねえぞ。…途中までは報告のつもりだったけどな、……あの広瀬って奴拾ってきたのは、三代目だろ」 幡野の声が潜められた。鞍瀬は苛立ちのままにまだ半分残る白筒を灰皿に押し付ける。立ち上がろうとする様を見透かされたように幡野が重ねてきた。 「落とし前、つけられんのか」 「……」 幡野は、矢立の気質も性格も知っている。当然のことだ。鞍瀬の若い頃を知っている幡野は、会長の愛息である矢立の人間性を知らない訳がない。鞍瀬が自分と同じように、筋が通らないことを厭う事も知り、その上で鞍瀬に尋ねている。とうとう、鼻から長い溜め息を吐き出した。 「広瀬が、じゃねえぞ。3代目に落とし前付けさせることが出来んのか」 「…付けさせますよ」 広瀬を拾ってきたのは矢立だ。自分のものは自分で最後まで面倒を見ろ。自分はそう言った筈だ。この件が組のどこにどこまで知れ渡っているかはわからない。それどころか、矢立は何も知らない可能性が大いにある。ーー何があろうと、規律は絶対だ。 畳の上に手を付いて立ち上がる。背筋を伸ばした。 「付けさせる、なァ、」 幡野は、矢立が広瀬を自分と似ていると感じていることに気が付いているだろうか。 電話の向こうにいる幡野はきっと笑ってはいない。浅い溜め息が機械の中を伝って鞍瀬の耳に直に届いた。 「お前が出来ることが3代目にも出来ると思うなよ」 自分と矢立は何もかもが違う。例えば自分は容赦なく広瀬とロクを締め上げ、組から追い出せる。だが矢立はどうか。悲しげな、戸惑うような色をした目が脳裏に浮かぶ。それが却って鞍瀬を奮い立たせた。 ーーいつまでも、甘いことは言わせない。 早く通話を切ってしまいたい。事は早急に運ばなければならない。急く思いが早口にさせる。 「それがアイツ…若頭の仕事ですから」 「お前と煇は違う」 良くも悪くも違うのだ。断言する声は忠告なのだろうかと思う。 自分と矢立はやがては雄誠会の両輪になる男たちだ。反発こそないものの、自分と、あの矢立煇はどう作用するのか。どう作用させていきたいのか。それを決める隘路に立たされている気がした。安穏を望むことは許さない。矢立を動かさなければいけないのであれば、その役目は自分にしか出来ない。 「…なんかあったら言えよ」 助けてやる。黙った鞍瀬に言い聞かせるような柔らかな声音が小さく足され、通話が切れた。 面倒見の良い幡野が自分に直接報告してきた理由を思う。会長が手を下さないのであれば、ロクや広瀬の始末を付けるのは自分か矢立のどちらかだ。盛大に舌打ちをした。蹴りあげるように引き戸を開け、広間に向かって出掛ける旨を伝える声を張り上げた。 ●〇● 冬の短い日が落ちた支部の周辺は、会長宅や本部と同様に丁寧な雪かきがされていた。おそらくヒデ辺りの指示だろう。支部は本部ほど荒々しい雰囲気はないが、その分気が回る人間が多い。支部を束ねる若頭である矢立の地道な教育と、それを嫌がらない人間達が残った成果だ。 そう考えるとロクは異質だ。支部にも当然、必要以上に気性の荒い人間は入り込む。あまり手薄になってもいけないと配備した人間や、本部の下っ端が増えすぎていて支部に回すことになった人間である。ロクはどうだったか、ともう顔つきも朧気な男を思い出す。自分が好きではない卑怯な目をしていた。たとえヤクザであろうとーーヤクザだからこそ男は一本気であるべきだとする鞍瀬が最も嫌うタイプだ。たまたま支部に欠員が出た直後に組に入ってきたものだから、これ幸いとばかりに本部から遠ざけたが、あれはまず本部で性根を叩き直すべきだった。 後悔は性に合わない。舌打ちしつつ後部座席から降りた鞍瀬の相貌に、ドアを開けている組員がびくりと肩を跳ねあげる。鞍瀬がアポイントもなく支部にやって来る時には必ず理由がある。その事は支部での周知の事実である。 「若頭は」 「連絡は入れましたが…少し離れた諸場の見回りの日で」 相変わらずマメな男だと鼻を鳴らす。自分達が管轄するシマや諸場を自ら見て回るのは他でもない会長からの方針であるが有事の際には邪魔なだけだ。