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12-2

真新しい靴下に履き替えた脚を組み、鞍瀬はどっかりとソファーを占領している。鞍瀬の指先から離れた吸殻が一本乗る度に緊張した面持ちの組員が取り替えてしまう灰皿の上にとん、と灰を落とす。煙に満ちた室内は静まり返っている。先程のロクの件について組員達は概ね何があったかを察してはいるが鞍瀬の前では迂闊に口には出せない。内心では馬鹿な奴だとロクを蔑んだり哀れんだりする事に留め、自分はそうはならないと改めて決意を固める程度だ。 ロクがポケットからばらばらと取り出して置いていった錠剤の写真を撮り、添付したメールを幡野へと送信した所、鳳勝会の人間が所持していた物と一致しているという返信があった。元から駒は揃っているが、そうではないという可能性を1つずつ潰すのは鞍瀬の中での決め事だった。 誰もが身を潜めるようにじっと佇む事務所の中に見張りの男が駆けてきた。顔を上げる鞍瀬に耳打ちし、また玄関へと戻っていく。代わりに室内に入ってきた広瀬将が室内に充満する異様な雰囲気を察したのか、寒さで紅潮した顔を瞬時に強ばらせた。 「広瀬、」 何事か起きたのだろうかと思いつつも手には茶の入ったビニール袋を下げている。とりあえず、と給湯室に駆け込んでカウンターに買い物の品を置き、すぐに他の組員が集う室内に足を踏み入れた瞬間を見計らい、鞍瀬が口を開いた。 「…、はい、」 「ーーお前ロクの野郎に何売ったかわかってんのか」 意識的に威圧した声を出し、合わせた目線を逸らすことなく立ち上がって広瀬を見下ろす。ぽかんとした目をして自分を見上げる瞳に、1度は治まった筈の苛立ちが噴き上がる。 ーーこの目が、嫌いだ。 何も知らない、世間知らずな純粋な眼差しが嫌いだ。この男の過去など知らない。どうして道端に落ちていたのかも、その前の事も知らないし、興味がない。だがこの目は確かに世の中のことを知らない眼差しだろう。この至って純粋そうに見える眼差しが嫌いだ。 この男とは殴り合いにはならないだろう。それどころか抵抗すらしない筈だ。鞍瀬にはそれがわかる。何故なら自分はこの男と同じ目をしている男を知っているからだ。もうずっと昔から知っている。雄誠会を背負わされた、矢立。 本来ならば、出会う筈のない人種だ。極小さな舌打ちをし、鞍瀬は広瀬の胸倉に手を伸ばす。巻いていたマフラーを解いたばかりの襟元には温もりが残っている。周りの人間には先に自分が何をしても止めるなと念を押してあった。この男の運が無い所は、今矢立が先に戻って来なかったところで、ーー矢立に、拾われたところだ。 「つまんねえ小遣い稼ぎすんのは勝手だ。けどな、ウチーー雄誠会が薬物禁止だってことくらいお前も聞いてんだろうが」 最大限に眉根を寄せて睨め付ける。かつて見た事のない鞍瀬の表情に明らかな怯えを見せていた広瀬は思った通りに抵抗はしない。だが、鞍瀬が発した言葉の一端にもう一度きょとりと目を剥いた。 「…薬物…?」 「お前がロクに売ったのはーー…、…お前、あれ誰に売ってこいって言われてきた。…始めからそのつもりだったのか」 意味がわからないと広瀬の目が言っている。今の状況も、鞍瀬の言っている意味も広瀬にはわかっていない。ただ、されるがままに持ち上げられ、襟元が絞まる苦しさに顔をしかめることしか出来ない。浅く吐き出した息が拳に掛かる気配を経て鞍瀬が重ねる。 「始めっからウチにクスリ入れるつもりで入ってきたのか」 「違…、違います…っ、違う、」 口の利き方がなっていない。鞍瀬は再度舌打ちするものの、幸いに拳は出ない。殴ったところでどうして殴られたのかわからないのであれば意味はない。殴られた理由を理解していて、暴力で動きや心理を操作出来るという意味であるなら先程のロクの方が余程扱いやすいし御しやすい。この腕力で捩じ伏せることの出来ない性質もまた、矢立に似ていると思うと一層苛立ちが募る。 「あれ、は、」 緩慢ながらもゆっくりと鞍瀬の言葉を飲み込み、消化する広瀬が口を開く。