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今夜は随分と酷い雪だ。吹雪いてはいないが、大粒の雪が深々と降り積もって街を覆っていく。明日は朝から事務所の前の雪かきだろうかと思っては、もうあの事務所に戻る理由が無いのだと気が付き途方に暮れる。 いつかの夜も、こうしてとぼとぼとあてどなく街を歩いていた。既視感を覚えるものの、あの夜ーーあの、ススキノの風俗店から追い出された夜は雪が降っていなかった。ただただ冷たい街の中を将未は彷徨い、矢立に拾われた。 どこから間違っていたのだろう。 組を追い出された顛末も、今自分の置かれた事態も、右手の小指を落とされてなお現実感は生まれない。痛みも寒さもほとんど感じない。客引きの軽い声や周囲のはしゃぎ声は将未の耳には入って来ない。狭いススキノの中をうろうろと彷徨い続ける将未は悄然とした面持ちの半分をマフラーの中に埋め込む。温もりと共によく知った香りに包まれ、脳裏には色濃く龍俊の姿が浮かび上がった。だがそれと共に、やはり鞍瀬が自分に突き付けた言葉は頭を巡る。 悪いのは神原だ。 鞍瀬が言っていたことは本当なのだろうか。 龍俊の手に握らされた錠剤を思い出す。あれはただの栄養剤ではなかったのか。雄誠会での違法薬物の取扱は厳禁だという旨はヒデから聞いていた。ロクはあれを違法薬物だと見抜き、だから目の色を変え、秘密だと嘯きついでのように、口止めの代わりに自分の体を貪ったのだろうか。 龍俊は、本当に鞍瀬の言うような人間なのだろうか。 思うと共に、足取りはほとんど無意識に帰路ーーあの龍俊のマンションへと向けられていた。脳裏には龍俊の笑顔がある。全身は、龍俊に買い与えられたコートやマフラーに包まれているままだ。 自分にとってはただ優しかった龍俊。 家をくれ、着るものをくれ、おかえりやただいまを教えてくれて、食卓を囲むことを教えてくれた。 そしてーー好きだと、言ってくれた。 その全てを自分は知らずに生きてきた。知ったそれが嬉しくて、幸せで堪らなかった。 龍俊は、空っぽだった自分に水を注ぎ、満たしてくれた人間だ。何も無かった自分を形作ってくれた男だ。 それら全ては、全部嘘だったのだろうか。 ふと顔を上げると、夜更けの空の下、自分の家として与えられた背の高いマンションがそびえ立っていた。雪の中に窓からの明かりがいくつも浮かび上がっている。自分はいつもあの灯りを目指し、頼りにあの部屋へと帰っていた。今日不在であるという連絡はなかった。帰宅は随分遅くなってしまったが、あの部屋では龍俊が待っている筈だ。 確かめなければいけない。 顔を上げる。深い雪の中、早る心を抱えて歩調を早めて歩き出す。鞍瀬が言っていたことが事実なのかを、龍俊が、悪い人間なんかじゃないことを確かめなければいけない。 確かめて、そうしていつものように食卓を囲み、また抱き締めて貰いたい。 肩に雪を載せたままエントランスを潜り、キーを差し込む。慣れた筈のエレベーターが随分遅く思えた。急く思いを携えたまま箱を降り、玄関のドアの前に立つ。一度目を瞑り、深い呼吸をしてからドアを開けた。 「…ただいま、」 「おかえり」 玄関は暗いが、リビングから漏れる灯りが線のように伸びている。そこに視線を落としていた将未は、家主の手によって付けられた照明の眩しさに目を細めた。顔を上げると、龍俊がこちらへと歩み寄ってきている。いつもと同じ、笑顔だった。 「龍俊さん、…あの、」 「心配したんだよ?遅くになっても帰って来ないし連絡もないから。…位置情報調べたらなんか街の中うろうろしてるみたいだし、」 片手に握られていた携帯電話に視線を落とす。