矢立の不在をどう利用するかを考えつつ鞍瀬は大股で事務所に足を踏み入れる。コートを受け取りに来た組員と目も合わせずに口を開いた。 「ロクいるか」 「あ、はい、」 矢立も、それに着いて行ったヒデも不在となれば鞍瀬を止める人間はいないということになる。覗いた溜まり場には広瀬の姿もなかった。聞くと、退勤間際になって切らした茶っぱを買いに走らされているという。 若い組員に声を掛けられた男がソファーの向こうから億劫そうに起き上がった。ロクだ。どうやらソファーを占領して居眠りをしていたらしい。寝ぼけ眼で鞍瀬の姿を見ると、さすがに慌てて姿勢を正した。 「来い、」 腕を伸ばし、衣服の首根っこを掴んだ。無精髭が不潔なロクの顔を見ていると苛立ちが増幅するばかりだ。有無を言わさず力ずくで引っ張り、周りの視線を浴びつつ廊下の隅、1番奥に連れ込んだ。 「あの、」 「ーーなあロク、」 薄汚れた襟を解放したかと思うと、鞍瀬の手はすぐ様ロクの胸倉へと回る。いくらロクが無頼を気取っていようと、鞍瀬とは圧倒的に年季や経験が違う。遠慮なく掴み上げ、意識して低く声を発した。 「お前最近新しい小遣い稼ぎ見付けたって話じゃねえか」 「ーーえ、」 ロクの顔面がたちまち蒼白になる。顕著な反応に骨がねえ、と内心で吐き捨て、予告なしにロクの腹に膝頭を埋め込んだ。 「っ…!」 防御の間を与えられることなくまともに膝蹴りを受けたロクはあっさりと廊下に倒れ込む。遠巻きに見る他の人間達の視線を背に受けつつ、鞍瀬はロクの肋骨の上に靴下履きの足を載せて体重をかける。 「鞍瀬さ、」 「クスリ持ちてえなら入る組間違ってんだよ」 青筋が立った鞍瀬の額にロクが息を詰める。苦悶の表情を浮かべて廊下に横たわるロクの骨が軋むも、折るつもりはない。高所から見下ろし、睨めつけた。クスリ、という単語を耳にした組員達がロクが置かれた状況に納得したような眼差しに変わる。規律は規律だ。 「ウチがクスリ禁止だってことは始めに聞かされてる筈だろ」 「…っ、…広瀬か!?」 お前にクスリを持たせたのは誰だ。問う、というよりも幡野から聞いた事を確認するより先に、ロクの口からその名が吐き出された。不快感に眉が寄る。本当にこの男はーーどうしようも無い。 「広瀬が告げ口したのかよ!あの野郎…!アイツだって散々小遣い、」 言い終わろうとするロクの言葉は途中で悲鳴に変わった。うるせえ、と顔面を蹴り飛ばした鞍瀬の靴下に赤が散る。歯が折れたのか口の中が切れたのか、床と自分の衣類を汚すロクに鞍瀬は半ば腹いせのように舌打ちした。こんな男はクスリなど所持していなくてもこの組には必要ない。 「勘違いすんじゃねえよ。広瀬はゲロってねえしお前は破門だ。今クスリ持ってんなら全部置いて今すぐ出ていけ」 破門、という言葉を耳にした組員が鞍瀬に駆け寄る。振り返った鞍瀬は鬼の形相のままその組員を見下ろした。濡れた足先が酷く不快だ。 「靴下買って来い。こんなもん履いてられっか」 「はい!…あの、エンコ、どうしますか」 指を詰めて追い出すか否か。極道といえど、盃を交わすような古臭い慣習は薄れてきているのだ。破門の際に指を詰めるなどという誰の得にもならない慣習は更に廃れている風潮にある。こいつの指なんて1円にもならねえと再度ロクを見下ろした鞍瀬は顔を上げるも、組員の向こうに伸びる廊下の先にある事務所の玄関口が目に入った。その途中には今や見物人と化した他の組員がいる。胸ポケットに手を突っ込みながら組員を見遣った。 「今すぐ詰めろ。終わったらこいつの指持ってこい」 歯切れの悪い返事を残して組員が引き返す。辺りにいる人間を適当に捕まえ、鞍瀬の指示を伝える声を聞きながら鞍瀬もまた広間へと歩み始める。 広瀬が帰るのが先か。矢立が戻るのか先か。組み立てながら何気なく廊下を振り返ると、ロクが呆然とした相貌のその中で絶望を顕にした瞳で為す術もなく転がっていた。 〇〇〇

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