ようやく思い当たった心当たりを口にする声が震えていた。 「あれは、栄養剤だと、」 「…誰が言ってた」 視線を重ねたままの鞍瀬の低音に広瀬はびくりと肩を跳ねてから口を噤む。言えないのか、言ってはならないと言われているのか。そう言い聞かせた人間は誰なのか。答えはほとんど明白だ。 「神原か」 「ーー…、」 広瀬の顔が音が鳴るように青ざめた。確かめるまでもない。毎度の似たような手口と、それに引っ掛かる間抜けだと内心で悪態を吐き、広瀬を床へと突き放す。硬い床の上に将未の体が投げ出されたと同時に、事務所のドアが開いた。ようやく持ち場に到着した矢立が、広瀬のすぐ後ろ、呆然とした面持ちで足を止めた。 降りた車からすぐに駆け込んで来たのだろう。コートも脱がずに佇む矢立には予め電話で話を全て伝えてある。目の前の光景は、信じ難いといった声音で相槌を寄越していた矢立にとって、鳳勝会の幡野から伝えられたことから始まった鞍瀬の話を十分に裏付けるものであった。 「…広瀬、」 ーー運が良いのか悪いのかーー。鞍瀬にとって、矢立が到着したタイミングは絶妙だった。この局面は、矢立が居なければ意味が無い。 「神原がお前にクスリ持たせて売ってこいって言いつけたのか」 矢立の登場を気に留める素振りを見せることなく鞍瀬は続ける。未だ呆然とした風に座り込んでいた広瀬がはっとしたように顔を上げたかと思うと、激しく頭を振った。今ようやく自分の、神原が置かれている事態を飲み込むことが出来た様子だった。 「違う…!」 「……、」 「違う!違います!…っ、龍俊さんは何も関係ないんです!龍俊さんは悪くない、っ、俺が、」 即座に、庇った。 今にも鞍瀬の足に縋り付きそうな指が震えている。揺れる瞳を見下ろした鞍瀬は再び噴き出してしまいそうな苛立ちーー憤りを抑える為に胸のポケットを探る。その動作を見た組員の一人がハッとしたように我に返って灰皿を手にする気配を視界の端で見たが、そのまま目だけで拒否を告げた。 矢立は未だに立ち尽くしたままだ。表情こそ変えない男が、今をどうすべきかを必死で処理しようとしている様子が鞍瀬には手に取るようにわかる。 矢立は、この足元の広瀬とは違う人間だ。変わらなければいけない。いずれ雄誠会を継ぐというのであれば、この男はこのままではいられない。自分によく似ていると感じていた広瀬が人に騙され、利用される様を目の当たりにして何を感じるのか。この姿を見てもなお、自分と同じだなどと思われては困るのだ。矢立は奪われる側ではない。人の上に立ち、処遇をーー道を決める側の人間だ。 お前は広瀬とは違う。静かに送った視線に気付いた矢立が鞍瀬の目を見た。辛そうに眉を寄せるも、視線は逸らさない。鞍瀬の意図を組もうとしているらしい。そうでなければ、わざわざ衆人環視の中でこの立ち回りをしている意味が無い。矢立は決して鈍感ではない筈だ。本当に追い込まれた時に、正しい判断を選べる筈の人間だと鞍瀬は思っている。 胸ポケットから取り出した白筒を咥える。自らの手で穂先を焦がし、深く吐き出した煙が広瀬の髪に触れた。 「……言っておくけどな、」 何故かふと、以前広瀬に茶の入れ方を教えた時のことを思い出した。気恥しげに、照れたように、泣き出しそうに目を伏せた広瀬の姿が脳裏を過ぎる。どうしてこうなってしまったのか。考えても仕方の無いことだ。 「神原は、お前が庇ってやるに値するような人間じゃねえぞ」 両手を床に着き、項垂れている広瀬は顔を上げない。ーー気の毒だ。意識の端で思ったものの、ここで教えてやらなければこの男はきっと生涯、自分が奪われる側だとは気付かずに生きていく。唇に寄せたフィルターを軽く噛み、苦味に顔を顰める振りをした。 「人はだまくらかす。弱みにつけ込んで相手の腹ん中から何から何まで全部手の内に入れる。使えると思ったもんは全部利用する。お前みてえな人間騙して手なずけて搾取して生きてるようなクズだ」 「っ、鞍瀬さん、」 声を発したのは矢立だった。顔を向けると、それ言ってはならないと目で訴えている。 鞍瀬には、矢立の心情はわからない。 