気のない素振りで親指のみを動かす動作が酷く怠惰な様子に見えた。将未には、龍俊が言っている意味はよくわからない。 「おかしいなと思ってさ、豪能の人に探り入れて貰ったんだけど…、…将未、失敗、しちゃったんだ?」 「ーー…」 何かを言い出そうと口を開いた将未の先手を取る形で龍俊が声を紡いだ。その一言で早くもさっと体温が引く感覚に立ち尽くす将未に見せつけるようにスマートフォンをポケットに収めた龍俊は両腕を組み、気だるげに壁に背を預ける。やや顎を上げて喉を鳴らし、前髪を掻き上げた。 「全部聞いたよ。さすがに雄誠会も同じ手には引っ掛かり切らなかったなあ。俺も甘かったけどさ。次はまた別の手を考えなきゃダメだね」 はは、と声を上げ、乾いた声で笑う龍俊を将未は呆然と見つめている。何が面白いのかわからない。その答えを寄越すように、龍俊はスイッチを切るように笑みを消した。 「まさか雄誠会の中でも1番ろくでもない奴にあれ売るとは思わなかったなあ。せっかく預かったクスリぜーんぶ豪能経由して雄誠会と仲良しの鳳勝に行っちゃうなんて俺も想像してなかったよ」 将未の頭の中で少しずつ状況の輪郭が作られてく。雄誠会の事務所で聞かされた話や、ロクや鞍瀬、矢立の顔が浮かんでは消えていく。視線を上げた龍俊と目が合った。瞳が、笑っていない。 「ーーほんと、ダメだね。将未は」 「……龍俊、さん、」 膝が震える。崩れ落ちそうになる体を支えているものは既に何かはわからない。縋りつきたくなる指を耐え、ポケットの中で拳を握ると失くしたばかりの小指の付け根が酷く痛んだ。思わず顔を顰める将未の表情を見逃さず、龍俊は自分の指の欠けた手を見せつけるようにひらつかせる。指が、1本足りていない。 「俺とお揃いになって追い出されたんだね。雄誠会。ほんと、野蛮で古臭いなあ。ヤクザって」 「……」 あまり見たことのなかった龍俊の右手を将未はぼんやりと目で追っている。龍俊は自分に触れる時も、箸やフォークを使う時も、いつも左手を使っていた。左利きの理由はごく簡単なものだったのだろうか。それは将未のような真新しい傷跡ではない。あの指はいつ失くなったのだろう。どこか明後日のことを考える将未に聞かせるように、龍俊は浅い溜め息を吐き出した。 「それじゃあ、おしまいだね」 「龍俊さん、」 「雄誠会の将未じゃないなら、もう用はないんだよ。わかるでしょ?」 頭の中が白くなる。理解できるが、理解が出来ない。自分は。何か声を発すると震えが伝わってしまいそうで、ただ口を噤んだ。 「ーーもう、要らない」 「…あ、」 「将未は、もう要らないよ」 お前はもう要らない。いつか誰かに言われた声が蘇った。 自分は、もう要らない人間なのか。 そうか、と腑に落ちたのはこれが初めてだからではないのだろう。自分は以前もこんな風に誰かに告げられ、居た場所を追い出された。 縋って確かめるまでもない。今まで自分が見ていた龍俊は偽っていた龍俊で、きっとこれが本当の龍俊の姿なのだろう。簡単な事だ。それくらいのことは自分でも解る。 鞍瀬が言ったとおりだ。鞍瀬は全て知っていた。龍俊は全てを握っていた。矢立はどうだろう。 少なくとも。 少なくとも、自分だけが何も知らずにいたのだろう。 そうか、小さく呟いた。体から力が抜けていく。崩れ落ちそうになる体を堪えて目を伏せる。そうか。もう一度納得させるように口の中で呟いた。顔を、上げた。 「ーー嘘でも、…良かったんだ」 「…あ?」 小さな笑みが浮かんだ。泣いてしまいそうな胸の熱さを耐え、笑う。泣いてはいけない。幼い頃に言い聞かせられたあれは正しかった。自分は決して泣いてはいけないのだろう。 「嘘でも、良かった、」 「……」 「嘘でも、…幸せ、だったから、」 怪訝な目をしていた龍俊の表情が微かに変化した。