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エントランスを潜り、また雪の街へと足を踏み出す。夜が明けたのか、空は微かに明るくなっている。雲の中から微かに覗く朝焼けを見上げるように顔を上げ、どちらへ行こうかと辺りを見渡してみるも、ススキノへは戻れまいと直感が告げる。戻った所でどこに行けば良いのかわからない。
路地を行き、広い通りが伸びる大通りまで来てまた景色を見渡した。相変わらずよく降る雪の中、街の景色は白く覆われている。朝方の駅前通りを目にしたことがない訳では無い。だが、自分は今まであまりにもススキノの夜しか知らなかったのだと思い至る。
広がる空気や景色はススキノのそれとは種類が違う。こんな風に、空気の澄んだ明るい朝を歩くのはいつの事以来だろうかとぼんやりと思い巡らせると、記憶は昨年のクリスマスイブの夜に行き着いた。隣には龍俊がいて、導かれるままに夕食を取り、豪勢なホテルに泊まった次の日のことだ。朝早く起き、ほとんど人目が無いことを良いことにクリスマスの朝の街を腕を組んで龍俊と歩いた。
夢のようだったと思う。ともすれば、現実の事だったかも疑ってしまいそうであったが、あれは確かに現実だった。
一度ススキノの方面を眺めてから背を向けた。正面にはこの街で最も大きな駅舎が遠くに見える。雪の中、ゆっくりと歩み始めた将未の周囲には人気はない。早朝のことだ。街や人が動き出すにはまだ早い。しんしんと降る雪の中、将未は独り、なお明るい場所を目指すように歩いていく。
ーー思えば、自分から誰かの元を去るのは初めての事だった。
いつも捨てられ、追い出されていたから別れの言葉を告げる機会もなかった。自分の意識とは別に人との別れはやって来て、将未はただ放り出されるだけだった。
無意識のものではあったが、自分からさよならを口にすることが出来て良かった。
もし龍俊の口から同じ言葉を告げられていたのならーー自分は、きっと、泣いてしまっていた。泣いてももう、龍俊は抱き締めてはくれないのだから、あの場で泣かずに済んで良かった。
ポケットの中の両手を緩く握り締める。雪は降ってはいるが気温はそう低くはないだろう。それでも冷えた空気は身一つで歩む将未の体を戯れに冷撫でていく。
自分は、今度こそ何も持たなくなってしまった。
雄誠会という所属先を無くし、龍俊という場所を無くした。龍俊という場所に至っては、自分1人が居場所であると思い込んでいただけなのだろう。
15の時からずっと傍らにあったボストンバッグはあのマンションに置いてきてしまった。まさか取りには戻れまい。寒さを避ける為に鼻を埋めるマフラーも、身を包むコートも、全て龍俊に買い与えられたものではあるが、これも返すべきだったのだろうか。尻のポケットの中の財布には今いくら入っていただろう。考えてみるも、寒さのためなのか思考が覚束なくなる。そもそも自分は今どこに向かっているのか。どこへ辿り着いたとしても、生きていく術など持っていないというのに。
何も無い人生だ。
所属も住処も失ってしまうと、自分は呆気なくまた何も持たない人間に戻ってしまったらしい。そもそも始めから、自分の人生や存在自体が虚構や幻のような存在だった。だから今は、また以前の自分に戻っただけの事だ。
龍俊が与えてくれたものは、全て虚構だったのだろう。それでもーー自分は幸せだった。
龍俊に告げた言葉に偽りはない。虚構であっても、あの部屋の中にあった全ては自分にとっての初めての〈家〉の温かさだった。将未はただひたすらに、空間に満ちた幸せを甘受していた。
今はただ、龍俊が同じ気持ちでいなかったということが悲しくて寂しい。出来ることならば、龍俊も自分と同じように幸せだと思っていて欲しかった。