情が無い訳では無い。だが、惚れた男を庇う心情も、悪だと解っていてなお傷を浅く済ませようとする心情も、鞍瀬は持ち合わせていない。広瀬が神原と出来ていようがいまいが知ったことではないし、事態は変わらない。この傷1つ無いような矢立は広瀬の心情がわかるのだろうか。惚れた男に裏切られる心情や、惚れた男を罵倒される心情が理解出来るのだろうか。 自分は、矢立のように甘くはない。少しだけ声音を柔らかくすることだけを意識し、構わず続けた。 「お前は人が良すぎんだ。世間ってやつも知らな過ぎる。誰彼構わねえで着いて行ってこんな所に入ってーー神原みてえな奴に騙される。冷静になれ。あれは栄養剤なんかじゃねえよ。立派な違法薬物だ。それお前に持たせたのは誰だ?」 声音はいつしか宥めるような、同情心すら含むような物になっている。鞍瀬の指に挟んだ煙草から長くなり過ぎた灰がぽとりと落ちた。 「悪いのは、神原だ」 「違う、」 広瀬は今何を思っているのか。床にしゃがみ込んだままうわ言のように違うとだけ繰り返し、力なく首を横に振る。消え入りそうな声は、誰かに言い聞かせるように冷たい床に転がっていく。ぎゅ、と音が立つように神原の両手が拳の形に握り込まれた。 「龍俊さんは、…悪くない」 ふと見ると、矢立の後ろでヒデもまた、泣きそうな顔をして立っていた。どいつもこいつも、と舌打ちし、鞍瀬は硬い床に吸いかけの煙草を落として靴底で火を揉み消す。焦げ跡を気に留めることなく改めて矢立を見やった。 「ーーそれで、どうするんです。若頭」 鞍瀬が矢立に向かって言葉を改め、若頭と呼ぶ時は、業務連絡であることを意味している。鞍瀬は矢立の部下ではない。それは鞍瀬自身は元より、矢立も鞍瀬を自分の下に着いている男だと思ったことは無い。だが少なくとも、支部(ここ)では矢立が頭だ。ここは矢立が束ね、率い、使う組だ。その中の人間の処分を矢立が下すことは当然だろう。 矢立はそこで初めてハッとした様な目をして広瀬を見下ろした。広瀬は初めて矢立の存在に気が付いたように振り返る。相変わらず良く似た、怯えた視線の色が交わった。 「ロクは先に追い出しましたよ。指、詰めさせて」 視線を脇の部下に投じる。鞍瀬の運転手をしている男で、男は表情を変えることなくスーツのポケットからジッパーの付いた小さなビニール袋に入れた人差し指を覗かせた。 赤色の滲む禍々しいそれを目にした矢立が瞠目する。これで矢立は追い詰められた。周りには複数の部下が立っている。薬物を手にしていたあっちを処分し、こっちをーー自分が拾ってきて可愛がっていた広瀬の罪を不問にするなどと言い出せば片手落ちも良いところで、それはあってはならない事だということは矢立もわかっているだろう。矢立もまた、鞍瀬と同じく筋を曲げることが出来ない男だ。 鞍瀬にとってみれば、ロクのような男の破門も指も、何の足しにもならない。だが、利用できるものは利用する。ロクの指1つで矢立が決断を下し、引いては雄誠会の今後が少しでも長く安定であるのなら、取るに足らないことだ。 ーーいつまでも、生ぬるいままでいられては困るのだ。この世界で生き延びられる理由が無い。矢立のような人間はいずれ他人に付け込まれ、搾取されかねない。この、足元に蹲るだけの広瀬のように。 矢立が広瀬を見下ろしている。やがて拳が固く握られる気配があった。小さく唇を噛み、眉根を寄せる。今にも泣き出しそうな顔に鞍瀬は内心で舌打ちしたものの、発した声は明確に伝わった。 「ーー破門に、する。…出ていけ。…、広瀬」 〇〇〇 事務所に駆け込んでから、2時間も経っていないだろう。建物を出ていく間際、広瀬は何かを思い出したように最後に振り返ると、憔悴しきった表情を浮かべながらも矢立と鞍瀬に向かって深々と頭を下げた。夜の歓楽街に再び降り出した大雪の中へと歩き出す広瀬の背が今にも消え入ってしまいそうに見えるのは雪のせいだけではあるまい。 止血を終えたばかりの右手をコートのポケットにしまい込み、とぼとぼと歩いていく広瀬の背を見送る矢立の目はただただ呆然としていた。 ーー自分が、拾わなければ良かったのか。 