眉を寄せる相貌に困ったように笑う。 「ただいまとか、…夜ご飯を、一緒に食べる、とか、…俺はそんなこと全然知らなかった。…誰かに、好きだって、…好きだなんて言われたことがなかったから、…嬉しくて、…全部、幸せだった」 この部屋で起きていたこと全て、幸せだった。 暖かい明かりも、食事も、抱き締めてくれる腕も、全て知らずに生きていた。枯れた胸の底に龍俊は水を注いでくれた。それが例え嘘偽りでのみ造られたものでも、知らずに生きていくよりは、ずっと良いのだろう。自分の幸せはこの部屋にあった。ーーだから、十分だ。 声が掠れる。泣きたくなる。堪える為に飲み下し、俯いた。 「俺はそんなこと知らなかったから。…龍俊さんが全部教えてくれたから、知ることが出来た。…知れて、良かった。…だから、」 知らずに死ぬよりはずっと良い。幸せも喜びも、ちゃんと知ることが出来た。だからーー例え今死んだとしても、自分はきっと、寂しくも怖くもない。 言葉を探す。見つけたそれを、そっと口にした。 「ーーだから、…ありがとう」 「…っ、」 龍俊の表情が、歪んだ。苦しげな表情に将未は不思議そうに首を傾げかけるも、ポケットの中で触れた硬さを持ち上げる。龍俊に持たされていたスマートフォンを取り出し、同じくポケットの中にしまい込んでいた部屋のキーと共に音も立てずに傍らのサイドボードの上に置いた。自分が発した言葉によって体が支えられた。次の言葉はすぐに見付けることが出来た。 「……さよなら、」 顔は上げられない。龍俊の目を見ると泣いてしまいそうだった。ほとんど消えてしまいそうな声で告げ、背を向ける。ドアを開き、そのまま廊下に出る。振り返らずに、さっき歩いたばかりの道を辿った。 ドアが閉じようとした刹那、龍俊の胸が高く鳴った。 「っ、将未、」 突き動かされて名を口にし、歩み出そうとした龍俊の前で玄関のドアが音を立てて閉まる。その咄嗟の自分の行動に馬鹿な、と自嘲しようと笑みを浮かべようとするも上手くいかない。 将未はどんな顔をしていたのか。俯いてしまうその姿では伺うことは出来なかった。 安樂からの指令を受け、取っ掛りを探していたところに偶然現れたのが将未だ。 あれはただのいつもの獲物で、最後にはいつもこうして、自分に騙されたことを知っては泣きべそをかく相手の顔を見て嗤うことが仕事の締めくくりだった。その事で快楽を覚えたことはない。ただそれが決まりごとのようにあっただけだ。 それなのに将未は、思いもよらないことを口にした。 幸せだった。ありがとう。 もの知らずの将未。馬鹿なことを言う、と笑ってやれば良かった。もっと酷く、以前同じように引っ掛けた誰かにしたように薬漬けにしたって良かった。あんな言葉を口にすることすら出来ないように、もっと酷い目に遭わせて痛めつけてやれば良かった。安樂に引渡し、始末を依頼しておくべきだった。 そうしておけば。 そうしておいたのなら。 こんな風に、胸が苦しくなるなんてことは無かったに違いない。 「くそ…っ、」 憤りに任せて壁を叩く。だが、自分がどうしてこんなに苛立っているのかもわからない。罪悪感など感じたことはない。いつものように仕事を一つ終えただけだ。いつかそのうち、また誰かを嵌めて使って生きていく日々が始まるだけだ。 自分はどうして将未に手をくださなかったのか。 龍俊の胸の中に渦巻く感情が去っていかない。一人残された玄関にリビングからの灯りが差している。あの明かりの下に将未が戻ることはない。ぼんやりと思っては、ただ呆然と立ち尽くした。

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