一抹の我儘に知らず口元が弧を描く。この期に及んで、と苦笑してはポケットの中で指先を擦る。小指がない事の違和感はいつ消え去るのだろう。もしかすると、違和感に慣れるより先に自分はこのまま1人で死んでいくのかもしれない。
未練は。
「…龍俊、さん、」
真っ平らな心の中、唯一引っ掛かったそれを、口にした。
何も無い人生の中での未練は形となって残っている。例えあの部屋の暮らしが虚構でも、全てが嘘でも、自分は龍俊が好きだった。想いが簡単に消えるわけは無い。龍俊が極悪人であっても、自分を騙して奪い取るだけの人間であっても、龍俊への想いは変わらない。その想いを、鞍瀬や、龍俊は愚かだと笑うだろうか。また会いたいと願う自分は、きっと笑われても仕方がない。
耐えかねたように、来た道を振り返った。多少の車通りはあるが、相変わらず人の通りはほとんど無い。白く、広い道に自分の足跡だけが頼りなく残っている。
自分は、どこに行けば良いのだろう。
行く場所なんて何処にもない。肩に積もる雪もそのままに、将未はいよいよ途方に暮れたように立ち尽くした。
足を止めたその刹那、突然背後で甲高いクラクションの音が鳴り響いた。
「ーー広瀬!」
早朝の街には相応しいとは思えないクラクションに驚き、振り返ると今度は耳慣れた声が飛んできた。雪の中、乱暴に車道に横付けした外車の運転席から転がるように男が降りてくる。ヒデだった。
「…ヒデさん…?」
「良かった。見付かった。奇跡みてえだ」
面倒見の良い兄貴分は、将未を見上げてくしゃりと顔を歪めたものの、すぐに無理矢理に笑顔を作り、お前の家を知っていて良かったと呟く。驚く将未の正面に立ったヒデは慌てた動作で自分のダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、1枚の小さな紙を握らせた。
「これ。昨日あの後駅に走って取ってきたんだ。汽車ぁ、取ったから。ちゃんと駅員に見せんだぞ。案内してくれって言うんだぞ」
「…汽車…?」
手の中に渡された紙に視線を落とす。カード状のその中心に、「札幌→留萌」と大書きされていた。目を瞬かせる将未に向かってヒデは真剣な目をして続ける。
「お前これ乗って留萌行け。始発だからな。今から行きゃ余裕で間に合うから。汽車乗って、留萌行ったら向こうで本城って奴が待ってるから。そいつにお前のこと頼んだ。だから、」
ヒデの息が上がっている。声音は次第に必死さを帯びていく。白く吐き出される息が詰まり、ヒデは再び何かを耐えようとする為にきつく眉根を寄せた。ぐ、と奥歯を噛み締めると顔を上げ、両腕を伸ばして将未の首に絡め、抱擁した。
「だから、…死ぬんじゃねよ。お前は死んじゃダメだ」
「ーー…」
これまで与えられたものとは異なった意味の抱擁の中、将未は人に言われてから初めて、ああ、自分は死んでも構わないのだと思っていたのだと気が付く。
未練こそあれど、自分が死んでも、生きていても何も残らない。誰も思い出す人はいないだろう。ずっとそんな風に生きていた。どれだけ人から優しくされても、経験を積み上げても、その意識は胸の奥に蹲る。だからこそ今もあてどなく歩き続けていた。
だがここに、自分のことを救おうとしている人がいる。自分の次の場所を探し、導き、死ぬなと告げる人がいる。
ーーヒデはずっと、自分を大切にしてくれた。初めて出会った時からずっと親切にしてくれた。楽しいことや、愉快なことを教えてくれたのは決して龍俊だけではないというのに。忘れかけていたことを思い出すことが出来て良かった。