あの冬の夜、ススキノの隅で命を終えてしまいそうな広瀬を、かつての自分のようだと思って手を差し伸べた。それが全ての間違いだったのか。 自分に拾われなればーー雄誠会に入らなければおそらく広瀬は神原に利用されることはなかっただろう。神原は雄誠会に所属する人間が欲しくて広瀬に近付いただけだ。 自分が拾わなければ、広瀬は神原に貪られることなく、指を欠くようなこともなく、もっと違う人生が送れたのではないか。こんな風に、寂しい背中を見送られる様なことはなかったのではないか。 何か事が起きたら助けてやれば良いと思っていた。以前広瀬が部下に身体を貪られていた時と同じように、危機や暮らしを脅かすものから遠ざけてやれば良いと思っていた。 助けられる、と思っていた。 どうしてこうなってしまったのか。渦巻く後悔に叫び出したくなる。だが、隣には鞍瀬が立っていて、後ろにはヒデを始めとする組の人間達がいる。矢立は声一つ漏らすことが出来ない。 ーーこの後悔と呵責に耐えることが、組を率いるこということなのか。 この決断を下すことが出来なければ、頭になることは出来ないのか。 鞍瀬のように冷酷でなければ、ならないのか。 それならば、自分はーー。 「…ボスは、悪くないっす」 小さな、ごく小さな呟きが耳に届いた。振り返ると、ヒデが唇を噛み締めて立っている。着込んだダウンジャケットの肩が今にも震え出しそうで、痛々しいと思った。 「ボスがいなけりゃ、アイツとっくに死んでたと思います。…だから、ボスは悪くないっす」 視線は雪の上に落ちている。顔を上げることが出来ないのだろう。慰めとも、言い聞かせているともつかない言葉を一息に吐き出し、ヒデは深く白い息を吐き出した。 ーー広瀬は、どこに行くのか。 ヒデと同じように白い息を微かに吐き出しつつ眠りに落ちていこうとしていた広瀬。初めて出会った夜のことを思い出す。あの時広瀬はススキノの端で、なんの躊躇もなく眠りにつこうとしていた。ヒデが言う通り、自分がいなければとっくに野垂れ死にしていただろう。その広瀬は雄誠会を追い出された後に行く場所など、あるわけが無い。 「ーーヒデ、」 神原に情があるとは思えない。雄誠会を出た広瀬を神原が手厚く保護するとは思えない。このままでは、広瀬は。 「頼みが、ある」 携帯電話を取り出す。隣に鞍瀬が怪訝そうな眼差しで矢立を見遣る。その視線に気が付き、矢立は一度目を伏せた後に、鞍瀬と視線を重ね合わせた。 ヒデの言う通りならば、自分は1度は広瀬を救えたことになる。拾ったものは最後まで責任を持てと言ったのはこの鞍瀬だ。ーーまだ、始末は終えていない。 「鞍瀬さん。…すみません」 「…なんだよ」 鞍瀬もまた、先程まで纏っていた怒気をすっかり消している。ひと仕事終えたような瞳を覗き、矢立はきゅっと唇を噛んだ後に白く煙る息を吐く。こんな所で俺に謝るな。口に出すより先に矢立が改めて鞍瀬を見据えた。 「…俺は、…鞍瀬さんのようにはなれません」 自分は、鞍瀬のようにはなれないだろう。 なりたいと思ったことはない。 なれと言われたこともない。 いずれは変わらなければいけないのかもしれない。 だがきっと、少なくとも今は、自分は自分の性質も情も捨てきれない。 非道になり切れないのであれば、違うやり方を身につけなければならない。それは他でもない、自分で探して選ぶものだ。 鞍瀬が目を瞬かせる。腰に手を当て、舞う雪を散らすように短い髪を掻く動作がどこか芝居がかっていたが、様になる仕草だった。 「…知らねえよ。俺の仕事は終わった。…後は、お前の裁量だろ」 鞍瀬は矢立が何をしようとしているのかはわからない。だが、突き放すでもなく、どこか呆れたような軽い苦笑を浮かべて唇に咥えた白筒を揺らした。 その鞍瀬に軽い会釈をしてからヒデを伴って駆け足で事務所の中へと戻る。煤けた壁に掛けられた時計を見上げた。日付が変わる間際だ。時間は、そう多くは残されてはいないだろう。

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