胸が熱くなる。誰かが自分を気にかけてくれていた。それだけでもう十分だと思い、握らされた片道切符を大切にしまいこもうとする。肩越しに顔を上げると、ヒデが降りてきた車が停められている様が見えた。ハザードランプに双眸を細めつつもよく目を凝らすと、その後部座席に身を沈める男の姿が見える。面立ちは、よく知っている男のものだった。
「……ボス、」
矢立が、心配で堪らないと言った視線で自分達を見つめている。その目に思わず、ああ、やはり自分は幸せ者だと穏やかな笑みが零れた。あの人に拾われなければ、自分はとっくに死んでいた。龍俊にもきっと出会えなかった。
自分は、幸せ者だ。
「広瀬、」
「…ヒデさん。…ありがとう、ございました」
ヒデの腕が柔らかく解けていく。また一人道に立つ将未は深々と頭を下げた。落ちる雪を目で追ったヒデの相貌がとうとう悔しげに歪んでしまう。1度頭を上げた将未は、今度は離れた位置にある車の中に向かって頭を垂れる。その深く下げられた後頭部にヒデが呟いた「ごめんな、」の声は周囲の景色の中に掻き消されてしまった。
「…良かったんですか。見送らんくて」
雪は、ヒデが将未と別れる時を待っていたようにぱたりと止んだ。朝焼けの中に歩き出した広瀬の背を見送ってから運転席に戻ったヒデは暖房の温かさに息を吐きつつ、バックミラー越しに矢立を見遣る。後部座席から動かなかった矢立は、1人歩いていく広瀬の背をじっと眺めている。
一人なんの憂いもなく死んでしまいそうな広瀬を放り出すような事はしたくはない。だが、雄誠会を破門になった上に、神原と関係の深い豪能組が存在する以上はススキノはもとより、札幌に居続ける事も危険が伴う。神原や豪能組が必要のなくなった広瀬を放置しておく可能性はどれくらいあるだろう。考えるよりも先に声が出た。留萌にいる元構成員は信頼出来る男だ。矢立が直接交渉した電話の向こうで、本城は静かに諾と頷いていた。
矢立が鼻から息を抜く。仕事という仕事はしていない。だが、精神的な疲労は見て取れた。運転席のヒデはシートに深く背をもたれて同じように広瀬の背を眺める。
長い間この人の側にいて良かった。だからこそすぐに意を汲み取り、動くことが出来る。
矢立が命じたことをヒデは速やかに行った。すぐに留萌行きのJRの切符を抑えろと向けられ、終電過ぎた駅に駆け込み、ほとんど無理矢理留萌行きの切符を抑えた。
阿吽の呼吸まではいくまい。だが、ヒデにはヒデなりの自負がある。現在の矢立の側近は自分だ。この場所はこの人のーーヤクザらしからぬ優しさを、目の当たりにすることが出来る。
ヒデは感情の機微には疎い。人間の性質には頓着しない。だが、鞍瀬が時折口にする矢立の甘さの意味は理解できる。それでもーー甘さは、弱さではないだろう。
「俺は、…間違ってたんだろうか」
不意に矢立が呟く。体を起こし、路肩に停めた車をゆっくりと動かしながらヒデは前方を見据える。広瀬の背中はゆっくりとではあるが、真っ直ぐに駅に向かって歩いていた。
「ボスが間違ってたことなんて、ありません」
自分は間違っていたのかなど、少なくともヤクザを束ねる人間が口にしてはならない事だ。しかしそれを口にする矢立だから、ヒデは側にいる。
間違いを犯し続ける人間であれば、破門にした人間の先を憂い、先の道筋を世話することもないだろう。逡巡と躊躇いに揺れながらでも、道を作る姿が好きだ。
一人巡らせる思いの擽ったさに口元を緩めて笑った。ミラー越しに目を合わせる。
「もし間違ってたとしても、俺はボスに着いていくだけっすから」
「ーー…、…ありがとう。ヒデ」
真っ直ぐに謝意を口にする矢立にヒデが照れて額を掻く。車は大通りで方向転換をしてススキノへ向かう。1度振り返った矢立の目にはもう、広瀬の背中は見えなくなっていた。
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